橙色の夕空が広がり、影が長く伸びる帰り道。
小さな朝陽を真ん中に挟み、三人は手をつないでゆっくりと歩いていた。
「あー、きょうもたのしかったねー!」
無邪気にはしゃぐ朝陽の小さな手を、一郎と光が優しく包み込んでいる。
心地よい夕風が吹き抜け、光がふわりと揺れた髪をそっと右手で耳へと掛けた。
「ふふ……本当に、こんな毎日がずっと続くといいね」
光が隣を歩く一郎を見上げ、穏やかな笑みを向ける。
「……そうだね、これからもこんな――」
言いかけた一郎の言葉が、ふと途切れた。
(……こんな?)
胸の奥を刺すような、猛烈な違和感。
足元影が揺らぎ、鮮やかだった夕焼けの景色が、まるで水に溶ける絵の具のように少しずつ輪郭を失い始めていく。
自分が握りしめているはずの、温かい娘の小さな手の感触。
隣で微笑む、愛しい妻の温もり。
「……こんな……こんな……」
自分の底にいた「タロウ」の意識が表層へと浮上し、「一郎」と溶け合い始めた。
タロウは静かに、そして横に立つ光を見つめた。
「……ああ、そうだ……。コレは……夢だ」
タロウは目を細め、静かに呟いた。
「……夢だが、光。朝陽。もういちど、二人に会えた……それだけで私は、本当にいい夢だったとおもうよ」
光は驚いたように目を見開き、それからどこか寂しそうに、泣きそうに微笑んだ。
朝陽は変わらない無邪気な笑顔のまま、「おとうさん?」と不思議そうに見上げてくる。
「……俺は、きっとお前たちの元へは行けない」
タロウの眼差しは、復讐者のそれへと戻っていた。同時に、その瞳の奥には絞り出すような切なさが宿っている。
「今の俺は……お前が愛してくれた、あの頃とは違いすぎるから」
返事を聞く前に、タロウは静かに光と朝陽に背を向けた。
振り返らずに、闇へと続く帰り道を一人で歩き出す。
背後から、無邪気な朝陽の声が届く。
「おとうさん、いってらっしゃいー!」
ブンブンと小さな手を振る朝陽と、ただ悲しそうに困った顔でそれを見送る光。
その声に、タロウの肩がほんのわずかに震えたが、振り返ることなく、ただ歩みを進め――。
陽だまりの風景が静かに崩れ去っていく。
向こうから聞こえていた幼い声も、暖かな夕焼けの光も、すべてが泡のように消えて失せた。
「……」
タロウは静かに目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた殺風景な自分の部屋の天井。
掌に残っていたはずの温もりはすでに消え去り、冷や汗だけが皮膚にへばりついていた。
「……なんだ、もう起きたの?」
頭上から、不意に声が降ってくる。
壁をすり抜けて「朝日ちゃんのトコに行く」と言って出て行ったはずの真夜が、いつの間にか戻り、宙に浮いたままタロウの顔を覗き込んでいた。
いつものニヤついた笑みは影をひそめ、その表情にはどこか複雑な色が混ざっている。
「……出かけたのではなかったのか」
「う~ん、なんとなく?……なんか、やなキブンになったから?……よくわかんない」
真夜はフンと鼻を鳴らし、視線を逸らした。それから照れ隠しをするように、少しだけタロウの近くへ寄る。
「……うなされてたよ、ざこざこなんだから。……体調に気、つかいなよ?」
その言葉には、いつもの底意地の悪い煽り文句ではなく、隠しきれない小さな心配が滲み出ていた。
タロウはしばらく天井を見つめたまま、ゆっくりと体を起こした。
重い体を引きずり、ベッドの端に腰を下ろす。
「……ああ……そうだな」
絞り出すような、短く低い声。
それ以上、タロウは語ろうとはしなかった。
ただ、静かに立ち上がり、闇の中へと足を一歩踏み出すように、ゆっくりと部屋の奥へ歩き出した。
その背中を、真夜は何も言わずに――ただ静かに見つめ続けていた。
その日の午後。
眩しい日差しが照りつけるビル街。
大型ビジョンには、今をときめく若手インフルエンサー――高木美子《たかぎみこ》の笑顔が大きく映し出されていた。
『〜〜〜ってことで! みんなもぜひチェックしてみてね~!』
街ゆく若者たちが足を止め、スマートフォンの画面や大型ビジョンに視線を送っている。SNSのタイムラインは、彼女の最新の投稿と宣伝動画の話題で埋め尽くされていた。
その喧騒から少し離れた歩道の陰。
タロウが、雑踏の中に佇んでいた。
その視線は、ビジョンの中の女性――高木美子へ、そして彼女の周囲の「空間」へと一直線に注がれている。
ふ、と。
彼女の映像の周囲、そして彼女の輪郭が水面に落ちた波紋のようにグニャリと「揺らぐ」。
「……」
タロウは静かに周りを見渡し目を細めた。
立ち止まる通行人たちの誰も、その異常に気づいていない。
画面の中でアイドルのようなスマイルを振りまく美子には、清太や美代と同じ歪みがあった。
「……やはり美子、お前もなのか」
低く、硬い呟きが、街の雑踏の中へと消えていく。
タロウの手が静かにポケットの中で拳を握りしめ、次の標的を見据えるように足を踏み出した――。
第10話 END