炎の身に宿りし気高き心
剣を掲げて緋の丘を越える
その名は****
夜天の将騎
終焉は間近に迫っていた。
紅蓮と灰塵の焦土と化した大地。薄明の淵へと失われ続ける未来。
狂騒と死。悲痛と嘆き。あまりにも不快な不協和音。延々と紡がれる葬送曲の旋律が、四方彼方より轟き続ける。
其処は地獄の窯の最奥にも近しい戦場の片隅にして底。地に膝を落とし、雨曝しにされた野良犬の様に伏していた桃髪碧眼の女騎士は、四肢を巡る己の感覚と魔力の濁流さながらに澱んだ気配から、明確にひとつの答えを導き出していた。
嘗て、今生の主君より賜った絢爛にして練達された騎士甲冑の大部分はその面影を偲ぶことすら出来ぬ程に打ち砕かれ、甲冑に覆われていた己が肢体のいたる箇所から流れ落ち続けた血は乾き果て、錆臭さとドス黒く不快な装飾へと様変わりを果たして全身を彩っている。
その右手には長年の苦難を共にした愛機たる『炎の魔剣』。修復も望めぬほどに刃毀れと罅の入った刀身を晒しているそれは、この国の古い言葉で「世界の歪みを断つ」との意味が込められた銘を持つ。
地に突き刺した子供の背丈ほどもある大剣を支えに、杖に縋りつく老婆が如く様相で立ち上がろうとするが、すでに虫の息と化したその身に力などなく、敢え無くバランスを崩した女騎士は再び地に膝を落とす。
低く喘ぎ声を上げながら、見やるのは己の左半身。そこに在った筈のものは既に無く、窕な虚空が大地との間に揺蕩うのみ。
失われたものは左腕。
死に至るに足るその戦傷から救ってくれたのは、掛け替えの無き絆で結ばれた友。今はもう、その紅顔に合間見えることの叶わぬ同胞。
瞼を閉じて暗幕を世界に垂れかければ、淡い金糸の如き金髪と白磁の肌を数多の人々と己の朱で染めながらも、決して挫けることなく懸命に仲間の身を案じ続ける姿が浮かぶ。そして、走馬灯のように過る彼女の瞳から光が失われる瞬間。かき抱いた右腕の中で消えゆく生の灯火と存在。
騎士として生き抜いた日々の中で、失われることは常だった。
守りたいと誓った、幾多の恐怖と害悪から。
救いたいと思った、無数の哀しみと嘆きから。
打倒したいと願った、あらゆる絶望と運命を。
騎士として目指した全ては、騎士として求めた総ては、騎士として信じた凡ては、奪われ続ける日々の中で崩れ去り、そして、消え去った。
共に夢を見た郷友がいて、理想を語り合った親友がいて、同じ道を歩いていた朋友がいて、背を預けあった戦友がいた。
騎士であることを認め合った者達は、騎士としての誇りと生き様を胸に散った。
剣を捧げた主は、馬で駆けた故国は、命を賭して守り続けた民は、心を通わせたあの者は、最早決して戻れぬ過去の夢へと変わった。
騎士でありたかった自分は、今この時を経て漸く騎士ではありえなかったと知ったのだ。
「道化だな……」
発した真実は高き薄明穹へと誘われ、あまりにも陳腐な己の終幕を飾るに相応しい気がした。
暗雲が空も心も覆ってゆくのだ。後悔と懺悔が闇となって染み渡るのだ。
この世界に残るものは、虚無だけだった。
終わりが近い。
「――――生きているのですか?」
気配が声を伴って漂い来る。
終ぞ聞いた覚えの無い声は、冷えた深淵の底に沈んでいた意識を掬い上げ、微睡みに似た覚醒を齎す。
「……死神か」
幼稚で夢見がちで陳腐ではあるが、現実に則した言葉であったのであろう。今此処にて女騎士の眼前に現れた存在は、その形容をして異界の幽鬼か死に誘う女神を想わせた。
長く絡む様な銀月の輝きを秘めた髪は漆黒の長衣に流れ落ち、生気を感じさせない白亜の肌、滴る血を内に封じ込めた様な紅玉の瞳が熱のない光を放つ。
「いいえ、違います。少なくともまだ……幽世の白砂に横たう存在ではありません」
秀麗な面持ちを僅かに歪ませ、哀しみの色を滲ませる。
届いた声に人の持つ熱を感じ、目の前の存在が生を帯びた女性だと女騎士は理解した。
「そうか……すまなかった。無礼を許してもらいたい」
女騎士の静かな謝罪の言葉に、黒衣の女性は小さく頭を振ることで答える。彼女に咎めの意思など無かった。
