アーク製薬会社 作:ai試し2
橋の大陸側では、避難民の列が長く伸びていた。検問所には簡易テントが並び、その一つひとつで避難してきた市民の確認が行われている。身分証の確認、簡単な問診、感染の兆候がないかの検査。問題がなければ、そのまま大陸側へ通す。単純な作業に見えるが、ここで感染者を一人でも見落とせば、テラグリジアで起きている惨劇を大陸側へ持ち込むことになる。
車列の脇を歩きながら、ハンクは検問所の様子を見渡した。
「まだこれだけ残っているのか」
「橋の上にいた避難民が、かなり残っています。検査を終えた者から順番に通していますが、なかなか進みません」
同行するEU隊員が答える。
ハンクはテントの中へ視線を向けた。簡易検査を受ける老人、泣き疲れて母親に抱かれている子供、荷物を抱えたまま順番を待つ家族。誰もが一刻も早くこの街から離れたがっている。
ハンクは黙ったまま、検問所の向こうに目を向けた。
感染者と、そうでない避難民。外見だけでは判断できない者もいる。しかも感染が進行していても、すぐに明確な変化が現れるとは限らない。
限られたワクチンを全員へ予防的に投与することもできない。
「なら、検査を続けるしかない」
「はい」
その時、遠くから銃声が響いた。
橋の上だ。
ハンクが音のした方向へ顔を向ける。
「交代要員が来たな」
隊員たちが装備を確認する。
「俺たちが行く」
「了解」
ハンクは検問所を離れ、橋へ向かった。
橋の上では、避難民の移動と並行してハンターの掃討が続いていた。市民を安全な場所へ移動させながら戦わなければならないため、EU部隊も警察も思うように火力を集中できない。ハンターが群衆へ飛び込めば、銃を向けることすら危険になる。
さらに厄介なのが、ハンターに襲われた人間の扱いだった。
すでに橋の上では、感染を疑われる避難民も確認されている。中にはハンターに襲われた直後から体調を崩し、発症したと見られる者もいた。
ハンクたちは橋へ入った。
そこには、まだ逃げ遅れた避難民が大勢残っている。泣きながら家族を探す者。怪我を負い、道路脇に座り込んでいる者。そして、その人々の間を縫うようにして、必死に大陸側へ向かう者たち。
「左!」
隊員の声が飛んだ。
ハンクが振り向く。
一人の男が、人の群れへ向かって走っていた。
顔は血で汚れ、足取りも不自然だった。口元から荒い息を漏らしながら、近くにいた避難民へ手を伸ばしている。
「感染者!」
銃声が響いた。
男がその場に崩れ落ちる。
だが、避難民の列は止まらない。何が起きたのか分からない人々が、恐怖に駆られて前へ押し寄せる。
「動くな!」
ハンクが声を張った。
その声に、周囲の人間が一斉に足を止めた。
次の瞬間、車両の陰から何かが這い出してきた。
人間の姿を辛うじて残した異形。
ウーズだった。
軟体動物のように変形した身体を引きずりながら、避難民へ向かって進んでくる。
「下がれ!」
隊員が銃を構えた。
数発の銃弾がウーズの身体へ撃ち込まれる。
個体がよろめいた。
「待て!」
ハンクが制した。
その先には、まだ避難民がいる。
撃ち続ければ、ウーズだけでなく人間まで巻き込む。
ハンクは銃を下ろすと、腰からトマホークを抜いた。
ウーズがこちらへ身体を伸ばす。
ハンクは一歩踏み込み、その勢いを利用して斬りつけた。
異形の身体が大きく揺らぐ。
ハンクはすぐに距離を取った。
「確認しろ」
「はい!」
隊員が周囲を見回す。
「クリア!」
ハンクはトマホークを戻した。
「進むぞ」
派手に戦う必要はない。
ここで最優先すべきなのは敵を一体でも多く倒すことではなく、避難民を巻き込まずに橋を確保することだった。
その先から、再び銃声が響く。
「ハンター!」
隊員が叫んだ。
「二体です!」
「市民は?」
「後方へ移動させています!」
ハンクは即座に判断した。
「なら撃て」
隊員たちが一斉に射撃を開始する。
ハンターが道路を駆け抜け、一体が停車した車両の陰へ飛び込んだ。
ハンクが追う。
だが、車両の向こうには避難民がいた。
