いくらお金が少ないといっても、試しもせずに自作の気密室で宇宙に出るほどマユルはむこうみずではない。いざとなればSゲートからベースに戻れる今のうちに、空気作りのテストをしておく。40Lシリンダーのハンドルをギュギュッと回して、酸素と窒素それぞれ開くと、気圧と酸素濃度が上がっていく。本当は専用のヒーターがあると助かるのだが、ないものはないのでコンソールのプロセッサーで暖を取ることにする。仮想通貨のマイニングプログラムでも走らせれば良いだろう。空気漏れがどこにもないのを確認しながら、15分ほど待った。
気圧は1,000hpa。気づくとシュー、という音が聴こえるようになっている。気温283K。つまり10℃。ハンドルを閉めて、ヘルメットの固定をパチンと外してEVASを脱いでみると、冷たい空気が肺に流れ込んだ。ちょっと耳鳴りがしたが普通に息ができている。
これまでのオペレーションでは移動中もずっとFT-11型EVASを着込んでいた。20kg超の殻は重く動きにくく、狭い船内をさらに窮屈にしていて、バッテリーが切れれば命の危機。
それと比べて、気密室の快適さと安心感たるや!EVASを脱いでうんと伸びをすると、操縦席の上でクルリとターン。しっかり溶接した炭素繊維の壁はEVASよりずっと分厚く頑丈で、叩くとコンコン音がする。
ただし、呼吸して吐いた空気は密閉空間に溜まっていく。船内の二酸化炭素濃度が上がれば、いずれは中毒になってしまうだろう。二酸化炭素吸着装置はEVASにしかない。
二酸化炭素をナメてはいけない。人が多い会議室で眠気が出たり、閉め切った部屋で作業していて気分が悪くなったりする(頭が重くなるあの感じ)のは二酸化炭素のせいだ。3,000ppmを超えると思考力や集中力が落ちるし、5,000ppmを超えると人によっては頭痛やめまい。そして8,000ppmを超えると全身が痙攣して、意識レベルが低下したりする。地球上の大気は410ppmだが、宇宙船の場合はわざわざ二酸化炭素を入れる必要はないので最初は0ppmにする。
幸いマユルは身長152cm、体重41kg。
小柄であることは宇宙では役に立つ。二酸化炭素排出量も少なく、EVASのサイズが小さいので推進剤も食わない。
最悪の場合は、EVASを着込んだ上で汚れた空気を一度宇宙に捨てて、それから新鮮な空気を補充する手もある。が、この船には空気ポンプもヒーターも積んでいないから非常に手間とコストがかかる。そのうち買い足してもいいだろう。
マユルは3本の40Lシリンダーを担いで、Sゲートに戻った。ベースの「空気スタンド」で再充填しておくのだ。ちなみに、氷やアンモニアが豊富なアステロイドベルトでは酸素や窒素はそこそこ安価に調達できる。
料金カウントが上がっていくのを見ながら、マユルは頭で「強く念じ」て、ARコンタクトレンズの視界にRSD社のサルベージ権マーケットを呼び出した。
マーズ・アタック以来、ケレス周辺には多数のスクラップが漂っている。しかしその所有権はすべて元の船主にある。「事故」の後処理を担う保険会社が保険金と引き換えにサルベージ権を獲得するが、地球の保険会社が自分でサルベージをやるわけがない。代わりに、現地のRSD社と「サルベージ権の帯契約」を結んでいる。サルベージャーがRSD社を通して料金を支払えばスクラップから部品を回収する権利を得られる、という仕組みだ。
ケレスに政府はない。少なくとも表向きには。RSD社が事実上の政府であり警察であり市場であり家主だ。
地球の宇宙条約は地球の外に主権国家を置くことを禁じているが、企業がインフラを握って実効支配することまでは止められない。1979年の月協定なら企業の所有も禁じられたはずだったが、あれを批准したのは数えるほどの国だけだった。
リスト上位には大型のスクラップが並ぶ。ケレス近傍の戦闘艇スクラップはDelta-V予算が安く済むが、価格は2万ドルを超える。
RSDの値付けアルゴリズムでは、①ケレスから近いほど、②スクラップが大きいほど、③金目のものが積まれていそうなほど高くなる。PGS社のような大手サルベージャーは大型
サルベージ権の売買はオークションなどはなく、定量パラメーターと需給見込で算定されているので、実際のオペレーションに必要な予算からすると割安なものもある。大型船で割の良いものは大手サルベージャーがアルゴリズムで掲載直後に自動で購入を入れているし、事前に情報を渡されているという噂すらある。狙い目は小型で、気密室付きのサルベージリグがギリギリ狙える距離のものだ。
「サンコイチ」は推進剤と酸素の燃費が世界一安いサルベージリグだ、と前のオーナーは自慢していた。ヨンコイチになってかなり重くなったが、それでも一般的な気密付きのリグと比べれば三分の一以下のドライ・マスで済む。
この世界にワープ航法なんてものはない。ハイパーレーンもないし反重力装置もない。ただ冷たい物理法則に従うのみ。
小型で軽量。宇宙ではこれが正義だ。
ざっと今の相場感を見てから、マユルはブラウザ拡張からプルメリアを呼び出し、好条件の候補を探させた。プルメリアはマユルが持つバディAIで、本体はピアッツィ・ベースのサーバー内にホストされている。マユルの背中に刺さった電脳を通じて脳波コントロールで指示を出すことができ、AIS社のクラウド計算サービスを利用することで必要なときだけ計算力やメモリを調達している。
8秒後、ARコンタクトレンズの視界に投影されたのは以下の4候補だった。
『
『
『
『
これらはいずれもケレス周回軌道が高く、普通のサルベージリグだと推進剤や電力が持たない。中型バルジを動かすには燃費の元が取れない。
4候補の詳細や船歴情報を開いて吟味していく。せっかく気密室を作ったことだし、できれば炭酸ガス吸収装置が欲しい。隠れ家アステロイドから出てくる海賊船や大型船から展開される戦闘艇は長期航行を前提としない。なら、採掘艇かな。
それに、ピックアクス・ヨゲンドラ号は海賊にやられたわけではなく衝突事故だ。金目のパーツが剥がされている可能性は低い。
マユルは右手の人差し指でちょい、と空を撫でた。これで「購入」確定。脳波だけで決済しない仕様は、「誤タップ」で大金を吹き飛ばさないための安全弁だ。
ピアッツィ・ベースにはありとあらゆる宇宙船が停泊している。
ヨンコイチよりもっと大きな独立サルベージャーのリグ。兼業サルベージャーが組み立てたパッチワークの貨物船。PGS社の薄黄色の中型バルジ。RSD第4艦隊のフリゲートは銀灰色の塗装で、艦首にはマーズアタックのキルマーク塗装がギラリと光っている。一番遠くに止まっているのはトライダイヤのカリスト連合艦隊。戦艦らしき巨体が太陽光を背景にシルエットを描いている。木星圏の艦隊がこんな辺境に何の用だろう?
