視界を埋め尽くしていた歪んだ空間が破裂し、元の――高木美子のタワーマンションの部屋へと引き戻される。
静寂。
ケージの中のインコだけが、毛づくろいをしながら静かにこちらを見つめていた。
「ふぅ……終わったね!あーすっきりした!あいつら親子揃ってダメダメのサイテーだったじゃん!」
真夜が宙を舞いながら、スカッとしたように声を弾ませる。
だが――タロウは動かない。
その場に立ったまま、自分の右手をじっと見つめていた。
「……?ザコお兄ちゃん、どうしたの?」
調子外れな声をあげる真夜。
タロウの瞳には迷いが宿っていた。
下井清太。高木美代。そして、義理とはいえ娘である高木美子。
自分を嵌め、利用し、欺き続けた者たちを全員破滅へと追いやった。
すべては、自分が選んだ結果だ。
だが――胸の中に残ったのは、達成感でも救いでもなかった。
(これで……本当に良かったのか……?)
田中一郎としての人格が、胸の奥で重く軋む。
かつて自分は悲劇の被害者だった。だが、俺も結局、自分が救われるために相手を壊しただけじゃないのか。
自分の選択が、誰かを傷つけ、壊し、結果的に偽者だったが、それまでは確かに家族であった人達も地獄へと叩き落とした。
「……ねぇ、どしたの?なに黄昏れてんのさ~。
復讐は果たしたんでしょ?もう少しざこっぽく、嬉しそうな顔を浮かべたら~」
真夜がどこか探るような視線で、そっとタロウの顔を覗き込んでくる。
タロウは低く、かすれた声で呟いた。
「……復讐は果たした。奴らはすべてを失った」
「うんうん、そうでしょ?ざまぁって話――」
「だが……何も戻ってはこない」
「……え?」
真夜が言葉を詰まらせる。
「奪われた時間も、失われた命も……ヤツラの手で壊された者の苦しみも。何一つ、戻りはしない」
タロウは静かに拳を握りしめた。
復讐を後悔しているわけではない。あいつらを許すつもりも、自分のことを「正義」と気取るつもりもない。
誰かの人生を踏みにじった「加害者」である事実は、どこまで行っても消えないのだから。
「復讐だけでは、終われない……か」
答えのない虚無。
タロウの背中を見つめる真夜の表情から、いつもの生意気な笑みが消えていた。
タロウが背負ったものの重さが、言葉を奪っていた。
暗闇の中、タロウは静かに歩き出す。
己の選択の重みを、その身に刻みつけたままで――。
泥と絶望に塗れた復讐の果て。
重い足取りで潜伏先に辿り着いたタロウは、静かにドアを開けた。
室内には、朝日の姿があった。
「あ……おかえりなさい、お兄ちゃん」
「あ!ただいま~。朝日ちゃん!」
部屋の入り口にいた朝日は、タロウの姿を見るなりぱっと顔を輝かせ、トントンと小走りで駆け寄ってくる。
そんな朝日に対し、真夜が腕を組みながら浮遊しながら聞こえぬ返事を返していた。
ボロボロの衣服。疲れ果て、どこか虚無を宿したタロウの瞳。
普通なら恐れをなすか、取り乱して理由を問い詰めるような異様な雰囲気が、今のタロウには漂っていた。
「なぜ、ここに?」
短く質問をするタロウだが、先刻までの明るい表情から一転、朝日は気まずそうに、視線を落とした。
「あ、えっと、勝手に入っちゃってごめんなさい。また、お弁当持ってきたんだけど、
あの……チャイム押しても出なくて、でもカギが開いてたからその……つい入っちゃってごめんなさい!!」
ぺこりと深く頭を下げる朝日に、真夜がケケッと意地悪く笑う。
「い~のい~の! 朝日ちゃんなら年中無休でフリーパスだから! 遠慮なくこのざこお兄ちゃんのゴミ部屋を占領しちゃってね~!」
「……ああ。構わない。気にするな」
「ほんと……? うんっ!」
タロウに静かに許されたことが心底嬉しい様子で、朝日はぱっと満面の笑みを浮かべた。
それから朝日は、今日あった出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
施設での思い出、今日買ったお惣菜のこと、近所の野良猫のこと、そのたびに真夜が面白おかしく合いの手を入れる。
何の変哲もない、ごく普通の日常の会話。
タロウは壁に背を預けたまま、ぼうぜんとその光景を見つめていた。
(……失ったモノばかりだと、思っていた)
「……お兄ちゃん。温かいお茶、淹れるね」
「(……確かに一度、全てを失った、あの日々は二度と戻らない。
この手は返り血で汚れ、犯した罪も決して消えることはない。
……けれど。この旅路の中で、俺は確かな……新しい繋がりも得ていたのか)」
「……ああ。頼む」
「あれ? なんか今日のざこお兄ちゃん、素直じゃん~?
タロウの口から漏れた、久しぶりの温もりを帯びた声。
それを聞き逃さなかった真夜が、ニシシと悪戯っぽく笑いながらタロウの頭上をくるくると飛び回る。
「うんっ!……えへ~!」
朝日は弾けたような満面の笑みを咲かせると、嬉しさを隠しきれない様子でパタパタとお茶の準備へと向かった。
視界を覆っていた暗雲が、晴れていく。
復讐のむなしさを超えて、タロウは初めて「未来」へ向かうための最初の一歩を踏み出したのだった――。
朝日が淹れてくれた温かいお茶の余韻。
彼女の小さく温かな背中に見送り、潜伏先を後にしたタロウは、あてもなく歩いていた。
薄暗い路地裏。夕闇が街を黒く塗りつぶしていく。
頭上では、真夜が退屈そうに指先で自身の髪を弄くりながら、宙を揺らめいていた。
「な〜に黄昏れてんの?ざこお兄ちゃん。アンニュイなキブンってヤツ~。にあわな~い、ぷぷ~」
「……」
真夜がいつもの軽口をたたくが、取り合わずにタロウの足はただなんとなく勝手に進んでいく。
「……ちょっと~!いったい、どこまで行くのよ~、オマケに無視までするなんて~生意気じゃん」
タロウはただ何も言わず、歩いていった。