初めてゴブリンを倒してから三日。
アレンの左腕には、まだ白い包帯が巻かれていた。傷はだいぶ良くなってきているが、まだ無理はできない。無理に動かして傷口が開けば、今度こそギルドの救護室から帰してもらえないだろう。
(とはいえ、じっとしてられない性分なんだよな、こいつは)
俺は床に寝そべり、庭へ続く開け放たれた扉の向こうを眺めていた。アレンは庭で軽く体を動かしている。今日は素振りもせず、簡単な柔軟だけ。傷が開かないように、慎重に、慎重に。
「クロ、今日はギルドに行ってみようか。傷もだいぶ良くなったし、何か軽い依頼があれば受けたいんだ」
「にゃあ」(そうだな)
俺は一声鳴いて、寝そべっていた床から立ち上がった。鈴がちりん、と鳴る。
「それじゃあ、行こうか」
アレンは俺を肩に乗せると、家を出た。初夏の陽射しがじりじりと照りつける、蒸し暑い朝だった。
* * *
ギルドに着くと、いつもと様子が違った。酒場には冒険者たちが詰めかけていて、みんな真剣な顔で話し込んでいる。掲示板の前にも人だかりができていて、新しく貼り出された依頼書を食い入るように見つめていた。
「なんだか、騒がしいね」
アレンが首をかしげる。俺も耳をピンと立てて、周囲の会話に意識を集中させた。
「おい、聞いたか。東の森に近い街道で、ゴブリンが二匹目撃されたらしいぜ」
「ああ。荷馬車を襲うでもなく、街道の周りを探るようにうろついてたそうだ。衛兵に見つかった途端、森へ逃げ込んだらしい」
「この前から東の森で目撃が増えてるだろ。群れが町の様子を探ってるのかもしれねえ」
「いや、ただの群れなら町の近くまで斥候を出すか? ギルドマスターが緊急調査隊を編成するって話だ。Dランク以上が中心だ」
(ゴブリンの斥候、か)
俺は尻尾の先だけを動かした。ゴブリンそのものは、先日アレンが倒した相手だ。ただ、斥候ということは、背後にさらに大きな群れがいる可能性もある。調査隊が編成されるのも納得だった。
「ゴブリン……」
アレンの顔が、少しだけ曇った。三日前の自分の戦いを思い出しているのだろう。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、アレンの頬に頭を擦りつけた。
「ありがとう、クロ。僕は大丈夫だよ」
アレンは小さく笑って、俺の頭を撫でた。その手は、少しだけ震えていたけど、すぐに落ち着きを取り戻す。
「それじゃあ、マリアさんのところに行こう。何か軽い依頼がないか聞いてみるよ」
アレンは人混みをかき分けて、受付カウンターに向かった。
「おはようございます、マリアさん。今日は何か軽い依頼はありますか?」
「あら、アレンくん。傷の具合はどう?」
マリアは心配そうにアレンの左腕を見つめた。
「はい、もうほとんど痛みません。でも、さすがに戦闘はまだ無理だと思うので、今日は軽い配達か採取の依頼があればと思って」
「えらいわね、ちゃんと自分の体調を考えてる。そうねえ……ああ、これなんかどうかしら。町の外れにあるゼドさんの塔まで、薬草を届ける依頼よ。報酬は銅貨八枚。距離も近いし、危険もないわ」
マリアは一枚の羊皮紙を取り出した。ゼド——この町の外れに住む老魔術師だ。無口で無愛想だが、薬草や魔法薬の調合に長けていて、ギルドからも信頼されている。
「はい、それを受けます」
アレンは依頼書を受け取ると、小さな包みも一緒に手渡された。中身は乾燥させた薬草の束だ。
「それと、アレンくん。聞いたかもしれないけど、東の森に近い街道でゴブリンが目撃されてるの。あなたはまだEランクだから召集はかからないけど、しばらくは東の森に近づかない方がいいわ」
マリアの声は真剣だった。
「はい、わかりました。ありがとうございます」
アレンは深くうなずいて、ギルドを後にした。
* * *
ゼドの塔は、町外れの小高い丘に建っていた。周囲には薬草畑と小さな温室があり、石壁には古い魔術文字がびっしりと刻まれている。近づくだけで、甘さと苦さの入り混じった薬草の香りが鼻をくすぐった。