「止まれ!」
ハンクが隊員を制した。
銃声が止む。
ハンターの姿は見えない。
数秒後、車両の下から鋭い爪が突き出した。
ハンクはトマホークを握り直す。
次の瞬間、ハンターが車両の陰から飛び出した。
「今だ!」
隊員たちが一斉に撃ち込む。
ハンターの身体が大きく揺らぐ。
ハンクも踏み込み、トマホークを叩き込んだ。
ハンターが道路へ倒れ込む。
「周囲を確認!」
「クリア!」
ハンクは倒れた個体へ近づいた。
「死体を確認しておけ。まだ動く可能性がある」
「了解」
隊員が警戒しながら死体を確認する。
ハンクは前方へ目を向けた。
橋の先には、まだ避難民が残っている。
検問所へ向かう列は途切れていない。
だが、その列の中に感染者が紛れ込んでいる可能性もある。
ハンクは隊員たちへ振り返った。
「感染者を見つけても、周りに人間がいるなら勝手に撃つな」
隊員たちが頷く。
「まず隔離する。救えるなら救う」
ハンクは橋の先を見据えた。
「どうしても無理なら、その時に処理する」
短い指示だった。
隊員たちは再び銃を構える。
ハンクもトマホークを腰へ戻した。
そして、避難民の流れを乱さないよう注意しながら、ゆっくりと橋の奥へ進んでいった。
◆
テラグリジア上空を、一機のヘリが飛んでいた。朝の光を受けた街は一見すると静かに見える。しかし、道路には放置された車両が残り、ところどころから煙が上がっている。地上では、まだ多くの人間が救助を待っていた。
操縦席ではスティーブが前方を見据え、その隣ではシェリーが計器を確認している。
「昨日の病院、まだ使えるんだよね?」
「ああ。昨日の掃討で大半は片付いた。ただ、完全に安全ってわけじゃない」
スティーブは眼下へ視線を落とした。
「病院側からも、まだ患者と職員が残ってるって報告が来てる。今日はワクチンだけじゃなく、護衛も必要ってわけだ」
後部座席には、武装したEU隊員が数名座っていた。その中央では、ワクチンの入ったケースが固定されている。昨日の戦闘で病院内のB.O.W.は大半が排除されたものの、感染者がすべて消えたわけではない。医療関係者も避難できずに残っている以上、ワクチンを届けることには大きな意味があった。
「そろそろ見えるよ」
シェリーが窓の外を確認する。
その声に、後部座席から一人の隊員が立ち上がった。
「シェリー!」
「ん?」
振り返ったシェリーの視線の先で、少女が笑っていた。
小柄な身体に似合わない装備を身につけ、背中には見慣れた武器を背負っている。年齢だけを見れば、まだ少女と呼んでもおかしくない。だが、その立ち振る舞いは部隊を率いる兵士そのものだった。
いつしか周囲の隊員たちは、彼女をそう呼ぶようになっていた。
――レディハンク。
「この前はありがとね!」
「こっちこそ。ちゃんと無事だったんだね」
「もちろん!」
レディハンクは屈託なく笑った。
この状況には不釣り合いなほど明るい。
シェリーはそんな彼女を見て、少しだけ表情を緩めた。
「シェリー、また今度模擬戦しようね!」
「え?」
「先週、途中で終わっちゃったでしょ?」
「……あれを模擬戦って言うの?」
シェリーが苦笑する。
先週の訓練を思い出す。模擬戦とは名ばかりで、互いに本気で動き回った結果、途中で別の任務が入り中断になったのだ。
「だって楽しかったじゃん」
「私は結構必死だったんだけど」
「じゃあ次はもっと本気でやろうよ!」
「それは遠慮したいかな……」
会話を聞いていたスティーブが、操縦席から呆れたように声を挟んだ。
「お前ら、遊びの約束は着陸してからにしてくれ」
「遊びじゃないよ!」
「はいはい」
スティーブは笑いながらヘリを旋回させた。
「病院が見えてきたぞ」
眼下に、昨日訪れた病院の建物が現れる。
周囲には警察官が配置され、入口や屋上では警戒にあたる姿が確認できた。昨日の戦闘による痕跡もまだ残っている。
「着陸するぞ」
スティーブが操縦桿を操作する。
ヘリがゆっくりと高度を下げ、ローターの風が屋上の埃や小さな瓦礫を巻き上げた。
