配達依頼から、二ヶ月が経った。
隣町への配達は無事に成功した。道中は何事もなく、モーガン商会の薬品も治療院へきちんと届けられた。
初めて町の外での仕事をやり遂げたことで、アレンの中で何かが変わったのだろう。
それからというもの、彼はこつこつと採取や配達の依頼をこなし続けた。時には一人で、時には俺と一緒に。危険の少ない依頼ばかりだったが、それでも経験を積み重ねることで、彼の動きは明らかに変わってきていた。
ダンとの訓練も週に一度のペースで続けていて、最近では模擬戦で一、二本取れることもある。
まだまだ一人前には程遠いが、拾われた頃と比べれば格段の進歩だ。
そんなある朝のことだった。
「クロ、今日こそ、ゴブリン討伐の依頼を受けようと思うんだ」
朝食のパンをかじりながら、アレンが不意に言った。その声は少し緊張していたが、目は真っ直ぐに前を見据えている。
「にゃあ?」(ついに戦闘依頼か)
「うん。この二ヶ月、ずっと考えてたんだ。僕はまだ弱い。でも、いつまでも戦闘依頼を避けているだけじゃ、父さんたちみたいな冒険者にはなれない。だから、今日こそ一歩踏み出したい」
アレンは拳を握りしめて言った。十四歳の少年の顔には、不安と決意が入り混じっている。でも、その声に迷いはなかった。
(わかった。付き合ってやる)
俺は一声鳴いて、アレンの足元にすり寄った。鈴がちりん、と鳴る。
「ありがとう、クロ。きみが一緒なら心強いよ」
アレンはしゃがみ込んで、俺の顎の下をそっと撫でた。その手は、以前よりも少しだけ大きくなった気がする。まだまだ細いけど、剣を握る手つきには確かな力強さが宿るようになってきた。
* * *
ギルドに着くと、アレンは迷わず受付へ向かった。
「おはようございます、マリアさん」
「あら、アレンくん。クロちゃんも一緒ね。今日はどんな依頼を受けたいの?」
マリアはにっこりと微笑んだ。
「ゴブリン討伐の依頼があれば、受けたいです」
アレンの声は、少しだけ震えていた。でも、引き返そうとはしなかった。
マリアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な表情に戻る。
「本気なのね。わかったわ。東の森で今朝、ゴブリン一匹の目撃報告があったの。巡回隊が近くを通る区域だから、危険を感じたらすぐに撤退してちょうだい。痕跡だけ確認して戻ってきても構わないからね。ただし、周囲に仲間がいる可能性もあるから、十分に注意して。報酬は銀貨五枚よ」
「はい、受けます」
アレンは深くうなずいた。
「それじゃあ、受注手続きをしておくわ。それと、ダンさんから伝言よ。『無理はするな。命あっての物種だ』だそうよ」
「ダンさんが……ありがとうございます。肝に銘じます」
アレンは依頼書を受け取ると、俺の首から鈴を外した。討伐の最中に音を立てれば、こちらの居場所を相手に知らせることになるからだ。
「クロも気をつけてね。鈴は私が預かっておくわ」
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、尻尾を振った。
* * *
東の森は、相変わらず薄暗くて、じめじめしていた。鬱蒼と茂る木々のせいで、昼間だというのに日差しがほとんど届かない。足元には苔が生えていて、滑りやすい。どこからか、腐った木と湿った土の匂いが漂ってくる。
(この感じ、久しぶりだな)
俺はアレンの肩の上で、猫の感覚をフルに研ぎ澄ませて、周囲の気配を探った。風の流れ、木の葉の擦れる音、地面を這う虫の足音。風向きがちょうど良く、微かに獣臭が漂ってくる。それから――
(いたぞ。前方に動く影が一つ。あの獣臭……ゴブリンだ。まだこっちには気づいてない)
俺は尻尾をピンと立てて、アレンに合図を送った。
アレンは身を低くして、腰の短剣に手を伸ばした。背中には、父の形見である長剣も背負っている。でも、森の中では短剣の方が小回りが利く。彼はちゃんと、状況に応じた武器を選べるようになっていた。
「よし、今回は逃げない。僕は戦うよ」