「こんにちは、ゼドさん。ギルドから薬草をお届けに来ました」
アレンがドアをノックすると、中から深いフードをかぶった老人が現れた。無造作に伸びた灰色の髪と、節くれだった杖が特徴的だ。見た目だけなら七十を超えていそうだが、その目は異様に鋭い。
「……置いていけ」
ゼドはそれだけ言うと、薬草の包みを受け取った。中身を確認する手つきは素早く、無駄がない。
「えっと、あの……」
アレンが何か言いたそうにしていると、ゼドはふと俺に目を留めた。
「黒猫か」
「はい。クロっていいます。僕の相棒です」
「そうか」
ゼドは短く答えると、アレンの顔をじっと見つめた。それから、アレンの背にある長剣へ視線を移す。
「その剣……お前、ザックスとエレンの息子か。大きくなったな」
「え、はい。ご存じなんですか?」
「ああ。二人とも、よく薬を買いに来ていた。お前が生まれた時も、ザックスが馬鹿みたいに喜んでいたのを覚えている」
ゼドの声は相変わらず無愛想だったが、ほんの少しだけ、その口調が柔らかくなった気がした。
「そうだったんですか……」
アレンは少しだけうつむいた。父の名前を聞いて、胸が熱くなったのだろう。
「茶でも飲んでいけ。ちょうど湯が沸いている」
ゼドはそれだけ言うと、背を向けて塔の中に戻っていった。無愛想だが、これが彼なりの歓迎なのだろう。
「あ、はい。ありがとうございます」
アレンは慌てて後を追った。
* * *
塔の中には薬草や魔法触媒を詰めた瓶が所狹しと並び、天井からは乾燥中の草花が吊るされていた。
「座れ」
ゼドは無造作に椅子を指さすと、手際よく湯を沸かし、茶を淹れた。その手つきは、長年の経験を感じさせる無駄のない動きだ。
「お前、冒険者になったのか」
「はい。つい最近、正式なEランクになりました。初討伐はゴブリンです」
「そうか」
ゼドは静かにお茶を注ぎながら、少しだけ口元を緩めた。
「一匹でも立派なものだ。命を奪うということは、決して簡単なことではない」
「ありがとうございます。でも、まだまだ未熟です。今回の調査隊にも、僕は入れませんでした」
アレンは少しだけうつむいた。悔しさと、自分への苛立ちが混ざった声だった。
「焦るな」
ゼドは短く言った。それから、少し間を置いて、ぽつりと付け加える。
「ギルドマスターのゴードンも、最初から強かったわけではない」
「え?」
「ゴブリン一匹に負けかけたこともある」
「ギルドマスターが?」
「昔の話だ」
ゼドはそれ以上は語らず、お茶を一口飲んだ。アレンは驚いたように目を見開いていたが、やがて小さく笑った。
「なんだか、少し安心しました。ギルドマスターでも、そんな頃があったんですね」
「誰でも最初は弱い。お前も、これから強くなればいい」
ゼドの声は相変わらず無愛想だったが、その言葉には確かな温かさがあった。
(このじいさん、口は悪いがいいことを言うじゃないか)
俺はアレンの膝の上で、耳をぴくりと動かした。
「それと、もう一つ」
ゼドは立ち上がって、棚から小さな包みを取り出した。
「これは傷薬と解毒薬だ。持っていけ」
「え、でも、そんなにいただくわけには……」
「いいから持っていけ。お前の親には世話になった。これはその借りだ」
ゼドは有無を言わさず、包みをアレンに手渡した。それから、俺の方を見て、少しだけ口元を緩める。
「猫にもやるものがある。待っていろ」
ゼドは再び棚に向かい、今度は小さな布袋を取り出した。
「乾燥またたびだ。気に入るだろう」
「にゃあ」(お、気が利くな)
俺は一声鳴いて、尻尾を振った。ゼドはそんな俺を見て、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「ありがとうございます、ゼドさん。大切に使います」
アレンは深々と頭を下げた。
「また来い。猫もな」
