天井のディスプレイの中で、ヴァルマ支社長が手元の原稿を読み上げていた。
『サンダー・クマール保安部長は、本日付で退任します。今後は海王星圏の窒素採集事業に移り、保安の任に当たります。後任の保安部長には、プリヤ・パテル保安次長を充てます。』
海王星は太陽からの距離がケレスの11倍もある。体のいい島流しだ。
「窒素なんて、空気スタンドで安売りしてるのに。」
記者の1人が、ドーン採掘基地襲撃の責任を取らせる人事かと食い下がった。支社長の回答は『全社的な人員割り振りに基づく、総合的な判断です』。
『保安部の艦隊は、まだヒギエアへ向かう途中です。部長に近いエンフォーサーは、ほとんどがあちらに乗っています。』
「留守のうちに、ってわけね。思い切ったなあ。」
フラッペの残りをストローで吸い上げた。保安部長の首がすげ替わっても、独立系のサルベージャーへの影響はさほどない。
RSD本社と緊張関係にあったケレス支社「現地派」だが、直近防戦一方だったとしても、ケレスの経済に深く根を張った財務部・保安部・ゴールファミリーのトライアングルはそうやすやすとは崩れない。そう考えていたはずだ。彼らがいなくなれば、ピアッツィ・ベースの運営は立ち行かなくなる、とも。
それに、大きな人事異動は4月頭に出すと見込んでいただろう。季節外れの左遷人事は目立つし、左遷の理由を正直に言ってしまえばケレスでの不始末を喧伝することになる。RSD本社もケレス支社も、権力闘争は水面下で行おうとしていたはずだ。だからイエローメディアを介した間接的な世論工作だし、だから「暗闘」なのだ。
そこまで考えてみれば、今目の前のスクリーンに映っている事態がどれだけ異常なことかわかる。
まず、「エンフォーサーの実力部隊が留守のうちに」親玉を飛ばしてしまおうというわけだが、こんな不意打ちをカマされて、帰ってきた後の彼らがマジメにケレスの治安維持にあたってくれるとは思えない。アンスーズエオーの護衛艦隊がヒギエアに戻った後、海賊対策は誰がやるのだろうか?
『ソーシャルメディア上ではサンダー保安部長の手腕を評価する声も多く、工作が入っている分を割り引いても、ケレス世論は今回の措置に懐疑的な見方が優勢です。』
「なんといっても、マーズ・アタックの後にケレスの治安を回復した英雄だからね。」
そういうわけで、マユルはこの日もいつものフードコートで、プルメリアと情勢分析のおしゃべりをしていた。のんきに。
でもきっと、もう少し慎重になって、飛躍して考えておくべきだったのだ。リスクを。自分が置かれた状況を。
マユルはこういう「上」の情勢に疎かったし、プルメリアは地球で組まれたサブスクAIに過ぎなかったし、つまりはケレスで何が起きているか、これから何が起きるか、わからなかったのだ。
マユルは孤立した独立系サルベージャーで、人付き合いも少なくって、孤独に強い代わりに仲間を持つことによる強さを持っておらず、それはそれはまるまると肥えた羊だったのだ。
『マスター。ゴールファミリーの動きがいつもと違います。』 プルメリアの声音はいつもと同じだが、それでも切羽詰ったような様子があった。
「違うって、どう?」
『アクシオトルに出ていた系列の運送会社の便が、今日の分から全部消えました。それと、Sゲートにあるフロント企業の船が2隻、推進剤の水を満タンに補給しました。どちらも行き先の届けを出していません。』
「夜逃げでもするのかな?」
おそらく保険。いきなり強権を行使したRSD本社の動きを警戒し、万一ゴールファミリーまで潰しにかかるならば逃げの一手を打つ算段だろう。
あるいは、そこまでして本社によるケレス支配を確立したかった理由がある?急がなければならない理由が?
