夜の街を歩くタロウ。
街灯の光が途切れるたび、ジャケットの内ポケットにある写真へ、無意識に指先が触れる。
「……そうだな。もう一度、向き合おう」
タロウは足を止め、暗闇の向こうを見つめた。
――ピシッ、ピシッ。
空に一本の亀裂が入る。それが合図だったかのように、パキーンとガラスの割れるような甲高い音が、澄み渡る空へ不気味に響き渡った。
「……ッ!?」
タロウが立ち止まると、空間のあちこちに目に見えない「ヒビ」が入っているかのような違和感が走るが、
だが、すれ違う通行人たちは何事もないかのようにそのまま歩き去っていく。
「今……なにか?」
「なに!? なに!? なにが起きたの!? ざ、ざこお兄ちゃん、なんかした!? あ、あたしを驚かせようったって、そうはいかないんだからね!」
状況が理解できず動揺した真夜が、タロウの耳元で金切り声を上げた。
「俺じゃない……それより、この街の空気が変わったような気がする」
「な~にが『空気が変わった気がする』よ! ざこざこのくせに気取っちゃって、カッコ悪~い~ぷぷ~……
え!? ちょ!? 待って!!? そ、その右手は……ぎゃああーっ! 痛い! 痛い痛い! ごめんなさい~!」
調子を取り戻してタロウの口真似で煽り倒した真夜だったが、次の瞬間、容赦のないタロウのアイアンクローが頭を捉えていた。
両手で頭を抱え、涙目になりながら真夜が不満げに尋ねる。
「う〜……頭が割れるかと思った……。で? これからどうするの? 会いに行くんでしょ?」
「ああ。だが以前は、いくら探しても真一の居場所は見つけられなかった」
「それなんだけどさ。さっき『割れる音』がしたじゃん? なんか関係ないかな~?」
真夜の指摘に、タロウは顎に手を当てて思考を巡らせた。
「言われてみれば……あの瞬間に空を見上げていたのは、俺たちだけだったな」
「じゃあ?」
「違和感の中心点へ向かおう。おそらく、そこにいる」
タロウは静かに頷くと、内ポケットにある写真の感触をそっと掌で確かめ、歩き出した。
街の違和感が最も色濃く渦巻く中心地点。
そこに広がっていたのは、温かな夕空の広がる住宅街だった。
街角の小さな一軒家。庭には色とりどりの花が咲き、柔らかな陽光が家全体を優しく包み込んでいる。
タロウと真夜が窓越しにそっと室内を覗き込むと、そこには息をのむような光景が広がっていた。
「……!」
そこにいたのは、穏やかな笑顔で食卓につく男――黒田真一だった。
そして、その隣で味噌汁をよそい、愛おしそうに真一へ微笑みかけているのは名も知れぬ女性。
二人はごく普通の、どこにでもある幸せな夫婦として、仲睦まじく言葉を交わしている。
そこへリビングの扉が開き、幼い女の子がパタパタと駆け寄ってきた。
女の子が目の前で前のめりに転びそうになった瞬間、真一は咄嗟に腰を落とし、両手でその小さな身体をそっと優しく受け止めた。
食卓を囲む、温かな三人家族の姿。
真一が何か冗談を言ったのか、女性は小さく困ったように微笑むと、右手を差し伸べ、乱れた髪をそっと耳へと掛けた。
「!!」
その光景を突きつけられたタロウは、深く握りしめた拳から血が滴り落ちていることにも気づかず、ただその部屋を凝視し続けていた。
「タ、タロウ……血、出てるよ……手、緩めなきゃ……!」
うろたえた真夜が声をかけるが、ある一つの残酷な真実に辿り着いたタロウの耳には、もう何も届いていなかった。
「真一……そうか。お前の望みは、それだったのか……思い出したよ」
低く静かな声が、タロウの唇から漏れ出す。
「昔、一度だけ溢したことがあったな……『お前が羨ましい』と。あれは、こういう意味だったんだな」
タロウは拳から血を滴らせたまま、静かに背を向けて歩き出した。
訳が分からぬまま、真夜が慌ててその後ろを追いかける。
「……えっと、いいの? 会わなくていいの? そのためにここまで来たんじゃないの!?」
「ああ。分かったからな。……真一とは、決して相容れることはない」
恐る恐る尋ねる真夜に、タロウは振り返ることもなく淡々と答えた。
「どうしてさ!? さっきの光景だけじゃ、なんにも分かんないじゃん! 単なる仲良し家族にしか見えなかったよ!?」
真夜の叫びに、タロウは足を止めて振り返った。
だが、その視線の先は真夜ではなく――遙か後ろにある、あの幸せに満ちた一軒家へ向けられていた。
「真一が真に望み、欲しかったのは……『田中一郎の人生』だ」
タロウはジャケットの内ポケットの写真に、そっと触れた。
そこには、かつて太陽の下で輝いていた三人の笑顔がある。
あの眩しかった時間は、二度と戻らない。
第13話 END