アレンは短剣を抜いて、深く息を吸い込んだ。その手は、かすかに震えている。でも、目はしっかりと前を見据えていた。
(気をつけろよ)
俺はアレンの頬に尻尾の先を軽く触れさせると、音を立てないように肩から飛び降りた。それから、少し離れた木の上に移動する。ここなら、戦闘全体を見渡せる。いざという時は、いつでも飛び出せる位置だ。
「グギャッ」
ゴブリンが、俺たちの存在に気づいた。一匹の醜い緑色の人型が、錆びた短剣を手に、こちらに向かって突進してくる。その黄色い目は、獲物を見つけた喜悦にぎらついていた。
「来る……!」
アレンは短剣を構えて、ゴブリンを待ち受けた。足は肩幅に開き、重心はやや低め。ダンに教わった基本の構えだ。以前のように、無闇に突っ込んだりはしない。
「グギャア!」
ゴブリンが、錆びた短剣を振りかざして飛びかかってきた。その動きは単調で、ただ一直線に突っ込んでくるだけだ。だが、アレンは落ち着いていた。
「ふっ!」
アレンは短く息を吐いて、ゴブリンの攻撃を最小限の動きでかわす。そして、隙だらけになった胴体に、鋭い一撃を叩き込もうとした――その瞬間。
ずるり。
足元の苔に足を取られ、アレンの体勢がわずかに崩れた。短剣の切っ先はゴブリンの腹をかすめただけで、深くは斬れていない。浅い傷口から、緑色の血がにじむ。
「しまっ……!」
アレンが体勢を立て直すより早く、ゴブリンが怒りの声をあげて腕を振り回した。錆びた短剣が弧を描き、アレンの左腕をかすめる。革鎧が裂け、赤い血がじわりと袖を濡らした。
「ぐっ……!」
アレンは痛みに顔を歪めたが、後退しながらも短剣を手放さなかった。ゴブリンは傷つけられた怒りで目を血走らせ、さらに追い打ちをかけようと突進してくる。さっきより動きが荒く、予測しづらい。
(やばい、このままじゃ)
木の上で、俺は飛び出すタイミングを計った。怪我をしたアレンが、怒り狂ったゴブリンを一人でかわし続けるのは難しい。だが、俺が前に出すぎてもいけない。これは、アレンの戦いだ。
ゴブリンが大きく腕を振りかぶり、アレンへ追撃を加えようとした。その目が、完全にアレンだけを捉えている。今だ。
俺は木の枝から飛び降り、ゴブリンの顔の前を横切った。真っ黒な影が、黄色い目玉の目の前をかすめる。
「グギャッ!?」
ゴブリンが一瞬、俺に気を取られた。その隙に、アレンが体勢を立て直す。彼の目に、迷いはなかった。
「今だ!」
アレンの短剣が、ゴブリンの喉元を捉えた。渾身の一撃。刃が深々と突き刺さり、緑色の血が噴き出す。
「グ……ギャ……」
ゴブリンは断末魔の声をあげて、その場に崩れ落ちた。動かなくなった身体から、じわじわと血が広がっていく。
「はあ……はあ……」
アレンは肩で息をしながら、動かなくなったゴブリンを見下ろしていた。短剣を握った手は白くなるほど強く握りしめられ、その場に立ち尽くしている。
「死んだ、の?」
アレンの声は、震えていた。勝った喜びよりも、自分が命を奪ったという事実に、身体が追いついていない。初めての討伐。初めて奪った命。訓練とも、模擬戦とも違う、本物の戦いの感触が、十四歳の少年の手に重くのしかかっている。
(これは遊びでも訓練でもない。けど、お前がやらなければ、お前が殺されていた)
俺は木から飛び降りて、アレンの足元に駆け寄った。
「クロ……僕…」
アレンはしゃがみ込んで、俺をぎゅっと抱きしめた。腕の中の身体が、小刻みに震えている。左腕の傷からは、まだ血がにじんでいた。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、アレンの頬に頭を擦りつけた。傷とは反対側の手をぺろりと舐める。汗で少ししょっぱいけど、今は気にならない。
(お前はちゃんと生き延びた。それでいい)
「ありがとう、クロ。きみが助けてくれたんだね」
アレンは震える声で言った。クロに助けられた安堵と、それでも自分の手で命を奪った戸惑いとが、涙声に混ざっている。
しばらくそうしていた後、アレンはゆっくりと立ち上がった。顔はまだ青ざめているけど、その目はさっきよりも落ち着いている。