「何故、この様な場所にいる? すでに我が城も砦も陥落し、城下の街も火の手に飲まれた。敵の軍勢は全てを蹂躙し、刻一刻と敵兵の影は迫っている。早く……逃げよ」
時折切れ切れになりながらも紡いだ言葉。僅かな疑問とそれ以上の忠告の科白は、今の女騎士に出来る精一杯の思い遣りだった。最早痛みすら薄れ始めた己の身体が雄弁に語っている。女騎士自身に誰かを守りながら逃げる時間などは残されていないのだと。
「私は……この絶え間なく続く戦乱の時の中で失われゆく世界の知恵を記録する為に各地を巡っています。無価値で無意味な行為と嘲りの声を向かられるやもしれませんが、それでも人々が培い築き上げた知識や技術が伝えられることなく、ただ久遠の彼方へと失われてゆくことはあまりにも悲しい」
それは独白の様だった。
女騎士は物言わず耳を傾ける。口を挟むのが億劫だったのかもしれない。或いは、渇いた唇にへばりつく鉄錆にも似た黒ずんだ紅を引き剥がす気になれなかったのか。
「いずれ争いのない時代が訪れた時に、私達が生きた事跡を少しでも伝えたい。私達が残した知識や技術が後の世に生きる人達にとって少しでも役立つものであって欲しい。私達は……私達という人間は、決して破壊と争いだけに明け暮れていたのではないと、無為な時間を刻んでいたのではなかったのだと。そう……証明したい」
声を上げて笑いたかったが、疲れ果てた襤褸屑の様な身体ではそれも叶わず、鉄の味しかしない口の中で苦笑を噛み締める。
黒衣の女性が熱を持って語る事柄は、女騎士にとっては現実を知らない子供の語る絵空事にも似ていて、真摯な声が酷く滑稽に聞こえると思ったからだ。
「――――だから、誰よりも強く気高く生きた貴女の事も私は残したいと思っています」
漸く結実を得た話の最後に齎された言葉は、理解の及ばない戯言に聞こえた。
……残す?
……何を?
……自分を?
自分など、残すべき価値など路傍の石ほどにも値しない。人としても騎士としても女としても不完全な結末しか迎えられなかった愚かな自分。
騎士として生きることの中で脆弱さが罪に繋がると言うのならば、脆弱なままでしか生きられなかった己に罰を与えたい。この大いなる罪に見合うだけの厳罰を。
「この書に手を置いて下さい」
それには不思議と惹きつけられるものがあった。
黒衣の内のどこからともなく取り出され、女騎士へと差し出されたのは書物。漆黒の革表紙に金十字の意匠が施された美しい装丁の書。
霞む視界で書を眺めると、淡い光輝を縁から放ち始めた書が中空へと浮かび上がり、音もなく女騎士が触れられる距離へと近づく。
何故だろうか? 拒絶する意思は、微塵も起きなかった。
自分の心は壊れてしまったのだろうか? ――――否、違う。そうではない。そうではないのだ。
たとえ、目の前の女の誠実そうな表情が死に瀕した愚かな騎士を偽るための仮面であろうと。切実に紡ぎ続ける言葉の全てに人知の及ばない悪意と策謀の意図が潜んでいようと。書に手を置いた瞬間に千古百万の呪いで我が身が灼かれ、この魂を邪なる存在の生贄へと捧げられることになろうと。今、この場で与えられる全ての選択を甘んじて受け入れることこそが重要であると。
何故かは分からない。分からないが。女騎士にとってはその行為こそがこの上ない贖罪に繋がるように思われたのだ。
そうだった。結局、女騎士はただ何かに赦しを請いたかったのだ。
救いではない。救いなどいらない。救われたいとは思わない。
願うべきそれは、決して救済などではない。
女騎士は唐突に理解した。
己という存在は、赦しを請うというただそれだけのことで、何かを成したという事実を手に入れようとしたのだ。何とちっぽけな我欲。さもしい独善。最後の瞬間になって気づいてしまった己の浅ましさと弱さに、反吐の出る思いが全身を駆け巡る。
「我が夜天の書が貴女の存在を記録します」
女騎士の手が書の表紙にそっと置かれると、不可思議な光明が綴じた書の隙間から漏れ出し、周囲を一層深く淡く照らし出す。