着陸すると同時に、レディハンクが立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるね!」
ワクチンケースを運ぶ隊員たちが続く。
レディハンクは病院の入口へ目を向けた。
昨日、激しい戦闘が行われた場所。
それでも、彼女の表情に怯えはない。
むしろ、これから始まる任務を楽しみにしているようだった。
「よーし!」
隊員からワクチンケースを受け取る。
そのまま部隊へ振り返った。
「ワクチンも持ったし、がんばっていこー!」
「おー!」
隊員たちから声が返ってくる。
その様子をヘリの側から見ていたシェリーが、小さく息を吐いた。
「……元気だね」
スティーブが肩をすくめる。
「こういう時ほど、ああいう奴が必要なのかもな」
レディハンクは隊員たちを率いて病院の入口へ向かっていく。
その背中を、シェリーはしばらく見つめていた。
やがて最後の隊員が建物の中へ消える。
「私たちは?」
シェリーが尋ねる。
「次の指示を待つ」
スティーブは再び操縦席へ戻った。
ローターが回転を始める。
風が強まり、病院の屋上に残っていた埃が舞い上がった。
シェリーはもう一度、病院の入口へ目を向ける。
その先では、レディハンクたちがワクチンの搬入を始めているはずだった。
「……無事に終わるといいね」
「ああ」
スティーブは短く答えた。
ヘリがゆっくりと浮上する。
二人を乗せた機体は病院を離れ、次の任務へ向けてテラグリジアの空を進んでいった。
◆
橋の中央部へ近づくにつれて、銃声がはっきりと聞こえるようになった。ハンクは車両の陰から身を乗り出し、前方を確認する。橋の上には、まだ大勢の避難民が取り残されていた。車列の間を縫うように人々が立ち止まり、その先では何かが激しく動いている。
「前方、避難民多数!」
隊員の声に、ハンクは即座に手を上げた。
「隊列を止めろ。ここから先は勝手に撃つな」
EU隊員たちが避難民の前へ展開し、人々を後方へ下がらせる。その直後、橋の中央を走る影が視界に入った。
一体。二体。三体。
さらに橋の側面から、濡れた身体を引きずるようにして別の個体が這い上がってくる。
「……ハンターです」
誰かが低く呟いた。
一体だけではない。橋の各所から次々と姿を現している。
「数が多い!」
「避難民の前を固めろ!」
ハンクの指示に、隊員たちが一斉に動いた。ハンターがこちらへ向かってくる。距離が詰まった瞬間、ハンクが短く命じた。
「撃て!」
銃声が連続して響いた。先頭のハンターが何発もの銃弾を受け、路面へ転がる。だが、その後ろから別の個体が飛び出した。
避難民から悲鳴が上がった。
「下がって!」
隊員が叫び、人々を後方へ押し戻す。その混乱の中、一人の男が突然、近くにいた避難民へ掴みかかった。
「離して!」
「感染者か!」
隊員が駆け寄る。男の顔は赤く腫れ、呼吸は荒い。目の焦点も合っていない。
「動くな!」
呼びかけにも反応しない。男はそのまま別の人間へ襲いかかった。
「感染者!」
隊員が男を引き離した瞬間、橋の反対側からも悲鳴が上がった。
「こっちにもいる!」
ハンクが振り向く。
避難民の中から、別の感染者が動き始めていた。ハンターへの対応に気を取られている間に、複数の感染者が群衆の中へ紛れ込んでいたのだ。
「隊長!」
「分かっている!」
ハンクは橋の状況を一瞬で見渡した。前方にはハンター。後方には避難民。その中には、すでに発症している者まで混じっている。
ここで無差別に銃を撃てば、感染者だけでなく、逃げ場を失った市民まで巻き込む。
「前方のハンターを優先する!」
「了解!」
隊員たちが射撃を再開する。
一体のハンターが銃撃をかわすように道路を横切り、その先にいる避難民へ向かって跳躍した。
「撃つな!」
ハンクの怒声が飛ぶ。
射線の先には人間がいる。隊員たちが一瞬だけ引き金を止めた。
その隙を逃さず、ハンクが前へ出た。
トマホークを抜き、飛びかかってきたハンターの進路を横から叩き逸らす。勢いを殺されたハンターが路面へ転がった。
