視界が歪んでいる。
まるで水底から水面を見上げるかのように、空間そのものが奇妙に揺らいでいた。
ここは、下々を睥睨する高層ビルの最上階を思わせるその空間だった。
あちらこちらの棚に、これ見よがしに並べられたきらびやかな宝飾品。
壁を埋め尽くすのは、仰々しい額縁に入れられた無数の賞状や感謝状。
頭上からは、絶え間なく音声が降り注いでいた。
姿の見えないスピーカーから大音量で流れるのは、
誰かを讃え、称賛する群衆の歓声と拍手。
そんなノイズを切り裂くように、男の悲痛な叫びが響き渡る。
「すみませんでした先輩!! 」
声だけが、空間に虚しく反響する。
だが、その悲痛に濡れた声は、空間の揺らぎをいっそう激しくさせた。
部屋の中央、ひときわ豪華な台座の前に立つ男が。
「――あの日から、全てが始まった。」
――すべての因果が始まった、あの忌まわしき「過去」へと。
******
まばゆい朝の光が、リビングのレースのカーテン越しに差し込んでいた。
キッチンからは、トーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーの豊かな香りが漂っている。
そんな穏やかな空気の中で、四十代とは思えない柔らかな笑顔を浮かべた田中一郎《たなかいちろう》。
優しい目元と整えられた短髪がよく似合う、どこにでもいそうな父親だった。
写っているのは、女の子を抱えた今より少し若い一郎と、そんな一郎に寄り添う笑顔の女性。
「あー、お義父さん、またその写真見てる」
不意に、茶化すような声が鼓膜を震わせた。
一郎が振り返ると、ダークブラウンに染めた髪を肩まで伸ばし、カメラを片手に悪戯っぽく微笑んでいるのは、連れ子の娘の美子《みこ》だ。
「……ああ」
一郎は照れくさそうに頭を掻き、視線を写真から美子へと移した。
その表情には、過去の感傷を包み込むような、穏やかで優しい笑みが浮かんでいる。
「もう、毎朝いっつもみてるんだから、たまには、お義父さんを撮ってあげるね。
はい、こっち向いて、笑って!」
「はは、”たまには”っていつもじゃないか……、
美子の趣味のカメラには普段からも付き合ってあげてるじゃないか?」
「いいから、ほら、はいチーズ!」
カシャ、と軽いシャッター音が響く。
美子は画面を確認して「うん、今回もいい笑顔」と満足そうに頷く。
「お母さんがご飯、できてるよって。冷めないうちに食べよ?」
「そうだね。私もお腹がすいたよ」
写真立てに背を向け、一郎は美子の後を追った。
ダイニングテーブルには、色鮮やかなサラダと、きれいに狐色に焼けたトースト、
そして湯気を立てるスープが並んでいた。
「もう、2人とも遅い。せっかく熱々で作ったのに」
エプロン姿の妻、美代《みよ》が、おたまを手にしたまま困ったように笑って二人を迎える。誰もが美人と認める容姿も、その穏やかな笑顔の前では印象が霞んでしまう。
「ごめんごめん。お義父さんがまた写真に見入ってたから、つい激写しちゃって」
「こら、美子。私のせいにするんじゃない。……でも、遅くなってごめんね、いつも美味しい朝食をありがとう」
一郎は美代の目を見て、いつも通りに感謝の言葉を口にした。
「はい、お義父さん。お義父さんの大好きな、ハチミツたっぷりのバタートースト」
「ありがとう、美子。でも、ちょっと塗りすぎじゃ……」
手渡されたトーストを見て、一郎は「これは、さすがに……」という困り顔を浮かべた。パンの表面が黄金色のハチミツで完全に海になっている。
「あ、じゃあいらない?」
美子がわざとらしく、ふいっと目を伏せて拗ねてみせる。
もちろん、それがただの甘えだと一郎には分かっていた。だからこそ、彼は降参したように目元を緩める。
「いいや、美子がせっかく塗ってくれたんだからね、いただくよ」
大きな口でトーストをかじると、強烈な甘さとバターのコクが口いっぱいに広がった。一郎が「うまいよ」と言わんばかりに幸せそうに頬張る姿を見て、美子はすぐに破顔して、嬉しそうにスープを口に運んだ。
「もう、一郎さん。あまり美子を甘やかさないでよ?」
お茶を淹れながら、美代がクスリと笑って苦言を呈する。口ではそう言いつつも、夫の優しさが嬉しくてたまらないといった表情だ。
「そういえば一郎さん、今夜、真一さんが来るみたいよ。
なんでも話があるとかで、何か聞いてる?」
美代の言葉に、一郎はトーストを咀嚼しながら優しく微笑んだ。
「いいや、特には何も。でも、そうか、真一が。それは楽しみだね」
「最近はあまり来なかったものね。お仕事が忙しかったのかしら……」
「はは、そうだね。私の方も最近、ごたごたしていたからね」
一郎の声は、久々に親友に会えるという喜びに、分かりやすく弾んでいた。
「真一は、私が苦しい時期も、新しい家庭を築いた今も、ずっと近くで支えてくれたかけがえのない親友なんだ」
「ま~た、始まった。お義父さんの真一さん自慢」
「そうね……、少し妬けちゃうわね」
親友との再会を無邪気に楽しみにする一郎の笑顔に、美代も美子も二人そろって茶化してきた。
一郎は「まいったな・・・…降参だよ、降参・・・…今度ケーキでも買ってくるからさ」と笑いながら両手を上にあげた。
そして、アイツが来るなら、今夜はとっておきのお酒を開けようか。そんなことを考えるだけで、一郎の心は温かい期待で満たされていく。