ゼドはそれだけ言うと、再び無愛想な顔に戻って、作業台に向かった。どうやら、話はこれで終わりらしい。
「はい。それじゃあ、失礼します」
アレンはぺこりとお辞儀をして、塔を後にした。
* * *
ゼドの塔を出ると、空にはいつの間にか雲が広がっていた。さっきまでの晴天が嘘みたいに、灰色の雲が空を覆っている。遠くで、ゴロゴロと雷の音が聞こえた。
「雨が降りそうだね。急いで帰ろう」
アレンは空を見上げて言った。
(ゼドの言葉、響いたみたいだな)
俺はアレンの肩の上で、前足を組み直した。ゴードンの若い頃の話。両親の思い出。それらが、アレンの心を少しだけ軽くしてくれたんだろう。焦らなくていい。誰でも最初は弱い。その言葉が、十四歳の少年の胸にすとんと落ちたのだ。
「にゃあ」(そうだな)
俺は一声鳴いて、アレンの頬に頭を擦りつけた。
「ありがとう、クロ。なんだか、ちょっと元気が出たよ」
アレンは俺の耳の後ろをかきながら、優しく笑った。
* * *
町の中心部に向かって歩いていると、突然、前方から悲鳴が聞こえてきた。女性の声だ。それも、一人じゃない。何人もの悲鳴が、通りに響き渡っている。
「なんだ!?」
アレンが立ち止まる。俺も耳をピンと立てて、前方の気配を探った。通りの向こうでは、一人の若者が「ギルドに知らせてくる!」と叫びながら駆けていった。
(この気配は……ゴブリンか!? でも、なんで町の中に!?)
ありえない。町の周囲には防壁があるし、門には衛兵が立っている。ゴブリンが簡単に入り込めるはずがない。でも、前方から漂ってくる獣の匂いは、間違いなくゴブリンのものだ。それも、一匹だけじゃない。
アレンは反射的に短剣へ手を伸ばした。だが、左腕の痛みに顔をしかめ、その手を止める。
「今の僕に、戦うのは無理だ。でも、人を逃がすことならできる」
アレンは短く息を吐くと、俺を肩に乗せたまま駆け出した。負傷している身だというのに、一瞬の躊躇もない。こういう時、こいつは本当に自分のことを顧みない。
(おいおい、お前の傷はまだ治ってないんだぞ!)
心の中でツッコミを入れながらも、俺はアレンの肩にしがみついた。鈴がちりん、ちりん、と激しく鳴る。
* * *
現場に着くと、通りは混乱の渦に包まれていた。
二匹のゴブリンが、通りを荒らしている。一匹は手に錆びた短剣を持ち、逃げる住人を追いかけていた。もう一匹は松明を振り回し、屋台や軒先へ次々と火を移している。火のついた布が風にあおられ、黒煙が上がっていた。
(妙だな。腹を空かせた魔物の動きじゃない)
俺はアレンの肩の上で、ゴブリンの様子をじっと観察した。普通、ゴブリンは食料や金品を奪うのが目的だ。でも、こいつらは人よりも火を広げることを優先している。まるで、誰かに命令されているかのような不自然さがあった。
通りには数人の怪我人が倒れていて、その中に見知った顔があった。
ガスパル爺さんだ。以前、俺を見て「黒猫は縁起が悪い」と言い放った、あの偏屈な老人だった。今は倒れた屋台の下敷きになり、抜け出せずにいる。
「グギャ!」
短剣を持ったゴブリンが、ガスパル爺さんに向かって突進していく。錆びた刃が振り上げられる。
(まずい!)
その時だった。
「させるか!」
アレンが飛び出した。だが、彼は正面から立ち向かわなかった。代わりに、倒れた屋台の影に身を潛め、ゴブリンの注意が自分に向いていない一瞬を見計らって、ガスパル爺さんの服を掴んだ。
「ぐっ……!」
アレンは左腕をかばいながら、ガスパル爺さんを屋台の下から引きずり出す。十四歳の少年の腕力では、大人の男を抱えて走ることなんてできない。それでも、建物の陰まで引きずっていくことくらいはできた。包帯にじわりと赤が滲む。傷口が開いたのだ。
「アレン……お前、無茶しやがって……」
「誰だって見捨てられません!」
アレンは叫んだ。その声は震えていたけど、確かな決意がこもっている。
(バカ野郎! また自分を犠牲にしようとして!)
