■第7話
開かれたノートパソコンの画面には、一つの名前が浮かび上がっている。
旧姓にもどした、【高木美代《たかぎみよ》】――下野清太に続く、第二の標的。
タロウは椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の染みを見つめながら、自身の記憶を思い返していた。
彼が今やろうとしていること。それは、あの異質な現象が「偶然」だったのか、それとも「必然」のルールに従ったものなのかを見極める、『実地検証』だ。
脳内で、清太の事件がいくつかのフェーズに分解されていく。
フェーズ1
始まりは、あの怯えきったワイシャツ姿の幽霊だった。こいつが引き金となっている。
フェーズ2
幽霊の絶叫と同調するように、ビルのドアの周囲が歪んみ「裂け目」ができた。
フェーズ3
俺だけが、歪みの向こう側へと足を踏み入れた。
フェーズ4
最奥に鎮座していた、清太の『巨大な王冠』の粉砕。
フェーズ5
結果として、警察や世間の歪められていた認識が、戻った。
「……綺麗な一本の線だ」
タロウは低く呟き、ゆっくりと上体を起こす。
机の表面には、昨日自分がペンで書き殴った歪な図式がそのまま残っている。
大元である『アクマのちから』、行使する『契約者』、具現化する『精神世界』。
おそらく、これらは当てはまっているが、一度成功しただけでは、それはただの偶然に過ぎない。
「法則は……再現できるのか?」
ネオンの光がアスファルトを染めている。
タロウはポケットに両手を突っ込み、行き交う人々の波を縫うように歩いていた。
その肩のあたりから、ふよふよと浮き上がった真夜が、いつもの小馬鹿にしたような笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「ねぇねぇ、ざこお兄ちゃん? またあの変な空間探しに行くわけ? 懲りないね〜」
タロウは無視して、すれ違う人々の顔を観察し続ける。
笑い合うカップル、スマホを見ながら歩くサラリーマン。彼らにとってこの街は、ただの「日常」だ。
路地裏のゴミ箱の上にいた一匹の黒猫が、タロウと目が合った瞬間、毛を逆立てて威嚇した。
フシュッと短い威嚇音を上げ、闇の奥へと逃げ去っていく。
「あはは! 猫ちゃんにまで嫌われちゃってさぁ。だっさーい! ほらほら、次行こ次!」
真夜がタロウの頭の周りをからかうように飛び回る。
「うるさい。静かにしろ」
「あ〜怒った〜? ざこのくせに一体何をするのー?こわーい」
タロウは足を止めず、さらに街の深部、光の届かない路地裏へと歩みを進める。
この検証における最初のステップは、亀裂の発生の起点となる「真実を知る者」を見つけ出すことだ。『幽霊』を。
薄暗い高架下。ひんやりとした空気が肌を刺す。
その空間の片隅、古びた自動販売機の横に、それはいた。
輪郭がひどくぼやけた、若い女性の霊だった。作業着のようなものを着ている。
彼女はタロウの姿を視界にとらえた瞬間、ガタガタと激しく震えだした。
その瞳には、「恐怖」が宿っているように見える。
「うわっ、出た! 同類さんじゃん! ほ〜らお兄ちゃん、ビンゴだよ!
ほめて欲しそうな顔しちゃってさぁ、かわいーね!」
真夜はケラケラと笑っているが、タロウの目は真剣そのものだった。
タロウは怯える女性の幽霊の前にゆっくりと立ち塞がり、見下ろした。
「美代は……どこにいる」
自動販売機の薄明かりに照らされ、若い女性の幽霊がガタガタと床にへばりついている。
タロウはその狂態を冷徹に見下ろしていた。
……だが、周囲の空間には何の変化も起きない。
清太の時のように、空気がぐにゃりと波打つ「裂け目」は、どこにも現れなかった。
「……開かない、か」
タロウが低く呟くと、すぐ後ろでふよふよと浮いていた真夜が、待ってましたとばかりにニヤニヤと顔を近づけてきた。
「あれれ〜? ざこお兄ちゃん、かっこつけて『美代はどこだ』なーんて言っちゃってさぁ、
空振りじゃん! 何も起きませーん! あははっ!」
タロウは真夜の言葉を完全に聞き流しつつ、無造作に右手を伸ばすと、
近づいてきた真夜の頭を無慈悲に鷲掴みにした。みしり、と圧がかかる。
「ぎゃー! 痛いー痛いー! ……生意気な事を言ってスイマセンでした。本当にごめんなさいっ!もう、言いませんからっ!離してー!」
涙目でジタバタと暴れる真夜をよそに、タロウの脳内では、なぜ空間が歪まないのかという分析が始まっていた。
「幽霊は目の前にいる。だが……これは単に、俺を恐れて動揺しているだけか?」
「……俺の思い違いだったか。」
『幽霊=全員が真実を知る者』だと思い込んでいた。だが、それは違ったらしい。
「幽霊なら誰でもいいわけじゃない、か……」
タロウの手の力が緩んだ隙を見計らい、スポンと頭を引き抜いた真夜は、
涙目をこすりながらも懲りずにまた煽り始めた。
「うっわー! 勘違いしちゃってさぁ! 幽霊なら誰でもいいと思って脅しちゃったわけ?
ざこお兄ちゃん、やってることただの不審者じゃん! サイテー、きもーい!」
真夜の容赦ない煽りが鼓膜を叩くが、タロウの瞳にはむしろ、ギラリとした確信の光が戻っていた。
「……なんとなくだが見え始めてきたな」
清太の時に現れたワイシャツの幽霊は、奴によって無実の罪を着せられた冤罪の被害者だった。
つまり、今回の件と何の関係もない幽霊では裂け目は開かない。だが、裏を返せば――。
あの空間を開くには、アクマの契約者と「何かしらの因縁」を持った死者であること。
「方針を変える」
タロウは身を翻し、怯える幽霊を置き去りにして高架下から歩き出す。
「あーっ、また無視した! 待ちなさいよこのー!」
今必要なのは、
幽霊探しではない。
契約者と繋がる死者を探すことだ。
背後から追いかけてくる真夜の文句を聞き流しながら、タロウはポケットからスマホを取り出す。
美代の周囲で起きた「不自然な事件」や「かつての関係者」を炙り出すため、彼はより深いデータベースへのアクセスを開始した。