「今だ!」
隊員たちの銃撃が集中する。ハンターの身体が大きく揺れ、そのまま動かなくなった。
「次!」
ハンクが叫ぶ。
「右!」
別の個体が車両の間から姿を現した。隊員たちが一斉に銃を向ける。一発、二発、さらに数発。ハンターはその場で崩れ落ちた。
だが、戦場はそれだけではなかった。
「感染者が抜けた!」
ハンクが振り返る。一人の男が避難民の列へ入り込もうとしていた。
「そいつを止めろ!」
隊員が走り、男を背後から押さえ込む。しかし、その直後にも別の場所から悲鳴が上がった。
「また感染者です!」
ハンクは舌打ちを押し殺した。
ハンターとの戦闘だけでも厄介だというのに、避難民の中に感染者が混ざっている。しかも、誰が感染しているのか外見だけでは判断できない。
原因を考えている暇はなかった。
「避難民を分けろ!」
「どう分けます?」
「負傷者と、それ以外だ。感染の疑いがある者は左に寄せろ」
「ワクチンはどうします?」
一瞬、隊員の間に迷いが走る。
ハンクは即答した。
「まだ使うな」
「しかし――」
「数が足りない。全員に投与できる量はない」
ハンクは避難民の列へ視線を向けた。
「明らかに発症している者を優先する。無症状の者まで使えば、本当に必要な人間へ届かなくなる」
「了解!」
隊員たちが動き出す。
恐怖で混乱する避難民を、感染の疑いがある者とそれ以外に分けながら、少しずつ橋の大陸側へ誘導していく。
「走らないで!」
「押さないでください!」
「順番に進んで!」
人々の声と銃声が入り混じる。
その時、橋の側面から再びハンターが這い上がってきた。
「来るぞ!」
隊員たちが銃を構える。
ハンターは一瞬身を低くすると、避難民の頭上を飛び越えるように跳躍した。
「撃て!」
複数の銃弾が命中した。ハンターは空中で姿勢を崩し、避難民の列から外れた路面へ叩きつけられる。
「確認!」
「動いていません!」
「次へ進め!」
ハンクは前方を見た。
橋の中央には、まだ複数のハンターが残っている。しかし、避難民の列は少しずつ前へ進み始めていた。
その時、無線から通信が入った。
『こちら大陸側。検問所の受け入れ準備が整いました。避難民を通せます』
ハンクは無線を取り、短く応答した。
「了解」
そして隊員たちへ向き直る。
「大陸側が受け入れる。ここから一気に通すぞ」
その言葉で、部隊の動きが変わった。
これまでの目的は、ハンターを倒して橋を守ることだった。だが今は違う。敵を排除しながら、人間が安全に橋を渡れる道そのものを作らなければならない。
「中央を確保する!」
EU部隊が前進する。
車両の陰からハンターが飛び出した。銃声が響き、個体が路面へ転がる。さらに別の一体が現れたが、今度は側面から隊員が撃ち込み、その動きを止めた。
ハンクはその間を抜け、橋の中央へ進んだ。
そこには、まだ数十人の避難民が残っていた。
「大陸側へ移動!」
隊員の誘導に、人々が動き始める。
「急がないで! 転ばないように!」
その途中、一人の子供が足をもつれさせて転んだ。母親が慌てて駆け寄る。
ハンクは周囲を確認してから二人の前へ立った。
「大丈夫だ。立て」
母親が子供を抱き起こす。
「ありがとうございます……」
ハンクは答えなかった。二人が安全な場所へ移動するのを確認すると、すぐに前方へ視線を戻した。
遠くから、再びハンターの咆哮が響く。
まだ終わっていない。
それでも、避難民の流れは確実に大陸側へ向かっていた。
「前進する」
ハンクの声に、隊員たちが続く。
EU部隊が橋の中央部を押さえたことで、ようやく避難民を通すための道が形になり始めた。しかし、橋の上にはまだハンターが残り、感染者も完全には排除されていない。
ハンクは無線を手に取った。
「こちらEU部隊。橋中央部を確保。避難民の移動を再開する」
『了解。大陸側で受け入れを継続する』
通信を終え、ハンクは前方を見据えた。
「掃討を続ける」
隊員たちは頷いた。
避難民が橋を渡り終えるまで、この場所を手放すわけにはいかない。