マニシャの組織図では、あの監査部ですら本社の尖兵でしかなかった。ケレス現地派を追い落とそうとしていたのは、RSD本社のマーケティング・戦略主導部、そして戦略投資部だった。
顔を上げると、フードコートの入り口に、黒いコートの男が2人立っていた。
片方の顔には見覚えがあった。アイシュワリヤで、仲間と有線のケーブルを繋いでいた1人だ。
2人は端の卓から順に、客の顔を1人ずつ見ていった。ソイヌードルの屋台の親父が鍋の湯気の向こうでうつむいた。
あちらはマユルの顔を覚えているだろうか?
(まさか、私に用があるわけじゃあない、だろうけど。)
『ゴールファミリーの動向について調査しましょうか?』
(うん。コストをかけても良いよ。口座、少ないけど。)
アップルパイを口に放り込むと、席を立った。エレベーターに向かえば目立ってしまうから、逆方向へと歩いた。
网吧《WAN-bar》「ソンガナガラム」の個室ブースは1時間3ドルで、内側から鍵が掛かる。
「このさい、もうケレスを離れようか。核融合炉の登録自体はできてるんだから、電力変換モジュールは木星あたりで再登録すれば良いでしょ。」
『急いだほうが良いかもしれません。ゴールファミリーの動きが、不穏です。』
空中に、ファイブスター号の登録番号が浮かんだ。
『ゴールファミリーの構成員たちが使う「尋ね人」の掲示板に、この番号が載りました。見つけたら知らせろ、という種類の手配です。』
「……よくそんなデータにアクセスできたね?」
『ドイルです。』
9ヶ月前、スクラップ船の中で死体を見つけた件で、弾の鑑定をしてくれた探偵AIだ。
『手配の理由も、教えてもらいました。ヤネズ氏の事案の続報が届いています。』
〈事案番号CER-2162-1108 続報〉
〈被害者マルシオ・ヤネズは、火星系組織の運び屋と判明〉
〈殺害の被疑者として、ゴールファミリーの構成員3名を検挙。うち1名は幹部〉
〈指揮 保安次長P・パテル〉
〈捜査の端緒 一般からの情報提供〉
犯人はEMPで船ごと焼いて、部品や金目のものを持っていかなかった。マフィンの袋に隠したティエンティーも、置いていった。
あれは物盗りではなかった。火星の売人たちに宛てた、見せしめだったのだ。
ケシャヴ・ゴールは火星の麻薬密売を激しく敵視していた。そういうパフォーマンスをしていた。すぐそこのフードコートで。
困ったことに、この見せしめのスクラップを拾って、RSDの密告箱へと送ったのは、マユルである。おかげでゴールファミリーは幹部を1人失い、RSD本社派であるパテル次長は手柄を立てた。
その彼が今日から保安部長になったのも、この手柄が影響しているのかもしれない。
「木星は……無理か。ヒギエアならどうかな?」
幸か不幸か食料品類は買い出しをしたばかりだし、ファイブスター号のバッテリーは充電されている。
ファミリーの手が届かないところまで、行くしかない。
プルメリアの計算では、無理せず飛ぶなら2ヶ月弱はかかるはずだ。もうちょっと備蓄が欲しいが、途中スノードームに寄るのは危ないか?現金も心もとない。
最悪、食料や酸素は途中のスクラップから調達する手もある。もちろん、無許可の闇サルベージで。
『「緊急時のやむを得ない物資調達」のためのサルベージですか。エンフォーサーが混乱している今なら、リスクは小さくなりそうですね。』
「どっちみちケレスには戻らないからね。3日後の試験もキャンセルしといて。」
来月の3,400ドルの心配がこんな形で片付くとは思わなかった。
ヒギエアは7,000個以上の小惑星に囲まれた天体で、ケレスほどじゃないが軌道上の経済活動が活発だ。ガスパリス・ベースにホームを移すのもアリアリのアリだ。
それから、チャイルド・セーフティ・ファンド宛てに短い手紙を書いた。15歳まで面倒を見てくれたNPOだ。
本当は金一封でも入れたかったが、今はとにかく現金がない。
次に、シンギュラリティ社のマイページを開いた。
プルメリアはピアッツィ・ベースのサーバーで動いている。ケレスを離れて料金を払えなくなれば、契約ごと消えてしまう。
ページの下のほうに、「パーソナライズデータの保管」という項目があった。これで3年ぶんの調整を保存しておける。どこかで計算機を借りられたら、今のプルメリアを呼び戻せる。
