42章 目覚めない男たち
救護室の中は静かだった。
ダンを含む三人がベッドに寝かされている。呼吸はしている。脈も安定している。熱も極端に高いわけではない。
それなのに呼びかけても反応しない。
ゼドがダンの瞼を開き、瞳孔を確認する。続いて脈を取り、胸に耳を当てる。
「脈は悪くねえ。呼吸もしてる。熱も大したことねえ」
「じゃあなんで……」
アレンがゼドの背後で呟く。
「それが分かりゃ苦労しねえよ」
ゼドはそう言って顔を上げただけだった。
アレンがベッドの横に立ち、ダンの名前を呼んだ。
「ダンさん」
反応はない。
もう一度呼ぶ。
だがダンのまぶたはピクリとも動かなかった。
俺はベッドへ飛び乗り、ダンの顔へ近づいた。
甘ったるい鉄錆の匂いがまだする。だが、森の中で嗅いだあの強烈な匂いとは違う。
(薄くなってる?)
* * *
昨夜一人だけ帰還した冒険者が椅子に座っていた。左腕の傷は包帯で巻かれ、意識ははっきりしている。
ゼドが彼に質問した。
「森を出てから身体はどうだ」
「昨日よりはずっと楽です。最初は息が苦しかったんですが、町に着いてから少しずつ楽になって」
俺は男の足元へ近づき、鼻をひくつかせた。
昨夜よりも鉄錆の匂いが薄い。かなり薄くなっている。
俺はダンのベッドへ戻り、再び匂いを嗅いだ。
ダンからはまだはっきりとあの匂いがする。
帰還した男は意識があり、匂いは薄い。
ダンたちは意識がなく、匂いはまだ残っている。
(関係あるのか?)
もう一度ダンの方を見る。
分からない。けど気になる。
* * *
診察が一段落し、エマとレオはいったん救護室を出た。だがアレンだけはダンの傍らに残った。俺も残る。
アレンは椅子に座り、眠ったまま動かないダンを見つめている。
「森を見て帰ってくるだけだって言ったのに」
アレンが小さく言った。
俺はアレンの足へ身体を寄せた。アレンの手が俺の頭を撫でようとして、途中で止まる。
「……また帰ってこないのかと思った」
その声は小さかった。
俺は何もできず、アレンの足に身体を押しつけた。
「でも生きてて本当によかった」
アレンはそう言って、眠ったままのダンを見る。膝の上で握られていた拳が少しだけ緩んだ。
(そうだ。生きてる)
ダンの胸はちゃんと上下している。
* * *
アレンがエマたちに呼ばれて一度救護室を出た。俺だけが少し残る。
リリアが水や布を交換しにやってきた。
俺は再びダンの匂いを嗅ぐ。
リリアがその様子を見ていた。
「また匂い嗅いでる」
俺が顔を上げると、リリアが俺を見ている。
「昨日の人の時もやってたわよね」
俺は止まった。何も答えられない。
「あんたが言葉を話せたら便利なのにね」
リリアが何気なく言った。
(それは俺もいつも思うよ)
リリアはダンの方へ向き直り、汗を拭うように額へ濡れた布を当てた。
「ちゃんと起きなさいよ」
いつもの尖った声よりずっと小さかった。
俺はリリアの横顔をしばらく見ていた。
* * *
午後になり、ギルドのホールで緊急会議が開かれた。
ゴードン、ゼド、マリア、ベテラン冒険者数名がテーブルを囲み、黒猫団もその端で状況を聞いている。
テーブルには北東の森周辺の地図と、ここ数日で上がった報告書が並べられていた。動物の移動。傷のない死骸。そして昨日の調査隊。どれを見ても、肝心なところだけが抜け落ちている。
「魔物じゃないのか?」
一人の冒険者が言った。
「だったら何の痕跡も残さず、ウルフ十匹以上と冒険者までまとめてやる魔物ってことになる。この辺りじゃ聞いたこともねえ」
ゴードンが腕を組んで返す。
「呪いとかじゃねえのか?」
別の冒険者がゼドに向かって言うと、ゼドが首を振った。
「知らん。俺は治療師だ。分からんものを分かったふりする気はねえ」
ゼドの言葉にその場が静まった。
ゴードンが立ち上がった。
「北東の森を全面立入禁止区域にする。冒険者だけじゃねえ。狩人も木こりも薬草採りも入れるな。周辺の農家にも知らせろ」
「それと、ローベスだけで処理できる案件じゃないかもしれん。上へ報告を送る。専門の知識を持つ者を呼ぶ」
「原因が分かるまで誰も森に入れるな」
ゴードンの声に反対する者はいなかった。
* * *
会議が終わろうとした時、救護室からリリアが走ってきた。
「ゼド先生!」
全員の視線が集中する。
「ダンさんたちに変化があったわ」
黒猫団も救護室へ向かった。
ダンはまだ目を覚ましていない。だがアレンが呼びかけた瞬間、ダンの眉が僅かに動いた。そして指先が微かに動く。
ゼドが確認する。
「反応が戻ってきてる」
「じゃあ……」
アレンが前へ出る。
「まだ安心すんな。ただ悪くなってるわけじゃなさそうだ」
俺はダンへ鼻を近づけた。
(朝より薄い)
帰還した男も町へ戻ってから楽になったと言っていた。匂いも薄くなっている。
(やっぱり何か関係あるのか?)
「にゃあ……」
分かったところで俺には伝えられない。
* * *
夜。
アレンの家へ戻った。アレンは疲れてベッドで眠っている。
俺は窓辺に座り、北東の森を見た。
北東から風が吹いた。
俺は鼻を上げる。
……微かに、あの匂いがした。
森で嗅いだものとは比べものにならないほど薄い。それでも、確かに同じ匂いだ。
ダンから消えかけている匂いが、森からは今も流れてくる。
今日森を出る前、あの匂いはさらに奥から流れてきていた。
俺は眠っているアレンを振り返る。
(まずはダンが起きてからだな)
今夜は俺もベッドへ戻ることにした。