ハンクを先頭に、EU部隊は再び橋の奥へ向かって進み始めた。
◆
病院の中へ入ったレディハンクたちは、入口付近で一度足を止めた。昨日、激しい戦闘が行われた場所だ。壁には銃弾が穿った跡がいくつも残り、床の隅には乾ききっていない血痕まで残されている。それでも、そこに漂っているのは戦場だけの空気ではなかった。
廊下の一角には簡易ベッドが並べられ、負傷者やテラグリジアから逃げてきた市民が横になっている。看護師たちは慌ただしく動き回り、空いたスペースには新たな避難者が案内されていた。もはや、この病院は単なる医療施設ではない。感染の脅威が広がる街の中で、人々が身を寄せる避難所としての役割まで担っていた。
「ここが昨日の戦闘があった場所?」
レディハンクが尋ねると、同行していた隊員が周囲を警戒しながら頷いた。
「はい。昨日、警察とアークの部隊が病院内を掃討しています」
「なるほど……」
レディハンクは廊下の奥へ視線を向けた。戦闘の痕跡は残っている。だが、それ以上に気になるのは、ここへ集められた人々だった。
「思ったより人がいるね」
「はい。感染の疑いがある者は、別の区画で分けて管理しています」
「そっか。じゃあ、まず中を全部確認しよう」
隊員たちは手分けして病院内の確認を始めた。病室、廊下、階段、倉庫。医療スタッフからも聞き取りを行い、昨日の掃討以降に異常が発生していないか、一つずつ確認していく。
「地下も見ますか?」
「うん。全部見ておこう」
レディハンクたちは地下へ向かった。照明の少ない廊下をライトで照らしながら進むと、床には昨日の戦闘で使用された弾薬の薬莢がいくつも転がっていた。壁には銃撃の跡が残り、ところどころに大きく抉れた箇所もある。
「ここは?」
レディハンクが尋ねる。
「昨日、ハンターが出た場所です」
「なるほど」
彼女は足を止め、周囲を見回した。物音はない。どこかから唸り声が聞こえてくることもない。念のため隊員たちが周囲を確認するが、異常は見つからなかった。
「今のところ大丈夫そうだね」
「はい」
その後も各階を順番に確認していった。感染者を収容している区画では、医療スタッフから現在の状況について説明を受ける。
「ワクチンの在庫は?」
「まだ余裕があるとは言えません。ただ、先ほど届けてもらった分で、しばらくは対応できます」
「分かった。無駄にはしないようにね」
「はい」
レディハンクは頷き、その場を離れた。
やがて最後の階の確認も終わった。同行していた隊員が無線へ報告を入れる。
「病院内、異常なし!」
「よし!」
レディハンクは満足そうに頷いた。だが、それで終わりではない。
「じゃあ、次は外を見に行こう!」
「周辺偵察ですか?」
「うん。暗くなる前に一回りしておきたい」
病院を避難所として使用している以上、建物の中だけを守っていても意味がない。周囲にB.O.W.が潜んでいれば、いつ病院へ侵入してくるか分からない。避難所へ向かう途中で市民が襲われる可能性もある。
隊員たちは装備を確認すると、レディハンクを先頭に病院の外へ出た。
外へ出ると、街は思った以上に静かだった。道路には放置された車両が残り、店舗の窓ガラスは割れている。風が吹くたび、路地の奥から何かが転がる音が聞こえた。
「右、確認」
「異常なし」
「前方もクリアです」
隊員たちが建物の陰や路地を一つずつ確認しながら進んでいく。レディハンクも周囲へ視線を走らせた。敵が潜んでいないか。感染者がいないか。そして、まだ助けを待っている人間が残っていないか。
しばらく進んだところで、一人の隊員が突然足を止めた。
「誰かいます!」
全員の視線が建物の陰へ向く。
そこには、数人の市民が身を寄せ合っていた。こちらへ気づいたものの、警戒して動こうとしない。
「大丈夫?」
レディハンクが武器を下げ、ゆっくりと近づく。
一人の男性が顔を上げた。
「病院……病院へ連れていってくれませんか」
「もちろん」
レディハンクはすぐに隊員へ合図を送った。
「怪我を見てあげて」
「了解」
