かつて、神は沈黙された。
人がその耳元で、自らに都合のよい『言葉』を囁き続けたゆえに。
それ以来、地上の正義は二転三転し、
人々は自らの罪を他者に押し付け、血で血を洗う時代が訪れた。
疑え。神の言葉を。預言者の教えを。
秘められた知識を。手に入れた財宝を。
職務を全うする己の手を。
そして何より、目の前に現れたこの自分を疑え。
そう語る悪魔は、肉を嫌い、嘘をつかぬ。
悪魔が何より恐れるのは、自覚なき狂気である。
世では聖地奪還が謳われる中、地下聖堂の暗闇では
今宵も信心深き修道士と理知的な悪魔の噛み合わないお茶会が幕を開ける。
1308年、サン・ヴィクトール修道院 地下聖堂
━━━主よ、我が魂をお守りください。
異端の猛威が教会の足元を揺るがす今、私は禁忌を犯します。
地獄の深淵より出でし異形の言葉から、奴らを滅ぼす真理を盗み出すために。━━━
昼間、修道院の敷地を狙って難癖をつけてきた地元の小領主を、私は手際よく追い払った。
少額の「付け届け」を払い、相手の欲望とプライベートな弱みを巧みに突いて見事に丸め込んだのだ。税の免除まで取り付ける完璧な立ち回りだった。
地下聖堂へ降りる階段を踏みしめながら、私は自分が世俗に慣れてしまったことに、胸の奥で苦いものを覚えていた。
儀式の準備を手早く整え、修道院で焼き上げた灰釉の鉢に煎じ湯を注ぐ。立ち上ったのは、強い芳香と爽快感の中にどっしりとした渋みを秘めた、セージの香りだ。
「……いでよ、バフォメット!」
黒煙とともに、山羊頭の悪魔が現れる。
「やあマルコ。ほう、今夜はセージか。……それにしても、随分と手慣れたようで。すっかり『立派な院長様』じゃないか」
いつものように器用に青緑色の鉢を持ち上げたバフォメットは、ニヤリと角を揺らした。
私は鉢を強く握りしめ、目を伏せた。
「……褒められた物ではない。私はあの男を欺き、賄賂で交渉を有利に進めたのだ。かつての私なら、そんな汚い真似は出来なかっただろう。だが今の私は、修道院と修道士たちの生活を守るためなら、躊躇わず出来るようになった。私は……どんどん汚く、身勝手な人間になってしまった」
バフォメットは煎じ湯をゆっくりと口に含み、その深い味わいを確かめるように喉を鳴らした。
「ハハハ! 恥じ入れるだけ十分聖職者だよ、マルコ。清廉潔白なだけで食っていけるなら、皆がやっている。少なくとも修道士達は助かっている以上、これを『悪徳』とは呼べないだろうよ」
「……理解はしていても、良い気分にはなれない」
「それで良い。自問自答して自らを疑える事こそが好ましいからな。お前が自らを正当化して自分に酔う様な愚か者なら、とうの昔に魂を奪って売り飛ばしている」
悪魔の至極当然のような口ぶりに、私は思わず深々と溜息をついた。
「……趣味の悪い奴め」
「クックック、だからいつぞや言っただろう。私はお前とのお茶会を楽しみにしていると」
バフォメットは実に嬉しそうに煎じ湯を飲み干すと、満足げに喉を鳴らした。
悪魔が闇へ帰る仕草を見せたその時、私はふと思い出し、口を開いた。
「……待て、バフォメット。一つ、前回の聞き逃せない言葉について問いたい」
「ほう?」
バフォメットは巨体を止め、面白そうに角を傾けた。
「お前は以前、『バフォメット』という私の名は、東方の異端の開祖の名前の聞き間違いから生まれたと言った。そして、あちらが信じる神も我らと同じアブラハムの神だと……。
だが、異教徒の教えは邪教であり、滅ぼすべきものと教えられてきた。あれらは一体、我々と何が違うのだ?」
私の問いに、悪魔はセージの渋みを思い出すように軽く舌なめずりをした。
「違いか……そうだな。本質的な神の教えや目指しているものは大差ない。
お前達が旧約聖書を重んじ、イエスを救世主とするのに対し、あちらはイエスを神の子ではなく偉大な預言者の一人として捉え、その後に現れたムハンマドを最後の預言者としている。それだけの違いだ」
「それだけの……?」
「ああ。どちらも『唯一絶対の神を信じ、戒律を守り、隣人を愛せよ』と説いている。だが、人間というのは面白いものでな。
