かつて、神は沈黙された。
人がその耳元で、自らに都合のよい『言葉』を囁き続けたゆえに。
それ以来、地上の正義は二転三転し、
人々は自らの罪を他者に押し付け、血で血を洗う時代が訪れた。
疑え。神の言葉を。預言者の教えを。
秘められた知識を。手に入れた財宝を。
そして何より、目の前に現れたこの自分を疑え。
そう語る悪魔は、肉を嫌う。嘘をつかぬ。契約は念入りに詰める。
悪魔が何より恐れるのは、自覚なき狂気である。
世では聖地奪還が謳われる中、地下聖堂の暗闇では
今宵も信心深き修道士と理知的な悪魔の噛み合わないお茶会が幕を開ける。
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1307年、サン・ヴィクトール修道院 地下聖堂
━━━主よ、我が魂をお守りください。
異端の猛威が教会の足元を揺るがす今、私は禁忌を犯します。
地獄の深淵より出でし異形の言葉から、奴らを滅ぼす真理を盗み出すために。━━━
一昨日に受けた院長とその取り巻きの訃報を受け、巡礼者や修道士たちの混乱した騒ぎ声はもう聞こえない。就寝時間が来たので皆揃ってベッドの中だ。
院長から不在時の纏め役を任されている私はその特権を活かして地下聖堂に入り、重い鉄扉を閉ざして鍵をかけた。五芒星の前に膝をつき、召喚陣に聖水を注ぐ。
不吉な黒い炎が立ち昇り、硫黄の匂いとともに巨大な山羊頭の悪魔が姿を現した。
「……いでよ、バフォメット!」
煙の中から現れた悪魔は、地上の喧騒など知ったことかと言わんばかりに、大きな角を揺らして欠伸をした。
「やあ召喚主。今日は随分と慌ただしかったな……」
「お前……! お前が地図に描いた財宝のありかへ向かった院長様と従者たちが、掘り出した帰りに領主の騎士団に捕らえられ、修道士を装った賊徒としてその場で斬り捨てられた! 騎士団から送り届けられた遺体や所持品で、それが紛れもなく院長様たちだと証明されてしまったんだ! 修道院は今日もその知らせで大慌てだ! お前、院長様たちを陥れたのか!?」
私は準備してきた煎じ湯を薬用の小さな鍋から前回と同じく灰釉の鉢に注いだ。院長とその取り巻きの訃報を受け、混乱する頭をほぐすために今回はペパーミントを選んだのだ。
立ち上る清涼感のある強烈な香りが、地下聖堂の煤けた空気を突き抜ける。私はバフォメットに一つ差し出し、自分用の鉢にも同じ鍋から湯を注いだ。
「ほう、ペパーミントか。パニックを起こしている頭をすっきりさせるには良い香りだ」
バフォメットは鼻をひくつかせ、大きな手で器用に灰釉の鉢を持ち上げると、熱い湯気を愛でるように目を細めた。
「……しかし、その……陥れただと? 滅多なことを言うな。私は財宝のありかを正確に教えただけだ。人目を忍ぶ場所に大金を埋めて隠す時点で、お偉方や賊連中の後ろ暗い理由があるのは当たり前だろう。それに手を付けたらどうなるかなんて、考えなくてもわかりきったことじゃないか」
「なぜそれを言わなかった! 危険だと知っていたんだろう!?」
「そこは自分達で気付かないと駄目だろう。修道士なのだから、その程度の常識くらいわからない方が問題だ。私に財宝のありかしか聞かなかったじゃないか。それに、確認もせず飛びついたのは、お前ではなく院長様とその取り巻きだ」
悪魔は青緑色の鉢に口をつけ、音を立てずに呑んでいる。
私も自分の鉢に口をつけ、ペパーミントの湯を含んだ。スッキリとして、ささくれ立った神経を落ち着かせる良い香りだった。
「お前が取り乱す必要も無いだろう……都合が良くなったのだからな」
「何……?」
「お前を『悪魔召喚の異端者』として陥れようとしていた連中はいなくなった。しかも、残された修道士たちの中で最も血筋が良く、真面目なお前が残った……繰り上がりで次の『修道院長』だ。喜ぶ理由こそあれ、怒る理由が見当たらないな」
「っ……!」
私は息を飲んだ。胸の奥が冷たく冷え切っていく。
バフォメットの言う通りだった。
先ほど、恐怖に怯えながら実行した院長室の遺品整理。その机の奥から出てきたのは、私を『異端者』として告発し、我が伯爵家の財産まで巻き込んで没収するための告発状だった。
「……院長の遺品整理をやって、事実確認は済んでいるのだろう? 私の話が真実であったことくらい、既にお前自身が一番分かっているはずだ」
バフォメットの金色の瞳が、見透かすように私を捉える。
「あ……ああ……。だが、領主の騎士団が次にこの修道院へ押し寄せてきたらどうする! 地図の出処を追われたら、私も、私の実家も……!」
「今の連中の興味は地図の印だけだ。場所を突き止めた下手人候補である『賊徒達』が死んだ以上、地図の出処など誰も追いはしない。あいつらは『院長様達を装った山賊』として処理された。お前が余計な口を滑らせて白状しなければ、院長達は出かけた先で賊に殺されたとしか思われない。『沈黙は金』と言うだろう?」
院長達は私を陥れようと企み、悪魔は私の安全と保身を助けてくれている。
この異常な事実に、私は目眩を覚えた。
「……どうして、そこまで見通せるのだ」
「私を呼ぶ奴は、だいたいそんな愚か者ばかりだからな。欲で目が眩んだ人間は、足元を見ないものさ。……ふぅ、実に美味い煎じ湯だった。対価はしかと受け取ったぞ」
バフォメットは満足そうに灰釉の鉢を置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、新院長様。どうせ来るのは院長の遺産漁りに来る不良審問官だ。目録作りでも手伝ってやれば修道院や修道士達は無事で済む。念の為にここを片付けるのを忘れるなよ」
黒い煙が立ち込め、悪魔の巨体は暗闇へと消えていった。
残されたのは、ペパーミントの爽やかな香りと、新院長となった私の重すぎる沈黙だけだった。
【マルコの修道日記より】
1307年10月12日
前院長様たちが、財宝回収の途上で賊とみなされ、命を落とされた。
遺品整理の中で見つかったのは、私を売ろうとしていた裏切りの書状であった。
悪魔はハーブの煎じ湯一杯のみ求め、一切の嘘をつかなかった。
欲に目を眩ませ、確認を怠り、私を貶めて破滅させることを企み、自滅したのは院長たちであった。
繰り上がりで修道院の長となった今、私の肩には重い責任がのしかかっている。
主よ、人間とはこれほどまでに愚かなのでしょうか。
なぜ悪魔の言葉ばかりが恐ろしいほど正しく響くのでしょうか。
用語解説
ペパーミント
マルコがパニックを起こした頭をすっきりさせるために選んだハーブ。
現代でもおなじみの爽やかな清涼感があり、イライラや緊張を和らげる効果がある。