俺はアレンの肩から飛び降りた。そして、近くにあった屋台の上に駆け上がり、周囲を見渡す。その間にも、アレンは周囲の大人たちに向かって叫んでいた。
「火を消してください! 武器のない人はゴブリンに近づかず、逃げ道を空けて!」
声は震えていたが、その指示で凍りついていた住人たちが動き始める。水を運ぶ者、子供を抱えて避難する者。アレンは自分が戦わなくても、状況を変えることができたのだ。
(使えるものは……あれだ)
俺は屋台の上に積み上げられた果物の籠を見つけた。籠を支えている木片に前足をかけ、体重を乗せる。木片が外れ、傾いた籠から果物が雪崩のように転がり落ちた。りんごや梨が、ゴブリンの足元に散らばる。
「グギャッ!?」
ゴブリンが足を滑らせ、一瞬バランスを崩した。その隙に、俺は隣の屋台へ飛び移り、垂れ下がっていた布の留め紐に力任せに爪を立てた。外れた布が、松明を持つゴブリンの頭に覆いかぶさる。
「グギャア!?」
視界を奪われたゴブリンが、松明を振り回しながら暴れる。布に火が燃え移り、ゴブリンは慌ててその場に転がった。
(これで少しは時間を稼げる。だが、それだけだ)
俺は心の中で歯ぎしりした。若猫の身体では、ゴブリンにダメージを与えることなんてできない。注意を逸らすのが精一杯だ。
「クロ……! ありがとう!」
アレンは俺の陽動に気づいて、さらにガスパル爺さんを安全な場所へ引きずっていく。その間に、通りにいた他の住人たちも、慌てて建物の中に次々と駆け込んでいった。
(あとは衛兵が来るまで……)
俺がそう思った瞬間、通りの向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「通報を受けて来てみれば、ずいぶん派手にやられてるじゃねえか!」
雷のような大声とともに、巨大な戦斧が弧を描いた。短剣を持ったゴブリンの首が、一瞬で斬り飛ばされる。醜い頭が宙を舞い、地面に落ちて転がった。
「ギルドマスター!」
そこに立っていたのは、熊のような巨体を持つ初老の戦士だった。ギルドマスター、ゴードン。ギルドで何度か姿を見かけたことはあるが、間近で見るのは初めてだ。
その手には、人間の胴体よりも大きな戦斧が握られている。
「もう一匹も俺に任せろ。お前は下がっていろ」
ゴードンは松明を失い、布を引き剥がそうともがくゴブリンに向かって突進した。そして、一振りでゴブリンの胴体を両断した。あまりにも呆気ない決着だった。
「ふん、この程度か」
ゴードンは戦斧を肩に担いで、倒れたゴブリンを見下ろした。それから、アレンの方を振り返る。
「お前、ザックスの息子だな。名前は……アレンだったか」
「はい、アレン・クロフォードです」
「アレンか。よくやった。お前が時間を稼いでくれたおかげで、怪我人は出たが、死者は出なかった」
ゴードンはアレンの頭に、大きな手をポンと置いた。
「それと、その猫はお前のか?」
「はい。クロっていいます。僕の相棒です」
「そうか。猫もよくやった」
ゴードンは俺を見て、にやりと笑った。その顔は怖いけど、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、守られているような安心感があった。
「ガスパルさん!」
アレンは倒れているガスパル爺さんに駆け寄った。ガスパル爺さんは額から血を流していたが、意識はしっかりしている。
「アレン……助かった。礼を言う」
ガスパル爺さんは苦しそうに息を整えながら、俺をちらりと見た。
「……その黒猫にもな」
それだけ言うと、気まずそうに顔を背けた。
「にゃあ」(素直じゃない爺さんだ)
俺は一声鳴いて、ガスパル爺さんの手をぺろりと舐めた。ガスパル爺さんは何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わず、黙って俺の頭を一撫でた。
* * *
その後、衛兵たちが到着して、事態は収束した。
ゴブリンがどうやって町の中に入り込んだのかは、まだ不明なようだ。
