拾われてから五ヶ月が経った。
いつも寝転がっているソファの背もたれも、以前より少し狹く感じるようになった。
雨の路地裏で震えていた子猫の身体は、今では艶のある黒い毛に覆われた若猫へと育ちつつある。
最近では近所の野良猫連中にも顔が利くようになり、それなりに縄張りも確立してきた。グレッグにもらった鈴だけが、子猫の頃から変わらず首元でちりんと鳴っている。
(猫ってのは、こんなに自由でいい生き物なのか)
俺はいつもの特等席で、ぐでっと寛ぎながら、そんなことを考えていた。
「クロ、今日もいい天気だね」
アレンが、装備を身につけながら声をかけてきた。ぼろぼろの革鎧に、腰には手入れの行き届いた短剣。
背中には、父の形見である長剣も背負っている。
以前はまだ扱いきれなかった長剣も、ダンとの訓練のおかげで、今ではなんとか振れるようになってきた。十四歳の見習い冒険者——彼は今日もギルドで何か仕事をもらうつもりらしい。
「にゃあ」
俺は返事のつもりで一声鳴いた。アレンは嬉しそうに笑って、俺の頭をそっと撫でる。
「今日はね、クロも一緒に来てほしいんだ」
(おや?)
俺は耳をピンと立てた。以前は留守番を言いつけられて、こっそり後を追ったんだったな。
「実は昨日、マリアさんに言われたんだ。前に失敗した月光草の依頼、もう一度挑戦してみないかって」
アレンの声は少しだけ緊張していた。あの時、初めての依頼でゴブリンに遭遇し、命からがら逃げ帰った記憶が蘇っているんだろう。月光草は一株しか持ち帰れず、依頼としては失敗だった。
「にゃあ」(いいぜ、行こう)
俺は窓辺から飛び降りて、アレンの足元にすり寄った。鈴がちりん、と鳴る。
「ありがとう、クロ。きみが一緒なら心強いよ」
アレンはしゃがみ込んで、俺の耳の後ろをかいた。そこは猫になってからの弱点で、触られると無性に気持ちいい。俺は思わず、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。
(くそっ、猫の本能には逆らえない)
でも、まあ、こういうのも悪くない。
* * *
外に出ると、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。初夏の陽射しがじりじりと照りつけ、石畳の道がほんのりと熱を持っている。市場の方からは商人たちの威勢のいい声が聞こえてきて、いつも通りの賑やかな朝だった。
ギルドに着くと、相変わらずの喧騒が俺たちを包み込む。むわっとした熱気と、汗と酒と鉄の匂い。最近ではこの匂いにもすっかり慣れて、むしろ落ち着くまである。
「おはようございます、マリアさん」
アレンは受付カウンターに向かって声をかけた。
「あら、アレンくん。クロちゃんも一緒ね。昨日話した依頼、受けてくれる?」
マリアはにっこりと微笑みながら、一枚の羊皮紙を取り出した。見覚えのある依頼書だ。以前とほぼ同じ内容——東の森で月光草を五株採取、報酬は銀貨三枚。
「はい。前に失敗した依頼ですから、今度こそちゃんと達成したいんです」
アレンの声は真剣だった。前回は声が震えていたけど、今は違う。ちゃんと自分の意思で、この依頼を受けようとしている。
「いい心がけね。それと、注意事項は前と同じよ。森の入り口付近でゴブリンが目撃されてるから、見かけたら深追いしないこと。無理だと思ったら、すぐに引き返してきてね」
「はい、肝に銘じます」
アレンは力強くうなずいて、依頼書を受け取った。
「クロちゃん、アレンくんのこと、しっかり見守ってあげてね」
マリアは俺に向かってウインクした。
「にゃあ」(任せとけ)
俺は一声鳴いて、尻尾を振った。鈴がちりん、と鳴る。
* * *
東の森は、町から歩いて三十分ほどの場所にあった。
前回と同じ、鬱蒼と茂る木々。同じ、じめじめとした空気。同じ、不気味な静けさ。でも、前回と決定的に違うことが一つある。
「よし、クロ。気をつけて進もう」
アレンは落ち着いていた。以前のように、無闇に怖がって周囲をキョロキョロ見回したりはしない。足取りはしっかりしていて、腰の短剣に手を添えながら、慎重に森の入り口を進んでいく。ダンとの訓練で、警戒しながら進むことを覚えたのだ。
