影が長く伸び、街全体が茜色に染まっていく。
「朝日のとっておき街めぐりツアー」、その終わりを告げるように、夕空をカラスが鳴きながら横切っていった。
「ふぁ~あ、歩いた歩いた!
ざこお兄ちゃん、朝日ちゃんに引きずり回されて疲れたんじゃないの~?
ざこざこな体力なんだから、夜は即落ちね! けってい~!」
タロウの肩口で、真夜があくびを交じえながら生意気に茶化す。
だが、その声も夕暮れの静寂の中にすうっと溶けていくようだった。
「今日は楽しかったね! タロウおにいちゃん!」
歩道の真ん中で振り返った朝日は、夕日を背に浴びて、満面の笑みを咲かせた。
ふ、と温かい夕風が吹き抜ける。
朝日は風に揺れた右サイドの髪を、慣れた手つきで静かに耳へと掛けた。
そうして夕空を見上げ、穏やかな笑みを浮かべている。
「……。」
タロウは言葉を発することなく、ただその佇まいに何かを感じ取り、一瞬だけ目を大きく見開いた。
家へと続く角に差し掛かり、朝日は足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから! お弁当箱、今度返してね!」
大きく手を振る朝日の姿があった。
「またねー!」
その元気な声を背に受けながら、タロウはふと立ち止まり、振り返る。
「……名前……なんと言ったか」
「え!? ……あの、ボクの?」
唐突な問いかけに驚き、朝日は目を丸くした。
「……ああ」
何事かを確かめるように呟くタロウ。
朝日は少しだけ不思議そうに首を傾げたが、すぐに太陽のような満面の笑みを咲かせた。
「朝日……明日葉朝日だよ! お兄ちゃん!」
「あさひ……」
「うん、今度こそまたねー!」
パタパタと駆け出し、再び大きく手を振る。
「……ああ。朝日……またな」
その声に、タロウは短く応える。
遠ざかっていく朝日の小さくなる背中を、タロウは胸の奥の静かな軋みを感じながら、ただじっと見送っていた。
角を曲がる直前、朝日はもう一度こちらを振り返り、大きく手を振った。
ふわり、と再び風が吹き抜ける。
「わわ……もう、困った風だな~」
朝日は困ったように微笑みながら、さっきと同じように髪をそっと耳へと掛け、優しく微笑んだ。
「……」
夕暮れの光の中、その仕草を目に焼き付けたタロウは――一瞬だけ、静かに目を細めた。
風が二人の間を吹き抜け、街はゆっくりと夜の闇に包まれていく。
朝日とのピクニックを終えた日の夜。
珍しくタロウはソファの上で微睡み、夢を見ていた。
懐かしく、そして決して戻らない、古い夢を―――。
部屋の中に、やわらかな午後の陽光が差し込んでいる。
「きゃはは! おとうさん、もっと高く! もっとー!」
リビングの中央で、幼い朝陽《あさひ》が両手を広げてはしゃいでいた。
まだ言葉も覚えたての小さな身体を抱え上げ、一郎が高々とかかげると、朝陽は無邪気な歓声をあげる。
「よし、じゃあ次は飛行機だ。……ブーン」
「キャハハハッ! ひこうき! ひこうきー!」
無骨な手でしっかりと小さな身体を支えながら、一郎の目元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
キッチンのカウンター越しに、その様子を温かい眼差しで見つめていた女性――妻の光《ひかり》が、ふふっと笑みをこぼす。
「もう、二人とも。そんなに激しく動いたら、お腹が空いちゃうでしょ?」
光はお気に入りのエプロンの帯を整えると、出来立ての料理が並ぶ食卓へと歩み寄ってきた。
「ほら、朝陽。お父さんを解放してあげて。今日のご飯は、朝陽の大好きな唐揚げと、甘い卵焼きですよ」
「わぁぁ! からあげ! たまごやき!」
一郎の腕の中から降りた朝陽は、短い足をパタパタと響かせてテーブルへと駆け寄っていく。
椅子にチョコンと座り、小さな手でフォークを握りしめる娘の姿に、光は心底愛おしそうな表情を浮かべた。
「一郎くんも、いつもお仕事お疲れ様。はい、どうぞ」
「……ああ。ありがとう、光」
テーブルにつき、二人で向き合う。
一口食べた一郎が「いつもと同じで、すごく美味しいよ」と短く漏らすと、光の顔がパぁっと華やいだ。
「本当? よかった……! 一郎くん、最近忙しそうだったから、好きなもの作れてよかった」
そう言って、光は嬉しさを隠しきれない様子で穏やかに微笑むと、髪をそっと右手で耳へと掛けた。
「ふふっ。嬉しいことがあった時に出てくるね、それ」
そう言って笑みを浮かべる一郎に、光は照れくさそうに笑い返す。一郎はそんな彼女の小さな癖を、愛おしそうに見つめていた。
「おとうさん! あさひのも、おいしいよ! ほら!」
朝陽が口の端にケチャップをつけながら、誇らしげに自分の皿を指差す。
「そうか。良かったな、朝陽」
「うん! おとうさんと、おかあさんと、みんなでたべるの、だいすき!」
無邪気に笑う娘の頭を、一郎は大きな手で優しく撫でた。
光はそんな二人を愛おしそうに見つめ、もう一度、そっと髪を耳へ掛けながら微笑む。
どこにでもある、ただ穏やかで、温かい、当たり前の日常。
指先に触れていた娘の柔らかい髪の感触も。
部屋を満たしていた、光の手料理の香ばしい匂いも。
そして、目の前で優しく微笑んでいた光の柔らかな表情も――。
かつて、この手に確かに存在していた、「光」のすべてだった。
第9話END