「こんないきなり身辺整理をやることになるとはね。……凍結しといたら、また会える?」
『どこかでサーバーを借りるか、船に計算モジュールを積めば。』
「最初の頃より、ずいぶん口が減らなくなったよね。」
『マスターの、3年がかりの調整の成果です。』
ソンガナガラムを出て、ドミトリーへ戻った。フードコートの前は避けて、トイレの脇の通路を回った。
部屋の荷物は、EVAS用のバッグ1つに収まった。アメニティ類に、紺のジャケットと灰色のパンツ。ユー・ニヨンで買ったよそ行きの服。作業用のシャツとオーバーオール。肌着が何枚か。藻類パウダーの化粧水。
ドミトリーの契約は、まだ月末まで残っている。鍵のカードは、扉の差し込み口に挿したままにしておいた。
「あとは出るだけか。……ねえ。そもそもファイブスター号って、ファミリーの手が回ってたりしない?」
『カメラの映像を見る限りでは、周辺に異常はありません。』
「そっか。ファミリーはピアッツィの外には影響力ほぼないからね。」
『そうは言っても、ベース周辺で動かせる戦力はあります。推進剤も満タンです。』
「あー。3,000km離れるまでは危ないかな。通常スラスターだけだとそこまで加速力に自信ないし。」
核融合炉を積んでしまったがために、ファイブスター号の空荷の重量は倍以上になっている。
「いくらなんでも、ベース付近で核融合炉点火はないなぁ。世界の敵になっちゃう。」
マユルは、ゴールファミリーが直接的な手段に訴えることは考えにくいと思っている。RSD本社には絶対に敵わないからだ。
彼らはケレスに根を張ることで、容易に引っこ抜かれないようにしている。ピアッツィ・ベース内や地表で武力を振り回したりすれば、いたずらに火種を撒くだけ。この前の麻薬拠点襲撃ですらベース内であれだけの騒ぎになったのだ。「内部の吊し上げ」で起きる失火をRSDが許容するとは思えないし、彼らが張った根にも火が回るだろう。人心の離反という形で。
ただ、出港後から3,000kmの移動中となると話は別だ。エンフォーサーが機能不全であろう今だと、海賊被害の1つとして片付けられてしまうかもしれない。それで十分、ファミリー内部への示しと脅しにはなる。
万一ゴールファミリーがファイブスター号を狙ってくるなら……撃つのを躊躇させるような、何かしらの盾が必要だ。ハッタリでも張り子の虎でも良いから。
『でしたら、ゴールファミリーの外で頼れる伝手は頼りましょう。』
バッグを背負いながら、マユルは頼れそうな顔を1つずつ思い浮かべていった。
ダウィット・ベケレさんなら、きっと親身になってくれる。ただ、独立の採掘屋にファミリーの相手は務まらない。巻き込むだけだ。
『PGSのガリーナ航宙部長なら、傘下入りの話をまだ取り下げていないはずです。』
「一度断った相手だよ。それにPGSだって、ケレスの港で商売してるんだから。ファミリーと揉めてまで、私を拾う理由が無い。」
PGSはサルベージャーの中では大手だが、ケレス経済全体の中では中堅でしかない。
ゲームのフレンド欄には、あの火星の海賊もいる。一言送れば届くだろう。だが、海賊に助けを求めた記録が残ったらどうなるか。ファミリーに、状況証拠をもう1つ差し出すだけだ。
力だけで言えば、いちばん頼りになるのは監査部だ。ラージュに泣きつけば、守ってはくれるかもしれない。けれどそれは、「監査部の手先」という噂に、自分で判子を押すようなものだった。
プルメリアがマニシャの組織図を空中に広げた。
青と赤の箱と矢印が踊る。
マユルはここで初めて、この図を「自分を中心にして」見渡してみた。そうすると、1つ不思議な点がある。
「太火聯盟」「天地会」「14K火」「ファントム・ダディー」。そこから伸びる黒い矢印は、どれもケレス支社か第四艦隊へ向かっていた。マユルの周りへは、1本も届いていない。
マユルはあのマッド・サイエンティストに呼ばれて、北方工業のビル内に行って依頼まで受けたのだ。レンさんにも伝えていたし、マニシャがそれを知らないはずがない。
その点をこの組織図に描かなかったのは、何か意図がある?あるいはない?
