一面が何も存在しない、真っ黒な空間。
「……んっ……あ……?」
床とも天井ともつかない場所で、美子がゆっくりと目を覚ます。
「え?……お母さん……? なんで……死んだはずじゃ……?」
「わからないのよ。私も気づいたらここにいて……え?……死んだ?私が!!」
困惑する美代の傍らで、見覚えのないチャラそうな男――下井清太がポケットに手を突っ込んだまま呆れたように口を開いた。
「俺はずっと見てたぜ。どっちも突然、上から『ポトッ』ってカンジで落ちてきたな」
「は!? なによそれ、バカにしてんの!?」
食ってかかる美子に、美代が焦ったように尋ねる。
「それよりも美子、あんた!なにか覚えてないの、こんな場所に来た理由《わけ》とか!」
「それは……っ!そうだ!あの黒いジャンパーを着た変なヤツに、あたしの世界をぐちゃぐちゃに壊されたから……っ!」
「!? それって……私と同じじゃない!」
「おいおい、あんたらもあのクソヤローにやられた口か?」
清太がヘラヘラと鼻を鳴らす。美子は顔を顰めて問いかけた。
「クソヤローって誰よ?」
「は? アイツだよ、田中一郎! あのヤロー、死んだと思ってたらちゃっかり生きてやがったんだよ!」
「うそ……!? だってあの男は、真一さんが頭を撃ち抜いて死んだのよ……」
パニックになる美代の横で、美子が眉をひそめて思考を巡らせる。
「いや、俺は確かに見たぜ! あれ絶対田中だ!
顔を『パッ』って変えられるみたいだからよ、それで難を逃れたとかそんなんじゃねーの?」
「信じられないわ……! 私たちはしっかりこの目で見たのよ!? ねぇ、美子!?」
「ううん……ありえなくはないわ。だって『アクマ』なんてのが存在するんだから、顔を変えるくらい大したことじゃないでしょ」
「そんなことより、ここは何なんだよ! どうやって出んだよ、ここから!」
イライラと叫ぶ清太。
「さぁ?」
美子が冷ややかに肩をすくめると、美代が金切り声を上げた。
「どうするのよ!? こんなエステも美容皮膚科もない場所で!!」
――キーーーーーーーン。
その時。
背後の空間が、ピキリと不自然に歪んだ。
直後、鼓膜を激しく突き刺す超高音の耳鳴りが襲う。全員の身体が恐怖で硬直した。
一斉に 振り返った彼らの目は、信じられない光景に釘付けになる。虚空を割って、巨大な『口』が突如として現れたのだ。
人間など簡単に丸呑みにできるほどの凶悪な顎が、すでに限界まで開ききっている。
逃げる暇など与えないと言わんばかりに、無数の歪な牙が、いま確実に彼らへ向けて振り下ろされようとしていた。
「「「ひッ……!!???」」」
三人はなりふり構わず、その場から逃げ出そうと狂ったように足を動かそうとした。
だが、動かない。まるで目に見えない巨大な手に全身を圧し折られているかのように、指一本、視線一つ動かすことすら叶わない。
「な、なんだよこれ!? 動けねぇ!! た、たすけてくれ! 金ならある! なんでもするからぁぁぁ!!」
恐怖で理性を失った絶叫が、狭い空間に虚しく響き渡る。
そんな人間の矮小《わいしょう》な命乞いなど、最初から聞こえていないかのように、
巨大な口はただ淡々と、そして圧倒的な質量をもって迫りくる。
迫りくる牙の隙間から、彼らの絶叫をかき消すような、空間が咀嚼《そしゃく》される不気味な音が轟き始めた。
ガブッ―――!!
まずは清太が、頭から丸呑みにされた。
「や、やめ……ギャアアアアアアアアあ痛い苦しいぃぃぃぃぃッッ!!」
暗闇に響き渡る清太の苦悶の絶叫。
美代と美子は呆然と立ち尽くすことしかできない。
「や……いやあああああっ!!美子!美子を先に食べなさいよ!この子は若いし美味しいわよ!!」
なりふり構わず娘を盾に命乞いをする美代だったが、口はお構いなしにその全身を丸呑みにした。
ゴクン……。
一人残された美子は、目の前の絶望的な光景を見つめながら、かつて「アクマ」と契約を交わした際、真一との会話を突如として思い出していた。
『この力を得れば、世界は君の思い通りになる。……だが気をつけたほうがいいよ?もし何らかの事情で君の精神世界が破壊された場合、君の魂は肉体から切り離され、アクマの―――』
「あ……あの時のって……これのこと……? う、うそ……でしょ……? い、いや……」
ボロボロと涙をこぼし、青ざめた顔で首を振る美子。
「嫌だ……! 食べられるなんてそんな―――」
パクッ。
抵抗虚しく、美子も一瞬で口の中へと消えた。
三人を取り残さず平らげた巨大な口は、満足したように舌を打つと、そのまま暗闇の中へ溶けるように消えていく。
あとには――何も存在しない、ただ静かで冷たい黒い空間だけが残されていた。
彼らの末路 END