住宅街の片隅。街灯の光が、立派な家屋を映し出していた。
住む者がいないはずなのに、手入れの行き届いた庭。雑草一本生えておらず、表札にも風雨の汚れは見当たらない。
事件以来、誰も足を踏み入れていないはずのその場所は、静まり返っていた。
タロウは門の前で立ち止まり、あたりを見渡した。
「なぜ?こんなにも……何も変わっていない?」
「確かにキレ~だね。で?、ココ何処?誰の家?……それより知ってる~?知らない人の家ってね~、勝手に入っちゃダメなんだよ~。ぷぷ~」
真夜がニシシと意地悪く笑うが、その浮遊する瞳はタロウの横顔を見つめている。
そんな邸宅を眺めいたタロウに、犬を散歩中の老人が声をかけて来た。
「あんた、この家の関係者かなんかかい?」
「いや、そうではないが、人の住んでる気配がないのに、やけにキレイなのが気になってな……」
合点がいった老人は得意げに語り始めた。
「ああ……そいつはな、ここな10年くらい前までは住んでる人がいたんだけどな、ホラ例の捕まったあの人、その人の知り合いって人が買ったらしいんだよ」
「知り合い……」
「誰かまではしらないけどね」とだけ言って老人は散歩に戻っていった。
そして邸宅に向き直ったタロウは。静かに門へと近づいた。
ガチャッ。
施錠されているはずの扉は、なぜか抵抗なく開いた。
足を踏み入れた瞬間、肌に感じたのは昔と同じ懐かしさだった。
靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下を進む。
手垢一つ付いていないドアノブを回し、居間へと入る。
部屋の中は、あの日から時間が止まっていた。
それでも壁の柱時計だけは、静かに時を刻み続けている。
テーブルの上には、埃一つおちておらず、記憶のままであった。
「ふわぁ、だれかが定期的に掃除にでもきてるのかな~。いつも使ってるボロ拠点よりキレイじゃん~」
真夜がすーっと部屋の中を泳ぎ、あたりを見渡していた。
ギシ……と足音を立てて、タロウはかつての自分の部屋へと足を踏み入れた。
タロウが歩み寄った、机の上にはいくつか木製フォトフレームが立ててあり、その内の一つを手にとった。
指先で拭うと、ガラスの向こうから、眩しいほどの斜光が浮き上がる。
写真の中に写っていたのは、三人の若者だった。
真ん中では、まだ幼さを残した、若き日の「一郎」。
その隣で、自信ありげに口元を緩め一郎の肩に腕を回している男――「真一」。
そして、二人の間で太陽のような笑顔を咲かせている少女――「光《ひかり》」。
三人は制服姿で、夕日に染まる学校の屋上で、レンズに向かって弾けるような笑顔を向けていた。
「これって……え!?ここってあんたの家!?え~なんで言わないの~!ざこ潜入じゃなかったの~!」
真夜が天井からすーっと降りてきて、タロウの肩越しに写真を覗き込みながら驚いていた。
「これ、アンタとあの時の『怖い人』でしょ?で……。あたしほどじゃないけど、この可愛い女の子は?」
「……光だ。俺と真一の幼なじみで亡くなった、いや殺された……そして、俺の妻だった」
タロウの声から、ただ懐かしむような、切ない響きだけが部屋を満たしていく。
「ふ〜ん……。」
タロウは写真を見つめ、ゆっくりと瞼を閉じると。
「あの日々」が、鮮やかな色を取り戻して溢れ出していく――。
――一郎くん!真一くん!も早く来ないと置いてっちゃうよ!
茜色に染まる土手沿いの道。
ランドセルを揺らしながら振り返り、元気に手を振る少女・光。
――待てって光! 一郎の奴が駄菓子屋でクジ外して泣きついてんだよ!
――いや、泣いてないよ!泣きそうなのは真一だったでしょ!
まっすぐな目をした少年・一郎と、裕福でどこか大人びていた真一。
二人がいがみ合いながらも笑い合って光の元へ駆け寄っていく。
季節が巡り、制服のサイズが大きくなっても、三人の距離は変わらなかった。
試験前の図書室で、教え合いながらいつの間にかお菓子を食べて怒られたこと。
夏の日の放課後、棒アイスを賭けて本気で校庭を走り回ったこと。
文化祭の準備で遅くなり、誰もいない教室で三人で将来の夢を語り明かしたこと。
裕福で何でも持っていた真一は、いつも頼もしく、だけど真っ直ぐに一郎を「親友」と呼んでくれた。
光は二人の間を笑って取り持ち、いつも優しく二人を見守ってくれていた。
一郎にとって、二人との時間は、かけがえのない宝物だった。
――僕たち、大人になってもずっとこうやってバカやってるのかな。
――当たり前だろ!光と一郎がバカやって困った時は、オレが助けてやるよ!
――えへへ、真一くんはカッコつけすぎだって!
――なんだとー!
夕暮れの屋上。三人の笑い声が、どこまでも高く青い空に響き渡っていた。
あの笑顔に、嘘はなかったはず。
あの友情に、偽りはなかったはず。
あの頃の三人は、間違いなく、大切に思っていたはずだった。
「…………」
タロウは静かに目を開けた。
「ねえ、タロウはさ。あんな惨いことされたのに……まだそんな顔するんだ?」
真夜が、珍しく茶化すようなトーンを捨て、静かな瞳でタロウを見つめていた。
「……ああ」
タロウは写真の中の、かつて誇らしげに笑っていた真一の顔を見つめた。
「あいつがしたことを、許すつもりはないさ」
声がかすかに震える。
「……けれど、あいつと過ごした時間まで全部が嘘だったわけじゃない。私たちは……あの頃、本当に楽しかったんだよ」
憎しみだけで塗りつぶすには、あまりにも眩しすぎる青春の記憶。
タロウは手を伸ばし、ゆっくりと一枚の写真を抜き取った。
夕暮れの屋上で、笑い合う三人の写真。
折れないように丁寧に折りたたみ、ジャケットの内ポケットへと静かに収める。
「ふ〜ん……。持ってくんだ?」
部屋の隅から真夜が顔を出し、不思議そうに首をかしげる。
「思い出にすがりたくなったの?それとも―――」
「……どっちでもない」
いつもの顔に戻りタロウは、ポケットの上から、そっと掌でその感触を確かめた。
「思い出にするつもりはない」
「じゃあ、なんのために?」
「……『田中一郎』が生きていた証だ」
タロウの声には、どこか静かで揺るぎない芯が通っていた。
「過去をなかったことにはしない。あの絶望も、復讐も、そして……
あいつらと笑い合っていたあの時間も。全部抱えて、俺は俺として最後まで行く」
「……ふ~ん。メンドくさいね」
真夜は呆れたように肩をすくめたが、その唇の端にはかすかに満足そうな笑みが浮かんでいた。
「でも、嫌いじゃないよ?あたしはざこお兄ちゃんについていくだけだし~にししっ」
ギシ……と音を立てて生家の玄関を後にする。
鍵を閉める音。それは、過去を閉ざすためではなく、その記憶を胸に刻むための音だった。