火星の統治企業の一角である北方工業なら、ファミリーもRSD監査部も怖くないほどの規模がある。その割に今のケレスの揉め事には、どの陣営としても名前が出てこない。
「タオさんにこのメッセージを……いや、こうかな?」
文面を3回書き直して、結局いちばん短いものにした。
〈ご依頼の件、必要な資材が整いましたので、これから調達に動きます。お待たせして恐れ入ります。〉
北方工業機動艙開発公司からの依頼は未だ有効である。万一マユルがゴールファミリーに襲われそうになったら、「北方工業の依頼を妨害するのか?」と強弁できる、かもしれない。
それにこれなら、タオ側からコンタクトを取ってもらえる可能性もある。核融合炉で行動半径が大幅に伸びたのは事実。タオに借りを作らずに、一時的な「後ろ盾」を得られるかもしれない。
地表階。Nゲートでエレベーターを降りた。
放射性物質を積んだ船の枠は、今も駐機場のいちばん端だった。そこへ出るエアロックも、長い通路の一番奥にあった。
突き当たりの扉には、丸い覗き窓が付いていた。真っ黒な空の下、駐機場の端にファイブスター号が見えた。
エアロックの手前でヘルメットを被ろうとしたとき、乾いた破裂音がした。同時に、左腕を思い切り殴られた。
EVASの警告が、視界の端で赤く灯った。
〈左上腕 穿孔2箇所 気密異常〉
袖の穴から血が溢れて、大粒の玉になってゆっくりと床へ落ちていった。
エアロックの扉に背中をぶつけて、そのままずるずると膝をついた。ケレスの重力では、倒れるのにさえ時間がかかる。
身体を伏せながら、右手で肩口のカフを締め上げた。袖に穴が開いたとき、そこから先の気密を切り離すための仕組みだ。止血帯の代わりにもなる。
『マスター!逃げてください!保安部へ自動通報を行いました。射手は……』
通路に並ぶ柱の陰から、人影が2つ出てきた。
1人は黒いマスクで顔を隠し、腕ほどの長さの携行レールガンを構えていた。
もう1人の顔には見覚えがあった。ゴールファミリーのドン、ケシャヴ・ゴールその人だった。
血の気が引いた。
「コイツが例のハゲタカか。まだ若いじゃねえか。」
厚底のブーツが、床を鳴らして近づいてきた。
「わかるだろ?落とし前を付けに来たんだ。俺達ファミリーは、身内を大事にするのがモットーだ。だからこそ、裏切り者には容赦はしねぇ。」
(コイツ、私をスケープゴートにするつもりだ。)
マユルは唇を噛み、顔だけ上げてケシャヴと目を合わせた。
「……裏切りなんて、してません。」
「わかったわかった。わざとじゃないってんだろ?」
大きな手が面倒くさそうに振られた。
「だがな、こっちにも立場ってものがあるんだ。見せしめになってもらわにゃ、困る。」
スナイパーの襟元で、録画のランプが赤く灯っていた。
「統制のために、見せしめが必要なのはわかります。だから、落とし前は付いたということにしませんか?」
「ああ?何か勘違いしてねーか?」
『マスター、すぐに逃げて下さい。エアロック前の空間、カメラが潰されています。ダミー映像しか流れていません。』
そういうことか。マユルは力が抜けそうになるのを、必死に支えた。
ゴールファミリーを甘く見ていた。RSDには勝てないが、バレなければ問題ない。ここピアッツィ・ベースの中に限れば、ファミリーは
ファイブスター号までは、エアロックの外を300m歩かなければならない。EVASに穴を開けたまま出れば、空気が抜けていくうえに、傷口からの出血もひどくなる。