「さあ、ギルドに戻ろう。討伐の証を持って帰らないと」
アレンは短剣でゴブリンの耳を切り取った。その手つきは慎重で、慣れてはいない。吐き気をこらえるように、唇をきゅっと結んでいる。
「にゃあ」(そうだな)
俺は一声鳴いて、アレンの肩に飛び乗った。
* * *
ギルドに戻ると、酒場の隅でダンが手を振っていた。どうやら、俺たちの帰りを待っていたらしい。
「おう、アレン。戻ったか」
「ダンさん……はい、なんとか」
「その腕の傷、ゴブリンにやられたのか。奴らの武器は錆びていることも多い。ちゃんと手当てしろよ」
ダンはアレンの左腕をちらりと見て、念を押した。
「はい。でも、倒せました。ゴブリンを」
アレンがそう言うと、ダンは一瞬だけ目を丸くして、それから豪快に笑った。
「そうか。初討伐か。ちゃんと生きて帰ってきたな。それが一番だ」
ダンはアレンの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。その大きな手は、少しだけ優しかった。
「はい!」
アレンは嬉しそうにうなずいてから、受付カウンターへ向かった。
「マリアさん、ただいま戻りました」
「アレンくん! その腕、怪我をしたのね。大丈夫?」
マリアが心配そうな顔で迎えてくれる。
「はい、浅い傷です。それと、ゴブリンを倒しました」
アレンはポーチからゴブリンの耳を取り出して、カウンターに置いた。その手はまだ少し震えていたけど、声はしっかりしている。
マリアは耳を確認すると、ほっと息をついた。
「確かにゴブリンの耳ね。初討伐おめでとう、アレンくん。報酬の銀貨五枚と、素材の買取で銀貨一枚、合計銀貨六枚よ。これまでの依頼実績と今回の初討伐をもって、見習い期間を終え、正式にEランク冒険者として認められるわ。」
マリアは新しい冒険者証を差し出した。
そこには確かに、『Eランク冒険者 アレン・クロフォード』と書かれている。初討伐の記録も、小さく刻まれていた。
「Eランク……僕、正式な冒険者になれたんだ……」
アレンは冒険者証をじっと見つめて、何度も瞬きをした。
「はい。これで正式な冒険者の仲間入りね。でも、まずは救護室に行くこと。いいわね?」
「はい。ありがとうございます、マリアさん」
アレンは深くお辞儀をした。その顔には、誇りと安堵が入り混じっている。
手当てを終えたアレンは、マリアから預けていた鈴を受け取り、俺の首に戻してくれた。鈴がちりん、と小さく鳴る。
* * *
ギルドを出ると、空は茜色に染まっていた。
夕暮れの市場は、買い物客で賑わっている。左腕には包帯が巻かれ、ほんのりと軟膏の匂いがする。
「クロ、今日は特別だよ。初めて討伐依頼を達成できたんだから、少し豪華な夕飯にしよう」
アレンは嬉しそうに言った。その足取りは、朝よりもずっと軽い。
(今日は特別頑張ったからな。自分へのご褒美は大事だ)
俺はアレンの肩の上で、こっそり鼻を鳴らした。
市場で夕飯の買い物を済ませ、俺たちは家へ戻った。
「ただいま」
アレンは背負っていた父の長剣を外し、いつもの場所へそっと立てかけた。その柄をしばらく見つめてから、ぽつりと言う。
「父さん。僕、今日は逃げなかったよ」
その声は静かで、誇らしさと少しの疲れが混ざっていた。初めての討伐。初めて自分の手で奪った命。十四歳の少年にとって、今日はあまりにも多くの初めてがあった一日だ。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、アレンの足元にすり寄った。
(ああ、ちゃんと見てたさ。お前は確かに、一歩前に進んだ)
アレンはしゃがみ込んで、俺の背中をそっと撫でた。その手は、まだ少しだけ震えている。
「ありがとう、クロ。明日からも、頑張ろうね」
(もちろんだ。まだまだこれからだぞ)
俺はアレンの手をぺろりと舐めて、ゆっくりと目を閉じた。
初めて魔物を倒した日。怪我もした。怖かった。
それでも、アレンはようやく、冒険者として本当の一歩を踏み出した。