(成長したな、こいつ)
俺はアレンの少し後ろを歩きながら、猫の感覚をフルに研ぎ澄ませて周囲の気配を探った。風の流れ、木の葉の擦れる音、地面を這う虫の足音。今のところ、ゴブリンの気配はない。
「月光草は……確か、このあたりに生えてたはず」
アレンは地図を確認しながら、前回月光草を見つけた場所へと進んでいく。あの時は一株しか採れなかった場所だ。もしかしたら、まだ残っているかもしれない。
「あ、あった!」
アレンが指さす先に、青白く光る小さな花が咲いていた。月光草だ。しかも、今回は一株だけじゃない。その周りに、ぽつぽつと何株か散らばっている。
「よかった……前はここでゴブリンに出くわしたから、採れずに逃げちゃったんだよね」
アレンは少しだけ寂しそうに笑って、慎重に花を摘み取っていく。以前は花だけを摘んでしまったが、今は根元から少し上を短剣で切り、薬効のある葉と花を傷めず採取していく。ギルドの手伝いで何度も薬草の扱い方を学んだ成果だろう。
「これで一、二、三……四株か。あと一株で依頼達成だ」
アレンはポーチに月光草をしまいながら、額の汗を拭った。ここまでは順調だ。あと一株見つければ、前回のリベンジは成功する。
「クロ、もう少しだけ奥を探してみよう。倒木の周りなら、日陰を好む月光草が生えているかもしれない」
アレンは地図をしまって、森の少し奥へと足を進めた。以前ゴブリンに遭遇した場所のすぐ近くだ。彼の背中には、ほんの少しだけ緊張が走っている。でも、引き返そうとはしなかった。
(無理はするなよ)
俺は心の中で呟きながら、アレンの後を追った。
* * *
倒木の近くまで来ると、確かに月光草が一株、ひっそりと咲いていた。これで五株目。依頼達成だ。
「よかった、これで全部揃った……」
アレンがほっと息をついた、その時だった。
「グギャッ」
茂みの奥から、聞き覚えのある醜い声が響いた。それと同時に、腐った肉のような異様な悪臭が漂ってくる。間違いない。ゴブリンだ。
「クロ、下がって!」
アレンは素早く俺を庇うように前に出ると、腰の短剣を抜いた。その動きには、以前のような迷いがない。背中の長剣には手を伸ばさなかった。森の中では短剣の方が小回りが利くと、ちゃんと判断している。
「グギャ……」
茂みの奥から現れたのは、一匹のゴブリンだった。前回は三匹だったが、今回は一匹だけ。手には錆びた短剣を持っていて、黄色い目がぎらぎらと俺たちを睨んでいる。
(このまま戦えば、倒せる可能性はある。だが、ここは森の中だ)
俺はアレンの後ろで、戦闘の準備を整えた。いつでも飛び出せるように、足に力を込める。
「グギャア!」
ゴブリンが、錆びた短剣を振りかざして突進してきた。その動きは、以前と変わらず単調で、ただ一直線に突っ込んでくるだけだ。
「ふっ!」
アレンは短く息を吐き、身を沈めて横へ飛んだ。伸びていた小枝が頬をかすめ、細い傷が走る。でも、アレンは気にしなかった。隙だらけになったゴブリンの脇腹に、短剣の刃で浅く切りつけた。
「グギャア!?」
ゴブリンは痛みにひるんで、たたらを踏んだ。でも、まだ倒れない。短剣を振り回して、再びアレンに襲いかかろうとする。
(深追いはするな。今はまだ、無理に倒そうとしなくていい)
俺は心の中でアレンに呼びかけた。
「クロ、撤退するよ!」
アレンは俺の考えを読んだかのように叫んだ。彼はゴブリンから距離を取ると、来た道へ向かって走り出した。俺もそのすぐ後を追う。
「グギャ! グギャア!」
ゴブリンは後ろで叫んでいるが、追いかけてはこなかった。多分、さっきの一撃で怯んだんだろう。無理に追う気はないらしい。
* * *
森の入り口まで戻ってくると、アレンは肩で大きく息をした。
「はあ、はあ……大丈夫だったかい、クロ?」
「にゃあ」(ああ、問題ない)
俺は一声鳴いて、アレンの足元にすり寄った。彼の手は少し震えていたけど、以前のように真っ青になったりはしていない。
「ゴブリンに一撃を当てられた……それに、ちゃんと撤退の判断もできた」
アレンは自分の手を見つめて、ぽつりと言った。その声は、驚きと、喜びと、少しの自信が入り混じっていた。
