呪術廻戦に八百年余りを生きる呪術師が紛れ込む話 作:死者誤入
その化物は、いつの頃からか、人からただ"真改"と呼ばれていた。
生まれは八百余年前の日本の農村。
特別な血筋でもなく、特別な力もない。日々を生きるのに苦しみ、寒村の枯れた畑を耕すだけの名前さえ与えられない小作人。
最初はただそれだけの存在だった。
しかし彼はいつのまにまに力を得、育み、人の領域を軽々超えた化物へと成り果てていた。
時には彼を鬼と呼ぶ者が居、時には彼を神と呼ぶ者も居たが、彼はしかし己を人であると定義づけていた。
たとえ化物のように扱われようと、たとえ確かに人ならず力と姿とをふるえようとも、彼は人間たろうとしていた。
そう、たとえその精神性がおよそ人のそれを外れて来てはいても、血と魂でもってして己は日の本に生まれたただの一人の人間である、と。
産まれてから名を持たず、ただ悪鬼と呼ばれ、神と呼ばれるだけの放浪の中にて、辿り着きし社へと鬼だ神だ神仏だと呼ばれた縁から思いつき、そこへと住み着いてから幾星霜。
社へ奉納の為に収められた刀から、気がつけばその刀の名を取り奪い取り、己が真改と呼ばれるようになった頃、彼は社にて眠りについて日ノ本各地に意識を飛ばす。
思えば遠くへ来たものと、今は薄れた昔日の記憶に想いをはせていた、その深くも浅い眠りから目覚めたのがほんの二十一年前。
時折のこと日本にて産まれてくる、世界の理其のものを変えうる力、あるいは境界を超え、領域の外に存在しう
る存在の産まれと成長とを感じとったが故。
およそ混じり気のない日本人には思えぬ、白髪と青い目を持つ小さな子供。ひとたび悪に落ちて埋もれてしまえば、それで世界の均衡が破滅に秤が揺れ動くようなそういう存在――を一目見て笑い楽しみあるいは嘲笑い、再び眠りについての四千七百四十八の夜を超え、五十二の季節を巡り彼は再び目を覚ます。
理由は簡単、他愛のないもの。幼子が揺りかごで夢見る
ように、拙くも純粋が故に浅き夢見し呪霊共の人間モドキの夢の言葉を聴いたが故。
「くかっ‥‥呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ‥‥呵呵呵呵呵ッ!!」
山間にある狭い平地、城に作られる廓のように生み出された空白の地点にて佇む小さな社、その屋根の瓦の上に腰掛けていた男が人とも思えぬ笑いを零す。
それはつんざくような鳥のような、嘲笑う猿のような感情的な声であり、刀と刀とが鎬を削るような無機質な声でもあった。
その声に彼の体に止まっていた色とりどりの彩り豊かな山鳥共が、小羽を散らして去っていく。三日月のように歪めた彼の笑みを背にして。
「呪霊が人になるぅ!? 人を廃し、人を滅し人に成り代わるう? 呵呵呵呵呵ッ‥‥! 愚昧な言葉、愚鈍な言葉よ。呪霊は呪霊にしかなれぬ、人が人にしか成れぬというように。呵呵呵呵呵呵。しかしこれはなんとも愉快なことよ、良き太平楽土への媒介よ」
男は、ゆるり、と揺れるように立ち上がると、眼下に広がる木々の向こうの街並みを見おろし嗤う。それから己を己で抱くようにし、一度震えると、彼の背中から白い羽が飛び出すように生えてくる。
それは鳥のような、あるいは昆虫のような、そういう自然に存在するような性質の物質ではない。まるで溶け始めたプラスチックのように無機質でドロドロとした有形無形の狭間にある翼。
羽にはいくつかの眼窩と共に目玉が形成され、幾つもの口と牙とが不揃いに生み出されている。口は決して声を出すことなく、しかし目玉はギョロギョロと辺りに飛び出さんばかりに運動をしている。
およそ空を飛ぶ為の代物には見えない。人を殺す為の代物で人を救うとのたまうような不揃い感――滑稽さ。役目と形が同じ地平を見ていない居心地の悪さを感じさせる羽だった。
しかし羽は正しくその機能を発揮し、一度、二度と羽ばたかせた後に社の瓦を風で幾つか屋根から落としつつも 、主である真改を不自由な地上から空へと解放した。
真改は飛び立ち、上空から人々が蟻か何かのように蠢く街を見下ろし、それから、ニヤニヤとした口元で言った。
「人よ、人よ、愛しいよ。人よ、人よ、苦しいよ。人よ、人よ、哀しいよ。然も有りなん。然も有りなん。いわんや、我らが餌たる呪霊なれば、をや」
それから、自身の目の奥底に写る他の場所の光景とそこに佇む異形の存在を見据え、彼は呵呵と嘲笑うと去っていった。