呪術廻戦に八百年余りを生きる呪術師が紛れ込む話 作:死者誤入
黒く短い髪。擦れきれた素肌。煤けた和服。
時代が時代ならば、そこらの町の隅で蹲っていても違和感のないその姿。
つい先程に漏瑚達呪霊組が獄門疆という特級の呪物を使用せしめて封じ込めるに至ったそれが、ゆうゆうと、何事もなかったようにそこにいた。
「馬鹿な‥‥ありえん‥‥」
始まりに漏瑚の口をついて出たのは驚愕ですらなく、それは現実を正しく逆さまに否定する言葉。
ありえない。そんなことは起こり得ない。
獄門疆という封じはそれほどに有益で、それほどに強固で、それほどに理不尽なのだ。天と地とがその空と海との釜をひっくり返しても、決して封じが解けることはない。
いや、獄門疆はどうなのか。未だ砂浜に落ちたままになっているそれへと、漏瑚がそして他の呪霊達が目を向けると、しかしそれは封じ込めが終わったときと変わらぬ形ではそこにあった。
では目の前にいるコレは何者か。贋作――ではなかろう。先程の輩と等しくあるいはそれ以上の異質な気配と威圧感を持ってして、人の形をしているだけの化物はそこに佇んでいる。
何かしらの術式の効果、であろう。それだけは漏瑚にもわかる。むしろそれくらいしか方策が思いつかない。
世界の理その外へと至る理外の力。極めれば、世界の中に自身を律の主とした小さな世界さえ構築せしめる力。
しかしその本質は単眼の目を持ってしても見通す事ができない。
漏瑚以外の呪霊達もそれぞれに狼狽していた。平時と変わらぬ平静さを保っていたのは唯一、夏油傑を名乗っている呪術師だけだった。
真改はゆるゆると近づいてくると、動きを止めている呪霊達へと向かって語りだす。
「獄門疆の中というのは寂しいものだな。歴代の犠牲者のそれなのか、骸が散々と散乱しておるわ」
ここではない何処かを見つめるようにして彼は語る。事実、その視線は宙を見ており、特級呪霊である漏瑚達に一切向けられていなかった。
本来ならばそのような油断しきった態度、舐め腐った態度などされれば、少なくとも真人はさっさと嘲笑いながら殺しにかかったであろう。相手の嫌がることを的確にそして愉悦と享楽をもったその感情に従事たであろう。
だが真改の隙を幾つも見つけてなお、誰も動こうとはしなかった。
ようやく真改の方から視線を向けられる。
「驚いているな。然もあらん。気にするな、気にするな。
自分の言葉を自分で真改は嘲笑う。右手で視界を覆い、空を見上げて嗤う。
その姿にとうとう漏瑚が時間を取り戻すようにして咆哮した。
「なんなのだ貴様はッ! なぜそこにいる! 獄門疆はどうした! なぜ封じられていない!」
恥も外聞もなしにしての詰問。しかし今は体面など関係がなかった。
「くふっ‥‥封じられているともよ」
真改は一度息を吐き出すように嗤うと、呵々大笑をやめた。まるでスイッチを押すようにすぐに切り替わった。
その感情が壊れているかのような在り方が、呪霊である筈の漏瑚達さえ嫌悪させる。あるいは人々の怨念、信仰という想いの総体である特級たる呪霊であるからこそ、それが顕著だった。
真改は再び漏瑚達を見据える。
「そのような事はどうでもよかろう。
漏瑚の言葉に答えるつもりなどないのだろう。真改はヒラヒラとまるで掌でハエか何かを払うようさ仕草をした。
「どっちでもいいよ‥‥コイツは殺すッ! 今すぐに!!」
血走った目で真人が真改を見据えた。それから己の魂を弄くりまわし、腕の形を鋭い無機物の剣へと変容させていく。なんの因果かそれは丁度先程に真改が腕を出刃ののような刀剣に変容させていったのと同じように。
魂を操作することで追って肉体をも変じさせる、それは真人の術式、無為転変を応用した肉体操作。
「花御! 漏瑚と陀艮を連れて離れてろ!」
言いながら真人は実践的な形態へと続々と肉体を変化させていく。
両手は剣をさらに変化させ鋏のように。胴体を引き伸ばしあばらを露出させそれさえも金属化していき、下顎から喉、腹中ごと割けさせる。
一度、引き裂かれ口と一体化した腹に納めれば、それでアイアンメイデンのように突き刺し食らうように潰し突き刺すことの出来る殺しの姿。
サソリと百足と鉄の処女を混ぜたような姿をした怪物へと真人は成り果てた。
無為転変ではどういうわけか真改の魂へとは辿り着けない。ならば物理的に殺せばいい。
と‥‥
「待て真人!」
再び漏瑚から制止の言葉が発せられる。
「止めるなよ漏瑚!」
後ろに向けた真人の視線と、単眼のそれと交差する。
「待てと言っておるだろう! 先に仕掛けて何が起きた!」