右手で太腿のポケットを探った。補修パッチの箱が、血で濡れた指先で滑った。
「最近ウチの若い奴らが不甲斐なくてよぉ。火星の連中に、いいように暴れられて。ざまあないぜ。なあ?」
ケシャヴが右に視線を送ると、スナイパーが小さく頷いた。
「ここはケレスだ。俺達のシマだぞ?ナメられるのは不快なんだ。」
パッチを1枚、袖の上から穴に押し付けた。入った穴は塞いだ。弾丸が出た穴は、どこだ。
「そしてお前だよ。お前。余計な密告ばかりしやがって。」
ケシャヴがしゃがみ込み、鼻先がぶつかりそうな距離で覗き込んできた。
「お前が扱ったのは情報だぞ?情報という財だ。情報はときに、命よりも重いもんだぜ?」
息を吸うだけで、左肩が軋んだ。
「カネに目がくらんだか?本社の連中の靴ばかり舐めやがって。監査部の犬なんてやる前に、少しは裏を考えるべきだったな。」
ケシャヴが立ち上がった。スナイパーがレールガンを構え、銃口をマユルの頭に向けた。
覗き窓の向こうのファイブスター号が、ひどく遠かった。
「これはこれは、ゴールさん。2週間ぶりですか。」
通路に、聞き覚えのある声が響いた。
エレベーターホールの明かりを背に、グレーのジャケットの男が1人歩いてきた。散歩でもするような足取りだった。床に伸びた長い影が、ケシャヴの足元まで届いた。
ラージュだった。
ケシャヴが弾かれたように振り向いた。
「ラジェシュ・シャルマ!監査部長が……なぜここに!」
監査部長?あのネズミが?
ケシャヴは慌てたように、横のスナイパーへ手で合図を送った。スナイパーはレールガンを放し、床に落とした。
「ベース内での騒動は歓迎しません。やつあたりは、ほどほどにした方がよろしいかと。」
「チッ……。ヌケヌケと。そもそもは、お前がコイツを利用したからじゃねえか。」
「ちゃんと相応の対価は払っていますよ。そう、『対価を受け取る』ことへの対価を。」
「有望な独立系に、監査部から目立つ報酬を受け取らせる。そうすりゃ周りは『コイツが中型船をこしらえるくらい稼いでるのは、監査部に情報を売ってるからだ』と思い込む。コイツ自身の仕事の成果に『監査部の報酬』を混ぜ込んで、全部監査部の色にしちまったんだ。そういう仕掛けだろ?」
そう。そういう仕掛けだ。依頼を受けた当時はわかっていなかったが、ダイバータなんて高額の報酬をもらえた裏にはこんなカラクリがあったのだ。
監査部は払う。払いが良い。そう宣伝する効果もあるから、きっと
マユルから否定しようにも、もらった報酬が「ダイバータだけ」という事実には秘密保持義務が課せられている。
「わかってらっしゃるじゃないですか。ならなおさら、やつあたりは不要では?」
「引っ掻き回されるコッチとしては、良い迷惑だ。嫉妬心を煽るようなマネしやがって。地元のことを少しも考えてねえ。」
「また見せしめですか。」
「お前がそう仕向けたんだろうが。事実であろうとなかろうと、コイツは『ウワサ』の上じゃ監査部の犬ってことになってるんだ。それを打ち消す材料も無ぇ。こうなったら、コッチもやるしかなくなっちまうんだよ。」
ケシャヴは忌々しげな表情だ。やはり、保安部長がいなくなったことで相当追い詰められているらしい。
「おやおや。我々は、下層まで手を出すつもりはなかったのですが。」
「コッチではな、人間が信用できねぇし、されねぇんだ。だからこそ、甘く見られるわけにはいかんのよ。」