光輝を秘めた無数の粒子が女騎士の全身を取り巻き、溶けるように身体の隅々を貫き、肉を骨を血を魔力を意思を魂を存在を編み解くようにして幾多の言霊の羅列へと還元してゆく。
皮肉な話だ。それは、女騎士が夢にも思わなかった結末の瞬間。
悲しいまでに美しく、残酷なまでに幻想的な死であった。
「最後に……貴女の名を告げて下さい。その名が書の字引きのひとつとなりましょう」
光塵の舞う中で響く終局の調べ。
そして、
「私の名は……」
全ては夜天へ。
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散光の煌めきが徐々に増えて、朝露が若葉の縁を潤していた。
「おはようございます、主」
「おはようさん。早いな~シグナムは。こんな早朝からトレーニングしとるんか?」
欠伸を噛み殺し、伸びをしながらリビングへと降りてきた八神はやては、中庭から届いた朝の挨拶に応じると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、その足で庭先へと出る。
「いえ、少々目が早く覚めたもので、軽く素振りをしていただけです」
片手に持った木刀を傍らに置き、「ありがとうございます」の言葉と共に差し出されたドリンク容器を受け取ると、軽く一飲みしてから、はやての疑問に答える。
「……夢を見ました」
暫しの沈黙の後、切り出された言葉。
「夢?」
表面上は静かだが、その内に秘められた僅かな重さを感じ取り、はやてが返す言葉もまた重さを含んだものとなる。
「えぇ、私ではない私の夢。戻ることのない過去の夢。ずっと……本当に長らく忘れていた、決して忘れてはいけない筈だった在りし日の夢を」
「それは……辛い夢やったん?」
抑揚の欠いた淡々とした語らいに、胸を強く締め付けられる思いがした。
もどかしさもそれ以上の愛おしさも胸に抱きながら、はやてはただ耳を傾け続ける。それが彼女達の最後の主たる者の責務であり、家族として生きる者の絆でもあったから。
「そう……かもしれません。そうでないのかもしれません」
ふと、声の質が変る気配がした。
「それでも、ひとつだけハッキリしたことがあります」
はやての目の前でゆっくりと伸びをし、振り向いて見せた顔。
そこにあったのは、穏やかで、優しい表情。
「主はやて。私は……貴女を。貴女やテスタロッサ、高町や今を共に過ごせる仲間達と巡り逢い、守ってこられたことを誇りに思います」
発せられた声もまた、浮かべられた表情と同様に穏やかで優しいものだった。
だが、はやてには分かった。その声の芯の部分には、揺るがぬ力強さが秘められていることが。
「貴女に出逢う前の私は、永く果てしなく続く闇の時の中で、何者にも屈しない強い騎士という理想の……いいえ、違いますね。そう。本当は、本当のところは、嘗て夢に見続けた空想の中の自分を演じていたんですね。実際には誰も守れず、何も成しえず、弱いままだった空虚な私。そんな私に本当の意味で守る機会と意思を下さったのは貴女です」
「そんな……持ち上げんといてな。私はそんな凄い人間ちゃうって」
「貴女は凄いですよ、主。貴女だけではない。テスタロッサも高町も皆ね。だからこそ、私は誇りを持って言える」
何を?
はやての囁くような問い掛けに、返ってくる笑みがますます深まる。
「私は……皆がいるこの世界が大好きなんです」
誰もが求めた平穏があった。
絶え間ない戦の日々の中で、今はもう、悠久なる時の渺茫の彼方に去ってしまった人々が見た夢。
一人の女騎士が願い続けた夢の日々。
本当の意味ではまだ不完全ではあっても、希望に満ちたそんな日々。
「良い朝ですね。主はやて」
「そうやね」
朝日の眩しさに目を細め、はやては胸の内に清々しい空気を吸い込む。全身に染み渡る朝の清浄な気配を感じながら、問い掛けに答えつつ改めて思う。
傍らに誰かが居れば、必ず穏やかな声の応答が返ってくる。そんな、尊さ。そんな、普通。
「今日もきっと、良い日になりそうや」
長く暗い夜は、明け始めたばかりだった。