「システムオールグリーン。プリフライトチェック、コンプリート。」
『
ピアッツィ・ベースの管制AIが字幕付き音声案内とともに、ARコンタクトの視界に指定進路をオレンジ色のラインで描き込む。事故防止のため、このラインから一定以上逸れると罰金を課せられる規約になっている。マユルはコンソールの大きなボタンを指先で押して、ロックを解除してエンジンに「火」を入れる。イオンスラスターが淡い青を引きながら、ケレスの引力を振り切った。
4時間の慣性航行。今回もまた推進剤を絞っての省燃費運転だが、前回までよりはるかに快適だ。
EVASを脱いだまま操縦席をリクライニングに倒して、マユルは電脳経由でIPNC(
とはいえ、この船の通信設備ではIPNCリアルタイムアクセスはできない。プルメリアにはアクセスできなくなるから、AIアシスタントはEVAS搭載の最低限・ジェネリックなものしかない。
遮るもののない真空では数千km先にだって電波を届けられるが、問題はこの船が動き、加減速してしまうという点だ。地球や各惑星圏にある大型アンテナと常時接続するにはそれなりの通信設備が必要になるし、そうして電波をバラ撒きながら飛ぶには海賊が怖くないほどの武装が必要だ。
だから今日は読書だ。視界に大きめに文字を表示し、リラックスした体制でページを送りながら長い慣性航行を快適に消化していく。
基礎代謝を低く保てば、その分だけ二酸化炭素が減る。脳を興奮させるようなVR映画やゲームなどより、小説が良い。
4時間と18分後、ヘルメット越しにピックアクス・ヨゲンドラ号を視認した。再びEVASを着込んでから外に出る。
小型の採掘艇だ。全長18m。船体下部の採掘ドリルがゴツいモリブデン鋼の存在感を放っている。
「事故で大破」という説明文のわりには外殻はそこまでひどくない。前部上面に大きな衝突痕と破断。けっこうなスピードでアステロイドに突っ込んだらしい。
真っ先に確認したのは件の採掘ドリルだった。一世代前のモデルだがヘッド部、駆動軸、回転モーターすべて無事に見える。動作テストは後回しとしても、これだけで6,000ドルは下らないはずだ。元手3,900ドル+推進剤代を回収して余りある。
さらにスラスターモジュールが二基。小型アンテナ。
ヘルメットの中でマユルの口角がじわりと持ち上がった。
これは大当たりだ。
ハッチは設計図の通りに、船体側面にあった。当然電力は死んでいるが、EVASのパワーアシストで思い切り引っ張ってやると、ゆっくりと開いた。ロックがかかっていない?ヘルメットライトを点けて中に入ると、固形レーションや化繊のカバンが真空の中を漂っているのが見えた。
さてさて、一番おいしいコンソールはどうか……と照らしてみると。操縦席近く、人型のシルエットが浮いていた。
死体だ。
マユルは自然、顔をしかめる。
スクラップの中に死体があるのは特別なことじゃない。ハッチを開けたら浮いている乗員に出くわすことなんて、サルベージャーをやっていれば年に何度か経験する。なんせ壊れた宇宙船だ。脱出が間に合わなければ即、死である。外傷、窒息、急減圧。お好きな死因をどうぞ。気持ちのいいものではないが、いちいち驚いてはいられない。
ただ、今回の死体はちょっと違った。
損壊したFT-11型EVASの胸元と腹部に丸い穴が二つ。両方とも、内側に向かって何かがめり込んだような穴だ。
マユルのEVASにはサルベージ品の鑑定用に電磁誘導方式の金属探知機が内蔵されている。感度を調整して起動すると、ピン、ピン、と二つの反応が死体の体内から返ってきた。
これは事故ではない。コロシだ。
ゾッと寒気がして顔を上げると、死体と目が合った。恐怖に歪んだような表情。
ヨンコイチの試運転を兼ねた簡単なサルベージオペレーションは、どうやらまったく別の話に変わってしまったらしい。