目の前の空間が、水面に落としたインクのようにぐにゃりと波打っていた。
タロウはその歪みを見つめていた。
「これって……『入り口』? ざこお兄ちゃん、やっぱり入る気……なんだよね?」
真夜が青ざめながらタロウの周囲を飛び回る。
タロウは待ちに待った瞬間がきたとその昏い本性を表情に浮かべた。
「美代を潰すには、この歪みの奥へ行くしかない。前回同様お前はここにいろ」
「はぁ!? なによそれ、偉そうに! ざこタロウが一人じゃ何も出来ないでしょ!
だからあたしも一緒に行ってあげるんだから泣いて喜びなさいよね~!」
タロウの前に回り込んだ瞬間、真夜はふと思いついた。
「……あ! そうだ、いいこと思いついた!」
「なんだ?」
「あたしが、あんたの身体に憑依すればいーのよ!
そうすれば一緒に行けるし、ざこなあんたがヘマした時にあたしが助けてあげられるでしょ!
感謝しなさいよね!」
「おい、勝手なことを――」
タロウが拒絶する間もなく、「前はすり潰されそうだったから気をつけなくちゃ」と真夜はタロウの胸元に向かって真っ直ぐに飛び込んだ。
直後、彼の頭の中から真夜の声が聞こえる。
「へっへー、今回は大成功ー! ざこタロウがいくら拒絶したって、あたしには無駄なんだもーん!」
「……」
タロウは深く息を吐き出すと、歪みの中心――講堂の入り口へと、躊躇なく足を踏み入れた。
一歩踏み入れた先は、大学のキャンパス「最下段メインステージ」だが現実と違い、あちらこちらの空間が歪んでいた。
「うわわわ……へぶっ!? ……ふえ? なんで真夜が外にいるわけ!?
ざこタロウ、真夜を中に入れておく体力もないの? 本当にざこじゃん!」
声と共に真夜がタロウの中から強制的に吐き出されてきた。
しかも、顔面から床に叩き付けれて。
あわてた様子で真夜がタロウに詰め寄るが。
「俺自身に、前回のような異常はないな……?。そっちは?不調はないか?言葉にできない不快感などは?」
「え?無いけど……って誤魔化す―――」
再び詰め寄る真夜にタロウはさらなる質問を重ねた。
「ところでお前、いつもみたいに浮いていないようだが?」
「え!?ホントだ!なんで―――」
真夜が疑問を述べたその時、目の前に巨大な「ノイズを帯びた映像」がいくつも浮かび上がった。
映し出されたのは、10年前の記者会見の光景。
壇上にいるのは、痛々しい包帯を巻いた美代だった。彼女は目元を腫らし、大粒の涙を流しながらマイクに訴えている。
『……一郎さんは、私が少しでも意見を言うと、すぐに手を出しました……』
その痛々しい「被害者」の姿に、フラッシュの嵐が浴びせられる。
周囲を埋め尽くす匿名の声が、津波のように響き渡る。
『酷すぎる』『一郎って男は悪魔だ』『美代さんを救え!』
タロウはそれを、表情一つ変えずに見つめていた。
「これ……あんた? なによそれ、意味わかんないじゃん!
「そのようだな」
「なんで知らないわけ!? 自分のことなのに、忘れるわけないでしょ……!」
「正確には、この件自体を知らないんだ、俺には何も知らされなかったからな、気がつけば機密漏洩とDV旦那のレッテルが貼られていた」
「……今考えても、おかしな話だ。本人である俺に、一度も確認することなく、世界だけが俺を『犯人』として扱っていた」
「なによそれ……。めちゃくちゃじゃん……。
あんた何も悪くないのに、なんでそんな……そんなの、あんまりじゃん……っ」
映像がブレるように切り替わり、今度は内見細雪の幻影が現れる。
ニュースにはある男性がストーカー行為をしたとして、逮捕されている映像が流れていた。
「なんで?あの人は何もしていないのに!あんな、ありもしないスキャンダルが出るの?私がいくら訴えても、お父様も、皆もどうして聞いてくれないの?」
内見の叫びの声は、空間に溶けていった。
「なによこれ……? 意味わかんないんだけど……。
あんたら全員そろってバカなの……? こんなの、こんなの嘘に決まってんじゃん……」
真夜の呟きは段々小さくなり、空間に溶けた。
さらに進むと、「中段のミドルステージ ランウェイ」へとついた。
ただし、周囲には学生たちの姿は無い。
ワアァァァァッ!!
突如、どこからか割れんばかりの拍手と、熱狂的な歓声が聞こえてくる。
足元には、どこまでも続く真っ赤なランウェイ。
その左右には、「鏡」が何枚も置かれていた。
「素晴らしいわ、美代さん!」
「あなたが世界の中心だ!」
姿のない群衆が、美代を称賛し続ける。
「ミスコンの再現か?……。ハッ!『最も美しかった頃』とでも言う気か!!」
「……」
タロウが吐き捨てるように言う横で真夜は黙ってその光景を眺めていた。
空間全体が映画のスクリーンのように切り替わる。
無数の記憶の断片ただ、「美代」という女の半生が、怒涛の映像群となって叩きつけられた。
[カット1] ミスコン・頂点
まぶしいスポットライト。ミスコンの冠を戴き、満面の笑みで歓声に応える美しい美代。底知れない執着が、その瞳の奥でギラリと光を放っていた。
[カット2] 群衆の足蹴
画面が引くと、彼女の足元には無数の人間の顔。美代はその顔をハイヒールで踏みつけ、さらに高い場所へと登っていく。欲望に満ちた眼差し。
[カット3] 男たちと蜜
次々と切り替わる裕福な男たちの顔。甘い言葉で男を抱き寄せ、財布を奪い取っては、ゴミのように投げ捨てる。男たちの破滅と、彼女のドレスがさらに豪華になっていく。
[カット4] 真一との契約
不気味に微笑む男――真一から、ゲームを持ちかけられる美代。二人は嘲笑を交わし合い、乾杯のグラスを鳴らす。
[カット5] 一郎(タロウ)との再婚
温かい家庭を演じる一瞬のカット。直後、美代は自らの頬を殴りつけ、服を破き、涙を流しながら警察へと電話をかける。
映像がブツリと途切れ、静寂が訪れる。