隊員が一人ずつ身体の状態を確認する。幸い、目立った外傷や感染症状は見られなかった。
「歩ける?」
「はい……」
「じゃあ、一緒に行こう。病院まで案内するよ」
男性は何度も頷いた。
その後も偵察は続いた。別の通りでは、建物の中に閉じこもっていた二人組の生存者を発見した。隊員が周囲を確認して安全を確保すると、二人を外へ連れ出す。
「もう大丈夫です。病院へ行きましょう」
二人は何度も礼を言いながら、隊員たちについてきた。
レディハンクは時折、後ろを振り返った。少しずつ空の色が変わり始めている。夕暮れが近づいていた。
「そろそろ戻ろう」
「了解です」
病院へ戻る道中も、警戒を解くことはなかった。建物の陰、路地の奥、放置された車両。その一つ一つを確認しながら、来た道を戻っていく。
やがて、遠くに病院の建物が見えてきた。
入口では、医療スタッフが待っていた。
「また保護してきたんですか?」
「うん。こっちが三人で、後から二人」
「分かりました。こちらで確認します」
保護した市民たちを医療スタッフへ引き渡す。スタッフはすぐに彼らの状態を確認し、院内へ案内していった。
レディハンクは、その様子をしばらく見送った。
今日一日だけでも、この病院は多くの人間を受け入れている。それでも、街にはまだ助けを待っている人間が残されているはずだった。
「……まだいるよね」
隣に立つ隊員へ尋ねる。
隊員は少し考えてから頷いた。
「いると思います」
「じゃあ、明日も探そう!」
レディハンクは笑った。
そのまま隊員たちを連れて病院の中へ戻っていく。
背後では、夕日がテラグリジアの街を赤く染め始めていた。やがて街は闇に包まれる。それでも、この病院の灯りが消えることはなかった。
明日もまた、救助を待つ人間を探すために。
◆
アークのオフィスは、夜になっても明かりが消えなかった。窓の外にはテラグリジアの街とは違う、静かな夜景が広がっている。だが、室内にはその静けさとは無縁の緊張が残っていた。机の上には現地から届いた報告書が積み重なり、通信端末からは断続的に新しい情報が入ってくる。
クレアはその一枚を手に取り、記載された内容を最後まで目を通した。何度も同じような報告を読んでいるせいか、目元にはわずかな疲れが浮かんでいる。それでも、書類を置くとすぐに次の報告へ手を伸ばした。
「……橋の制圧作戦は、まだ完全には終わってないか」
「そうみたい」
向かいの椅子に座っていたシェリーが答えた。彼女の手元にも報告書が何枚かある。昼間から現地との連絡を続けていたせいで、こちらも疲労は隠せていない。
クレアは書類から顔を上げた。
「あなたも今日はずっと働いていたんでしょう?」
「クレアほどじゃないよ」
「それでもよ」
クレアは小さく息を吐いた。
「少し休みなさい。あなたまで倒れたら困るわ」
「それ、クレアにも言えることだけど」
シェリーが苦笑する。
クレアは一瞬だけ黙った。
「私は大丈夫」
「その台詞、昨日も聞いた」
「……よく覚えてるわね」
「そりゃ覚えてるよ」
シェリーは椅子の背もたれに身体を預けた。冗談めかした口調だったが、視線だけは真剣だった。
テラグリジアで事件が起こってから、クレアがまともに休んでいないことをシェリーは知っている。EU側との連絡、アークから派遣した部隊の管理、ワクチンの在庫確認、現地から送られてくる報告書の確認。さらに、新たな情報が入るたびに判断を求められる。
一つ終われば、また次が来る。
クレア自身も、それを分かっているのだろう。それでも止まろうとはしなかった。
「本当に、少し休んだ方がいいよ」
シェリーの声が少しだけ柔らかくなる。
クレアは手にしていた書類を机へ置いた。
「ありがとう。でも、今はそうも言ってられないでしょう?」
「……うん」
「現地にいる人たちが頑張っているのに、こっちだけ休んでいるわけにはいかないわ」
その言葉を聞いて、シェリーは小さく笑った。
「クレアらしいね」
「褒めてる?」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、無理しすぎって意味」