床のレールガンを挟んで2人が睨み合っている間に、2枚目のパッチを肘の裏に貼った。弾は腕を貫いて、後ろの隔壁にめり込んでいた。
左腕の感覚は、もうほとんど無かった。
手当ては後でいい。まずは、ここから逃げなければ。
ケシャヴの視線が一瞬だけ宙を泳いだ。ラージュ……ラジェシュの首も、わずかに傾いていた。電脳越しに、何かをやり取りしているらしい。
「クソがッ!……おい、俺達は引き上げだ。監査部の顔を立てた、そういうことにしてやる。」
「ご理解を頂けたようで、なによりですね。」
スナイパーは手ぶらのまま、ケシャヴの後に続いた。2つの背中が柱の陰へ消えていった。
ラジェシュがこちらへ向き直った。
「ああ、マユルさん。お別れですね。」
「えっと、助けてくださってありがとうございます。」
マユルは痛みをこらえながら、警戒の目を向けている。
「念のため、ご説明を。彼らが諦めたのは、当社の治安維持権が及ぶ範囲、つまりこの基地の上と、ケレスの防空域までです。そこから先は、ご自身でやってもらうしかありません。まあ……。」
ラジェシュが一度だけ目を細めた。
「あなたなら、大丈夫でしょう。」
ラジェシュの上着の内ポケットから、白く細長いケースが出てきた。
「ゴール氏の話を聞くに、報酬が不足していたかもしれません。これは、埋め合わせとして。」
放られたケースは、ゆっくりと弧を描いて飛んできた。
医療用マイクロボットの注射器、「メディ・プレイトレット」。ガラクタ市場に出回る偽物ではなく、純正品の封印が付いていた。
顔を上げたときには、ラジェシュはもう背を向けていた。グレーの背中が、エレベーターホールの明かりの中へ小さくなっていった。
『ワーカードローンが到着しました。エアロックの外に出ていただければ、運べます。』
プルメリアの声とともにエアロックの外扉が開くと、ワーカードローンが低い姿勢で待っていた。マユルの胴を抱え上げて、床を掴みながら船に向かった。
カフから先の袖を外すと、左腕は血の気が失せて、蝋のように白かった。肘の裏と上腕の外側に、黒い穴が1つずつ開いていた。
『注射は血管にどうぞ。1分待ってから、カフを少しずつ緩めてください。血と一緒に、マイクロボットが傷口まで流れていきます。』
注射器の位置、角度が視界に表示される。その指示に従って、スライダーを動かした。
カフを緩めると、しびれていた腕に血が戻ってきた。焼けるように痛い。穴から滲んだ血はほどなく止まった。
「腕、元に戻る?」
『止血帯を締めていたのは22分です。2時間を超えていないので、腕は守れたはずです。撃たれた傷のほうは、病院で診てもらう必要があります。』
「病院なんて、贅沢品だよ。保険も無いのに。医療訴訟を起こさないって一筆入れて安くしてもらっても、何千ドルも取られるんだから。」
『権利放棄の同意書を付けても、ピアッツィの相場は3,600ドルからです。』
「口座の残り、2,000ドルも無いんだけど。」
ちなみに、正規品の「メディ・プレイトレット」の価格は4,800ドルらしい。即効性があるので軍隊でも使われているのだとか。
右手だけで出航申請を打った。管制AIは何事も無かったように、出航ベクトルを返してきた。
通常スラスターを噴かして、駐機場を離れた。
超伝導磁石は試運転の日から冷やしたままにしてあった。液体ヘリウムを買い直す金が無かったからだが、むしろ助かった。除外半径を出れば、すぐにでも核融合炉に火を入れられる。