今朝、街道で目撃された二匹と同じ個体なのかは分からない。ただ、二匹とも首に同じ赤い染料が付着していた。ゴードンはそれを見て、難しい顔で唸っていた。群れから追い出された個体なのか、それとも誰かに町へ誘導されたのか。いずれにせよ、詳細はこれからの調査で明らかになるだろう。
負傷者は全員、ギルドの救護室に運ばれた。ガスパル爺さんも、アレンも、他の怪我人たちも。ギルドの救護室は、今まで見たことがないくらいに混雑していた。包帯を巻かれた人、痛みにうめく人、必死に治療にあたる神官や薬師たち。
「アレンくん、傷口が開いてるわ。すぐに手当てをするから、こっちに来て」
マリアが心配そうにアレンを呼んだ。彼女の顔には、安堵と心配が入り混じっている。
「はい……でも、僕より先にガスパルさんを」
「ガスパルさんは、もう手当てが済んでるわ。あなたは自分の心配をしなさい」
マリアは有無を言わさず、アレンの腕の包帯を巻き直し始めた。左腕の傷は、幸いにも深くはなっていなかった。ただ、無理をしたせいで傷口が開き、改めて消毒と手当てが必要になったらしい。
「アレンくんは本当に無茶をするんだから。自分の怪我が治ってないのに、ゴブリンに立ち向かうなんて」
「でも、ガスパルさんが……それに、クロが助けてくれたから」
「クロちゃんも、アレンくんを守ってくれたのね。ありがとう」
マリアは俺の頭をそっと撫でた。その手は少し震えていた。
「にゃあ」(当然だ。こいつは俺の相棒だからな)
俺は一声鳴いて、尻尾を振った。鈴がちりん、と鳴る。
* * *
救護室を出ると、酒場に残っていた冒険者たちが歓声を上げた。
「今日の英雄は、この小僧と黒猫だ!」
周りの冒険者たちが、一斉にこちらを見た。
「アレン、よくやったな!」
「お前のおかげで、みんな助かったぜ!」
「その猫もすごいな。果物と布でゴブリンを翻弄するなんて、賢い猫だ!」
冒険者たちは笑いながらアレンの肩を叩き、俺には干し肉を差し出した。アレンは照れくさそうに笑いながら、一人ひとりにぺこぺこと頭を下げている。
俺はアレンの膝の上に伏せ、もらった干し肉を夢中でかじった。
しばらくして、マリアがやって来て、アレンを軽く睨んだ。
「もう十分でしょう。アレンくん、傷口を処置したばかりなんだから、今日はもう帰って寝なさい」
「は、はい」
「みんなも、小さな英雄を休ませてあげて」
マリアの言葉に、冒険者たちは笑いながら俺たちを送り出してくれた。
* * *
家に戻ったのは、まだ宵の口だった。
「はあ……疲れた……」
アレンは玄関のドアを閉めるなり、その場に座り込んだ。左腕には新しい包帯が巻かれている。処置し直した傷は、しばらく痛むだろう。
「にゃあ」(お疲れ)
俺は一声鳴いて、アレンの膝の上に飛び乗った。
「クロ、今日は本当にありがとう」
アレンは俺をぎゅっと抱きしめた。まだ疲れで少し速い心臓の鼓動が、腕の中から伝わってくる。
「僕、少しは誰かを守れたのかな」
(ああ。少なくとも、ガスパル爺さんはお前がいなければ危なかった)
「にゃあ」
俺はアレンの手をぺろりと舐めた。汗の味がしたけど、気にならなかった。
その夜、アレンはいつもより早く眠った。俺は彼の腕の中で丸くなりながら、静かに目を閉じる。
* * *
翌朝、町は静かだった。昨日の騒ぎが嘘みたいに、いつも通りの穏やかな朝だ。でも、俺たちが通りを歩くと、あちこちから声がかかった。
「あ、あの子よ。昨日、ゴブリンから人を助けた小さな英雄さん」
通りすがりの女性が、アレンを指さして囁く。
「猫も一緒だ。賢い猫なんだって」
「ザックスとエレンの息子だそうよ。親に似て、勇敢な子だね」
「聞いたかい。あのガスパル爺さんが、『黒猫も捨てたもんじゃない』って言ってたらしいよ」
(へえ、あの爺さん、ついに認めたか)
俺はアレンの肩の上で、満足げに尻尾を振った。
アレンは耳まで真っ赤にして、俺を抱き上げた。
「クロ、どうしよう。すごく恥ずかしいよ」
(知らん。英雄になった責任は自分で取れ)
「にゃあ」
首元の鈴が、ちりんと鳴った。
どうやら、今日からしばらく、静かな生活は望めそうになかった。