クレアもわずかに口元を緩めた。
ほんの一瞬だったが、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
シェリーは机の上に視線を落とした。そこで、ふと別のことを思い出す。
「そういえば……リサとアレクシアは?」
クレアの表情が、ほんのわずかに変わった。
「まだ日本よ」
「まだ?」
「ええ」
「テラグリジアがこんな状況なのに?」
責めるような言い方ではなかった。ただ、疑問がそのまま声になっただけだった。
クレアは少し考えてから答えた。
「戻ってくる予定ではあるわ。ただ……どうも不運が続いていて、日本から動けていないらしいの」
「不運?」
「交通の問題だったり、予定していた移動手段が使えなくなったり。大きな問題というわけではないみたいだけど、細かいことが重なっているらしいわ」
シェリーは黙った。
一つなら偶然で済む。
二つでも、まだ珍しいとは思わない。
だが、それが何度も続けば話は変わってくる。
「……偶然にしては、ずいぶん続くね」
その言葉に、クレアがシェリーを見る。
「何か思うところがあるの?」
「アレクシアも、裏では疑ってるみたい」
「何を?」
「自分たちが日本から動けないこと」
シェリーは少し考えながら言葉を選んだ。
クレアは黙ってシェリーの話を聞いていた。
「……そう」
「アレクシア、かなり気にしてたみたい」
「それで?」
シェリーは一度視線を落とした。
「コネクション?」
その名前が出た瞬間、クレアの眉がわずかに動いた。
だが、驚いたというより、考えを整理するような表情だった。
「そう考えたくなる気持ちは分かるわ」
「じゃあ――」
「でも、早計よ」
クレアが静かに遮った。
声は穏やかだった。それでも、そこには明確な線引きがあった。
「今の段階では、何も証拠がないでしょう?」
「……そうだけど」
「テラグリジアでは、これだけの事件が起きている。いろんな組織が動いているし、情報も錯綜しているわ」
クレアは窓の外へ目を向けた。
「誰かが意図的に二人を足止めしている可能性を否定することはできない。でも、それとコネクションが関係しているという話は別よ」
シェリーは黙って聞いていた。
「アレクシアが疑っているからって、それだけでコネクションだと決めつけるわけにはいかない」
「……分かった」
シェリーは素直に頷いた。
クレアの言っていることは正しい。
アレクシアが何を考えているのか、シェリー自身もすべてを理解しているわけではない。まして今は、テラグリジアで起きている事件そのものに複数の組織が関与している可能性がある。
何が偶然で、何が誰かの意図なのか。
現時点では判断できない。
「ただ……」
シェリーが顔を上げる。
「リサとアレクシアが戻ってくるまでは、少し気になるね」
「私もよ」
クレアは答えた。
そして、ゆっくりと窓の外へ視線を向ける。
暗い夜空の向こうには、日本がある。
そこへ向かった二人が、今どこで何をしているのか。
「戻ってきたら、直接聞きましょう」
「うん」
シェリーも立ち上がった。椅子を戻し、机の上に残っていた報告書をまとめる。
「じゃあ、私はもう少し報告を確認してくる」
「シェリー」
呼び止められて振り返る。
「なに?」
「今日はちゃんと寝るのよ」
シェリーは一瞬だけ目を丸くした。それから、少し笑った。
「クレアもね」
「……分かったわ」
「絶対だよ?」
「分かってるってば」
二人は顔を見合わせ、今度は先ほどよりも自然に笑った。
だが、その笑顔の奥にある疑念まで消えたわけではない。
テラグリジアで起きている事件。
日本で足止めされているリサとアレクシア。
そして、その背後で暗躍しているかもしれない何者か。
まだ、何一つ確かなことは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、この事件が終わるまで、誰も本当に気を抜くことはできないということだった。