ラジェシュの言う防空域は、ベースから300kmまでだ。除外半径は3,000km。その間の2,700km、できるだけ速度を付けて逃げ切るしかない。3,000km離れていればどこでも良いというのがマユルの強みだ。Sゲートから来る戦闘艦に追いつかれないように、どうコースを取るか。
追いかけにくいコースを通ったつもりではあるのだが、さすがに身軽な迎撃艦は振り抜けなかったらしい。
出航して2時間。3DPPIの上に赤い印が2つ灯った。艦首にレールガン、左右に翼状の構造物と小型ミサイル。迎撃艦「ラム・ダオ級」。間違いない、プルメリアの情報にあった奴。ゴールファミリーの戦闘艦だ。
公開通信で「本艦は北方工業公司の依頼を受け、資材回収に向かっています。よもや邪魔するおつもりですか?」 と送ってみたが、
『なんの話か?我々は
「なにがシャドウ・スコードロンだ!ゲーム気分かっ!」
先頭の1隻の船首がちかりと光った。
『発砲。弾速は秒速3kmほど、着弾まで33秒です。』 通信繋ぎっぱなしのプルメリアからガイドが来る。
33秒もあれば、中型スラスターを横へ振って30mはずらせる。
撃つ側は、こちらの加速がこのまま続くと読んで、着弾の瞬間の位置を狙ってくる。その読みを外せばいい。ここからはランダム軌道でお祈りタイムだ。
33秒後、3DPPIの上で赤い線が1本、船から12m離れたところを抜けて消えた。
2発目、3発目と続いた。
横へ噴いた分だけ、除外半径へ向かう加速は削られる。バッテリーの残量も、1発ごとに目減りしていった。冷凍機の電気も、そこから引かれていた。
『2隻とも加速を上げました。
核融合炉が、重い…!距離が半分になれば、弾が届くまでの時間も半分になる。
『このままだと、20分後には60kmまで詰められます。除外半径の外までは、まだ2時間近くかかります。』
60kmなら、ずらせる幅は11m。ファイブスター号の幅にも足りない。
ミサイルは飛んでこなかった。ベースのレーダーに噴射炎を映したくないのだろう。今のところは。
「プルメリア、保安部の緊急窓口!」
〈保安部緊急窓口 受付番号CER-2162-4471 担当者より折り返しご連絡いたします〉
「折り返される前に死ぬって!」
3DPPIの端に、エンフォーサーのコラ級が1隻映っていた。1,200km離れた軌道を、こちらと同じ向きに流れていた。呼び出しのランプは、点滅を続けるばかりだった。
『距離70km。』
次の1発は読みを外しきれなかった。右の船倉を弾が抜けて、どん、と鈍い震えが床から伝わってきた。
『右の船倉に貫通1。中は空です。』
売れるものは全部売り払ってきた。貧乏も、たまには役に立つ。
次に後ろから当たるのは、核融合炉かもしれない。
右手が、コンソールの速度スライダーへ伸びていた。核融合炉を起動して全速まで上げれば、加速は今の倍になる。
だが、噴射口はピアッツィ・ベースを向いていた。この距離で点ければ、Nゲートの駐機場に宇宙線の10倍を超える放射線が降る。そこで働く整備員たちが着ているのは、EVASだけだ。
(これでお尋ね者か。)
覚悟を決めようとしたその時。視界の端に、通知が1件浮かんだ。IPNC経由の、ゲームのメッセージ通知だ。
こんなときに。払いのけようとした視線が、差出人に引っかかった。
眼帯を付けたクマのアイコン。あの、火星の海賊だった。
急いで開封すると、そこにはこう書かれていた。
『死にたくなかったら「助けて」って言って』