午後二時。窓の外から差し込む強い西日が、静かなオフィスを照らしていた。
「あー、だる……。あ、いや、お疲れ様です」
デスクで小さく伸びをしながら、下井清太《しもいせいた》は慌てて口元を手で隠した。
20代。細身のスーツをスタイリッシュに着こなし、爽やかな笑顔を絶やさない清太は、少し茶色がかった髪を無造作に流し、整った顔立ちもあって社内では女性社員からの人気も高い。
そんな清太の背後に。
「下井くん」
「うおっ!? あ、先輩。びっくりした……」
振り返ると、一郎がホット緑茶を差し出していた。
「また、スマホについた指紋を拭いているのかい? 相変わらずキレイ好きだね」
「あはは、いやー気になっちゃって……」
「それより、また昼食はコンビニのパンだけだったのかい?
若いんだから、もっとちゃんと野菜を食べないと。
ほら、これ。美代が余分に作ったからって、カボチャの煮物を持たせてくれたんだ。良かったらおやつ代わりに食べなよ」
「えっ、煮物ですか? いや、俺、仕事中にタッパーから煮物食うタイプじゃないんで……」
「そう言わずに。一人暮らしだと、どうしても野菜が不足しがちだからね。
それからこれ、最近流行っているらしい喉飴だ。昨日、少し咳をしていたからね」
一郎は清太のデスクに、タッパーと喉飴、そして温かいお茶をごく自然に並べていく。
「……いや、先輩、もはやオカンになってますよ。俺だって自分の体調管理くらい、一人でできますって」
「はは、そうかもしれないね。でもね、体が資本だから。
下井くんが倒れたら、チームのみんなも悲しむけれど、
何より下井くんのご両親が心配する。若いうちの無理は、後から響くものなんだよ」
「はは……そうっすね。あざっす」
清太は頭を掻きながら、視線をデスクに戻した。
「あ、そうだ。今日の夜の資料、もう一回私が目を通しておこうか?
下井くん、今夜は確か、彼女さんと食事の約束があると言っていたね。
遅くなるといけないから、私ができる仕事は引き受けるよ」
「えっ!? いや、それはさすがに申し訳ないっていうか……」
「いいんだよ、お互い様さ。若い頃のデートは、何よりも優先すべき大事なイベント だからね。ほら、早くその資料を私に渡して、今日の夜は思い切り楽しんできなよ」
一郎は清太の肩をポンと叩いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。先輩、マジで神っす」
「神だなんて、大げさだな。
さあ、ハチミツ代わりの煮物、冷めないうちに一口食べなさい」
そう言って、またお節介を焼き始める先輩の後ろ姿を見送りながら、後輩は思わず苦笑した。
~~~~~~
夕闇が街を包み込む頃、一郎は温かい我が家へと帰宅した。
玄関のドアを開けると、美代の「おかえりなさい」という優しい声と、キッチンからの香ばしい匂いが彼を迎える。昼間のオフィスでの疲れなど、一瞬で吹き飛んでしまうほどの、穏やかで愛おしい我が家の時間。
そこに、約束通り彼がやってきた。
「よっ! 久しぶりだな、一郎」
玄関先に立っていたのは、長年の親友、黒田真一《くろだしんいち》だった。
端正な顔立ちに隙のない笑みを浮かべる、誰もが成功者だと信じて疑わない男だった。
「真一!」
一郎の顔が、子供のようにパッと輝く。久々に会う親友の姿に、胸の弾みが隠しきれない。
食卓には、美代が腕によりをかけた料理が並んでいた。
ビールを酌み交わしながら、二人はこれまでの近況を語り合う。
学生時代の他愛のない思い出話から、最近の互いの仕事のこと。
一郎は、美代や美子と暮らす今の生活がどれほど幸せかを、少し照れながらも、
嬉しそうに語った。真一は「そうか、良かったな」と静かに笑った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜も更けた頃。
真一がふと、グラスを置いて立ち上がった。
「さて……名残惜しいが、そろそろ行くよ。
実は明日から急ぎの仕事があってね。これで失礼するよ」
「えっ、海外? そうなのか。……寂しくなるな。
でも、体に気をつけて頑張ってくれよ」
「ああ。一郎もな」
真一はそのまま、夜の闇へと消えていった。
親友の後姿を見送り、一郎が「もっとゆっくり話したかったな」と少し寂しそうに、リビングへ戻ろうとした、その時だった。
ピンポーン、と。
静まり返った夜の家に、インターホンの音が鳴り響いた。
「おや? 忘れ物かな?」
真一が何か置いていったのだろうか。
一郎は疑問に思いながらも、すぐに笑顔を浮かべて玄関の扉を開けた。
「真一、どうかした――」
しかし、そこに立っていたのは親友ではなかった。
濃紺のスーツを身にまとった、表情のない数人の男たち。
その胸元に光る警察のバッジを見た瞬間、一郎の思考が停止する。
「田中一郎さんですね」
先頭の男が、感情の失せた声で名前を呼んだ。
「は、はい。そうですが……」
「田中一郎。あなたを『機密漏洩容疑』で逮捕します」
「え……?」
理解が追いつかない。
差し出された冷たい金属。カチャリ、と重々しい金属音が響き、一郎の両手首に冷酷な手錠が嵌められた。
「な、何かの間違いじゃ……!」
奥から血相を変えて美代が駆け寄ってくる。
「一郎さん!」
彼女は声を張り上げ、必死に手を伸ばす、しかしその手が一郎の体に触れることはなかった。
一拍遅れて、リビングから美子の叫びが上がった。
「お義父さん!」
「美代、美子……大丈夫だ」
一郎は、恐怖に震える体を必死に抑え、愛する家族に安心させるような歪だが笑みを向けた。
「大丈夫だ……きっと何かの間違いさ。
すぐに、すぐ戻るよ。だから心配しないで待っていてくれ」
一郎はただ警察官たちに促されるまま、夜の闇へと連行されていった。
閉まる玄関の扉。
取り残されたリビングに、静寂が戻る。
その不自然な静けさの中で、引き裂かれた「幸せ」の余韻だけが、虚しく宙に漂っていた。
第1章 END