「にゃあ」(ああ、よくやった)
俺はアレンの手をぺろりと舐めた。汗で少ししょっぱいけど、今は気にならない。
「ありがとう、クロ。きみが一緒にいてくれたから、怖くなかったよ」
アレンはしゃがみ込んで、俺の耳の後ろをかいた。その手は、まだ少し震えているけど、以前とは違う。恐怖だけじゃない、達成感のある震えだ。
「さあ、ギルドに戻ろう。前に失敗した依頼を、今度は達成できたんだ」
アレンは立ち上がって、ポーチの中の月光草を確認した。五株、全部無事だ。逃走中に潰れたりもしていない。
「にゃあ」(上出来だ)
俺は一声鳴いて、アレンの肩に飛び乗った。鈴がちりん、と鳴る。
* * *
ギルドに戻ると、マリアが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい、アレンくん! 顔色がいいわね。うまくいったんじゃない?」
「はい! 月光草、五株全部採れました!」
アレンはポーチから月光草を取り出して、カウンターに並べた。青白く光る五株の花が、受付カウンターの上で静かに輝いている。
「まあ、立派な月光草ね。しかも五株全部。これは文句なしの合格よ」
マリアは月光草を一株ずつ検品しながら、嬉しそうにうなずいた。
「もしかして、森で何かあった? 服が少し汚れてるし、顔に小さな傷があるわよ」
「あ、はい。実は、最後の一株を採る時にゴブリンに遭遇したんです。でも、一匹だけだったので、一撃を与えて追ってこないうちに撤退しました」
アレンは少し照れくさそうに言った。
「一撃を与えて、すぐ撤退したのね。いい判断よ、アレンくん。倒せそうに見えても、森では仲間が潛んでいる可能性があるもの」
マリアは目を細めて、アレンを褒めた。
「はい。ダンさんとの訓練のおかげです。それに、クロが一緒にいてくれたので、怖くなかったんです」
アレンは俺の頭を撫でながら、誇らしげに言った。
「そう。クロちゃんも、ありがとうね。それじゃあ、報酬の銀貨三枚よ。それと、今回の報告で、森の入り口付近にまだゴブリンが出ることが改めて確認できたから、調査報告料として銅貨五枚を追加するわ」
マリアはカウンターの下から、銀貨三枚と銅貨五枚を取り出した。
「あ、ありがとうございます!」
アレンは報酬を受け取ると、嬉しそうに何度も頷いた。
「それと、アレンくん。もしかしたらギルドで討伐隊を編成することになるかもしれないから、その時は詳しい場所を聞かせてね」
「はい! 喜んで!」
アレンは元気よく返事をした。その顔には、もう以前のような不安はない。代わりに、次の目標に向かう決意が満ちていた。
* * *
ギルドを出ると、空は茜色に染まっていた。夕暮れの市場は、買い物客で賑わっている。
「クロ、今日は本当にありがとう。きみが一緒にいてくれたから、僕、ゴブリンに立ち向かえたよ」
アレンは俺を抱き上げて、嬉しそうに言った。
「にゃあ」(当然だろ。俺はお前の相棒だからな)
俺は一声鳴いて、アレンの頬に頭を擦りつけた。
「さあ、今日の報酬で、クロに美味しい山羊乳を買ってあげるね。それから、僕も久しぶりに温かいスープを飲もう」
アレンは市場に向かって歩き始めた。その足取りは、以前よりもずっと力強い。
(今日は頑張ったんだ。しっかり食べるんだぞ)
心の中でねぎらいの言葉を入れつつ、俺はアレンの肩の上で丸くなった。
* * *
露店で山羊乳とスープの具材を買い、俺たちは家へ戻った。
「今日は本当にいい一日だった。前に失敗した依頼を、今度は達成できたし、ゴブリンにも立ち向かえたし」
アレンは温かいスープを飲みながら、満足そうに笑った。
「にゃあ」
俺は返事をして、皿の山羊乳を舐める。
前回は一株だけ。今回は五株全部。
ゴブリンを倒したわけでも、派手な手柄を立てたわけでもない。
それでも、恐怖に立ち尽くしていたあの日とは違う。
(ちゃんと前へ進んでるじゃないか)
俺はアレンの膝の上で丸くなった。首元の鈴が、ちりん、と小さく鳴る。
二度目の薬草採取は、静かな成功に終わった。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
よろしくお願いいたします。