教えの細部や解釈がほんの少し違うだけで、お互いに『あいつらは異端だ、敵だ』と血を流し合う。聖地エルサレムを巡って何百年も殺し合っているのが、その最高の証明だろうよ」
悪魔の乾いた声が、地下聖堂の冷たい壁に反響する。
「神の教えに従っているはずの人間が、教えのせいで憎しみ合う。どちらが正しいかを決めるのは、信仰の深さではなく、ただ剣の鋭さと数の暴力だ。……滑稽だと思わないか?」
私は動揺を抑え込み、しかしどこか抗うように首を横に振った。
「……同じアブラハムの神を信じているというなら、なおさら解せない。連中の教えや聖典が我々とどう違うというのだ。同じ神を信じている割には、何もかもが違いすぎると感じるが……」
私は鍋に残った煎じ湯を、バフォメットの空になった灰釉の鉢に注いだ。自分の鉢にも注ぎ、立ち上る渋みのある香りを吸い込んでから言葉を続ける。
「連中の聖典の内容について教えてくれ、バフォメット」
バフォメットは満足そうに新しいセージティーの湯気を見つめ、前足で器用に鉢を持ち上げた。
「ほう、おかわりか。いいだろう。向こうの聖典……『クルアーン』は、お前たちの聖書とは構成からして少し勝手が違う。あちらはアダムやノア、アブラハム、そしてモーセやイエスといった、お前たちもよく知る聖書の預言者たちが総出演するぞ」
「なんだと……? 聖書の登場人物が、向こうの聖典にも出ているというのか?」
「そうだ。クルアーンにおいて、イエスは神の子ではなく『偉大な預言者の一人』とされているがな。
そして、その預言者たちの系譜の最後に現れ、神の最後の言葉を直接受け取ったとされるのが、開祖のムハンマドだ」
バフォメットはセージティーを一口含み、静かに語り続ける。
「あちらの聖典の最大の特徴は、神(アッラー)が『唯一絶対の存在』であり、一切の姿形を持たず、子も親も持たないという点を徹底的に強調している点だな。
お前たちの教えにあるような『神の子』や『三位一体』の概念を、あちらは偶像崇拝や神への冒涜スレスレのものとして強く否定する」
「神に子がなく、イエスが人間に過ぎないというのなら……救済のあり方はどうなるのだ」
「シンプルだ。神と人間の間に仲立ちなど不要であり、ただ絶対的な神の意志と戒律に従い、善い行いをし、貧者を救うこと――それが説かれている。
……まあ、書かれている倫理や道徳の根本は、お前たちの教えと大差ない……とも言い切れん。ムハンマドは10も行かない幼児と結婚した上に養子の嫁を寝取って奪い、養子を禁止にした男だからな。
ジハードと言って他教や異端相手なら何やっても良い教えや、教義を一部伏せて教えるのもアリだったりするぞ」
私は思わず絶句した。
「……邪教じゃないか」
私の呟きに、バフォメットはふっと鼻を鳴らした。
「ああ、実際に連中を受け入れたペルシャは40年ほどで連中の国になったからな」
「邪教じゃないか!……本当にお前は関わってないんだよな?」
「関わってない。ハゲを馬鹿にした子供に熊をけしかけた癖にアレを放置するとは神も随分と丸くなった物だ」
バフォメットの物言いに私は再び絶句した。
【マルコの修道日記より】
1308年5月14日
世俗の泥に染まり、私はまた一つ賢くなった。
清廉さは誰も救わず、時には毒を以て毒を制せねばならぬことを知る。
だが今宵、地下の悪魔から聞かされた異教の実態は、私のなかにあった世界の境界線をさらに大きく揺さぶった。
同じアブラハムの神を信じながら、聖典の解釈一つで血を流し合い、そして開祖の生々しい人間性と抜け目のない教義によって世界を塗り替えていく者たち。
そしてそれを、どこか冷ややかに、まるで神の業の延長のように語る悪魔。
主よ、私は聖人にはなれそうもありません。
ですが、地下の悪魔から授かったこの歪んだ英知と冷徹な現実認識をもって、私はこの修道院を守り抜いてみせます。
用語解説
セージ
強い芳香と爽快感、そして重みのある渋みがあり、中世ヨーロッパでは薬草としてだけでなく、「庭に植える者は病で死ぬことがない」という俗信や長寿の象徴としても広く知られていた。
思いつきで始めた話なので一旦ここまで。
付き合ってくださり、ありがとうございます。