カチ、と静かな部屋に時計の秒針の音だけが響いている。
タロウはゆっくりと目を開けた。
薄暗い天井を見つめたまま、しばらく身動きひとつ取れない。
夢を見ていた。
懐かしく、温かく。そして目覚めた今は、胸を焼くだけの夢を。
上体を起こし、タロウは自分の大きな手を見つめた。
夢の中で握りしめていた幼い娘の手の温もり、鼻腔をくすぐっていた料理の匂い――その感触が、まだ掌に残っているような気がした。
(……あの時、俺は……)
脳裏に不意に浮かんだのは、前日の夕暮れ。
茜色の街並みの中、振り返って笑った朝日の姿。
そして、夕風に揺れる髪を、そっと右手で耳へと掛けたあの仕草だ。
打ち消そうとしても、その光景が脳裏から離れない。
あの朝日の仕草は、「タロウ」ではなく、「一郎」の思い出と、痛いほど鮮明に重なってしまう。
嬉しいことがあるたび、照れくさそうに髪を耳へ掛けていた、亡き妻――光の笑顔と。
(なぜだ……)
胸の奥底で、冷たく固まっていた何かが激しく軋む音がした。
「あれ~? ざこお兄ちゃん? 今日は出かけないの~?あ!わかった、昨日の朝日ちゃんとのデートで筋肉痛になっちゃったんだ~!ダッサ~っ、ぷぷーっ!」
幽霊の真夜がふよふよと浮かび上がり、いつもの定位置であるタロウの頭上へと陣取る。
「……今日は休みだ。好きにしろ」
「ふ~ん?」
タロウが短くそれだけを告げ、再び重い瞼を閉じると、真夜はニヤニヤしながら「じゃあ~朝日ちゃんのトコに行って遊んでこよ~っと!」と言い残し、そのままスーッと壁をすり抜けて出て行った。
一人きりになった静寂の中、目を瞑ったタロウの耳奥へ、記憶の底からかつて愛した声が蘇ってくる。
『本当? よかった……! 一郎くん、最近忙しそうだったから、好きなもの作れてよかった』
そう言って髪を耳へと掛ける光の笑顔が、暗闇の中で鮮明に浮かび上がっていた――。
眩しいほどの陽光が、木々の葉を透かして柔らかな木漏れ日を降らせている。
どこか懐かしい、澄んだ風の匂い。
一郎は、公園のベンチの前に立っていた。
「一郎くん、見て! あそこのお花、すごく綺麗に咲いてるよ」
声を弾ませて振り向いたのは、光だった。
今より少しだけ幼さを残した、十数年前――まだ二人が恋人同士だった頃の姿。
多くの人が行きかう遊歩道。
ただ街を歩き、くだらないことで笑い合い、何気ない景色を二人で眺めるだけの、穏やかなデート。
「……ああ。綺麗だな」
一郎の視線は、花ではなく、目の前で無邪気に弾む光へ吸い寄せられていた。
ふわり、と温かい春風が吹き抜ける。
光の柔らかい髪が風に乱れ、頬にふわりとかかる。
彼女は「もう……」と小さく困ったように微笑むと、右手を差し伸べ、乱れた髪をそっと耳へと掛けた。
そして、少しだけ首を傾げ――陽だまりのような、温かく穏やかな笑みを向けた。
「……」
その姿に、一郎はただ言葉を失い、見惚れていた。
胸の奥が温かい光で満たされていくような感覚。
特別なことは何も無く、ドラマのような劇的な展開もない。ただ、大好きな人が目の前で笑っているという、それだけの日常。
何よりもかけがえのない「世界」だった。
陽の当たる柔らかなリビングのフローリング。
「……あ! あっ!」
まだおぼつかない足取りで、よちよちと歩いていた幼い娘の朝陽が、勢い余って「とてて」と前のめりに転んだ。
朝陽が小さな手足をばたつかせる。一郎は咄嗟に腰を落とし、その小さな身体を抱き上げた。
「……大丈夫か、朝陽」
一郎が声をかけると、朝陽は痛がる様子もなく、父親の腕の中で「きゃはっ!」と弾けたような声をあげて笑った。
「ふふ、もう。朝陽ったら、お父さんに甘えたくてわざと転んだんじゃないの?」
キッチンから器を抱えて戻ってきた光が、目の前の二人を見て、心底嬉しそうに目を細めて笑う。
「……そうなのか、朝陽?」
「おとーたん! キャハハッ!」
一郎が抱きかかえたまま小さく持ち上げると、朝陽は無邪気に足をパタパタと動かした。
その頭を優しく撫で下ろしながら、一郎の口元にも、ごく自然で温かな笑みがこぼれていた。
「ほら二人とも、ご飯にしましょう。今日は朝陽の大好きなメニューだよ」
光が食卓に料理を並べ、食卓を囲む、三人。
ただそれだけの、何よりも幸せな時間だった。