「今度は大丈夫さ! 魂を弄くりながら食ってやる! こいつは殺さなきゃ駄目だ今ここで!!」
真人の言葉に呼応するように、カシャカシャと鋼のアバラがきしみ声を上げる。
「それでも、待て‥‥!」
漏瑚の声はそれまでとは比較的小さなものだった。だがそこに込められた想いは、今までのそれとはまるで重さが違うように真人には感じられた。
億万の言葉より、一つの言葉が重いこともある。まるでそれは砂粒を千万と集めても、たった一粒の純金の価値には届かないのと同じように。
軋み声を上げていたアバラや鋏の音が次第に小さくなり、真人の動きが緩やかなものへと変わっていく。
漏瑚から発せられた言葉と、単眼に込められた想いに真人は動きを止めた。
代わりに漏瑚こそが言葉を紡ぐ。
「貴様、幕下に加えろと言っていたな‥‥? 何が目的だ‥‥」
まとまな応えが返ってくるはずもない。またぞろ真改は嗤いだすだろう。そう心の隅で考えた漏瑚の思いとは裏腹に、しかし真改は何事でもないように語りだした。
「ぶつけるのよ」
あまりに単純な答え。故、思考が追いつかない。ぶつける、とは何と何とを。
「どういう意味だ? わかるように言え!」
「くふっ‥‥それが全てよ。お前達と若き現代の呪術師達をぶつける」
いよいよもって漏瑚の不信は最大値に達する。
コイツは何を言っている? 呪霊を下に見、人間を愛すると語る存在がなにゆえに。
その疑問を晴らさんとばかりに真改は続けた。
「若き呪術師と特級であるお前らをぶつけあい、何方が生き残るか見届ける。五条悟では駄目だ。お前たちは総勢でかかったとしても、四半刻*1も持たずに祓われるだろうよ‥‥それは理解しているのであろ? その為の獄門疆だ」
真改は自らの近場に落ちていた六面体の箱を指さした。自分自身が封じ込められているはずのそれを、まるで道端に落ちている石ころと同じように。なんの価値も見出さないままに。
そうして続けていく。
「人と呪霊とが争い食らい合う。生き残るのは一つの陣営! 一つの想い! 素晴らしい‥‥強い者が勝つッ! この世に唯一の理よ。ある種の"人間"にとって、生は戯言、死は遠い――心の弱さは人間の特権ではあるが、人を護ろうというに弱者であるというのは些か不格好に過ぎる。故、
陶酔し悦に入るように語る真改を前にして、ようやく漏瑚はまことなる意味にて冷静に相手を見極められるようになった。
ただ化物であるだけならば立ち向かえる。立ち向かえてしまう。それを勇気と呼ぶのか蛮勇と呼ぶのかの違いはあるにせよ。
獄門疆が通じない。ただそれだけの事実に意識を一点化させれば否応なしに冷静にもなった。
今はまだ勝てない。この化物には。
殺されることなく逃げること。あるいはそれは出来るかもしれない。だがそれは出来なかった。それこそは。自身が呪霊であるという誇りと矜持とを併せ持つ特級たる漏瑚だからこそ。
呪霊を嘲り嗤う怨敵を前にして、尻尾を巻いて逃げ出すことなど。せめて一矢報いることさえ出来ぬのならば、辛酸を舐めてでも好機を探る。
それが百年後の世界にて呪霊が人と代わる方策の一助となる。
それに、確かに有用ではある。劇薬ではあるが。獄門疆を使わずに五条悟を止められるのならば相応に魅力的ではある。取引相手が鬼か化物の類でなければだが。
もちろん借入をしたときの利息は大きい。未だ漏瑚たちはまるで目の前の怪異の実態を掴み切れてはいない。
化物は恐ろしい。その姿を完全には掴ませないからだ。
古今、姿を見せない怪物は、それ故に出自一つ明かされればそれまでの恐怖を霧散させてしまうものだ。
そうなれば、恐怖は転じて反抗という勇気へと代わる。
今はまだ目の前の化物が何処から来て、何をして、何処へ行こうというのかすらわからない。
だが、夢という霧の中に潜む怪物は、目覚めて日の光を当て霧を晴らせば、殺すことが出来るようになる。
真人の言うとおり目の前の者は殺さなければならない。だが今は無理だ。情報が少なすぎる。
「いいだろう‥‥ただし貴様の術式と――貴様の殺し方を教えろ」
だからこそ、法外の利息を要求するであろう者には、漏瑚もまたそれ相応の報酬を要求した。
はずだった。本来、そのような言葉を投げかけられれば、少なからずとも躊躇はするものだ。己の弱点など吹聴するものではない。
だがそれこそ真改は日向の中を散歩するような気楽さで応えた。
「よかろうよ、よかろうよ。それで
三日月に笑みを浮かべ、真改は嘲りではなく真の笑みを漏らした。まるで子供のような純粋さで。
それがまた不気味さを煽る。気持ちが悪い。
だがコレを殺すためには必要な支払いだ。
「
砂浜を一陣、風が通り抜けていった。