あの歪んだ光景を目撃してから、数日が経過していた。
タロウは真一の生い立ちや過去の交友関係、彼が現在の地位に上り詰めるまでの足跡を徹底的に洗い直していた。
しかし――調べれば調べるほど、奇妙な壁にぶち当たることになる。
「……おかしい」
薄暗い潜伏先で、タロウは集めたメモや資料をテーブルに広げ、深く眉間をよせた。
真一が経営していた会社の関係者、学生時代の知人、事業パートナー――。
誰もが黒田真一のビジネスセンスや財力は語る。
だが、少年時代を知る者は誰一人いなかった。
まるで、ある日突然、莫大な富とスキルを持って世界に現れたかのように。
「はぁ〜あ。まだやってんの?もう何日も同じことばっかじゃん、ざこ探偵ちゃん」
真夜が退屈そうに天井を泳ぎながら、タロウの頭の上でクルクルと回転する。
そして真夜はあくびを噛み殺しながら、ある言葉を漏らした。
「こんなに必死に探してもみ〜んな誰も知らないなんてさ……あいつ、ホントはどっから湧いて出てきたわけ?」
「……!」
真夜の何気ない一言に、タロウの脳裏へ雷光が走った。
「そうか……『どこから来たのか』……!」
「え? なに? 何が?」
タロウは立ち上がり、記憶を呼び起こした。
昔、学生時代に一度だけ、真一が不機嫌そうに零した言葉。
『親? いるにはいるが……関わるだけ無駄だ。あんな血も涙もないヤツラ。反吐が出る』
「真一の両親だ……。理由は聞けなかったが、あいつは実家や両親の話を極端に嫌がっていた」
「へえ。お金持ち特有の、家庭の事情ってやつじゃん!」
「……まともな手掛かりがない以上、ダメ元で当たってみる価値はある。
あいつのことを知る者がいるとすれば、その両親しかいない」
タロウはすぐに警察のデータベースや古い報道記事へアクセスし、黒田家の戸籍や住所情報を辿った。
だが、検索結果の画面に映し出された新聞記事の見出しを見て、タロウは息を飲んだ。
『【未解決事件】十年前、閑静な住宅街で男性刺殺――容疑者は今も逃走中』
「これは……」
記事に記載された被害者の名は、黒田真一の父親だった。
十年前、夜間の路上で通り魔に襲われ絶命。事件は未解決のまま時効の闇へと消えかけていた。
「父親は……十年前に殺されていたのか」
「……マジ? じゃあ、お父さんにはもう話を聞けないじゃん……あれ?じゃあ母親は?」
真夜が顔をしかめる。
真一の両親の仲が冷え切っていたこと、そして父親の不慮の死。
「母親の居場所は……事件の後、心身ともに疲弊……真一の実家で療養中、か……」
「ねえ、ざこお兄ちゃん。これからどうすんの? 父親は死んで母親も疲弊ってんじゃ。完全に行き止まりじゃん」
「……いや。まだだ」
タロウはジャケットを羽織り、鋭い瞳で扉を見つめた。
「父親が殺害された事件現場――つまり、かつて真一が育った『生家』が残っているはずだ」
「え〜っ、また屋敷探訪? 今度は他人の家じゃん」
一縷の望みをかけ、タロウと真夜は十年前の惨劇の舞台へと向かうのだった。
静寂が支配する黒田邸。
庭の手入れが行き届いた重厚な日本家屋の廊下を、タロウと真夜は足音を殺して進んでいた。
今もここには真一の母親が暮らしており、訪れる者といえば定期的にやってくるケアマネージャーくらいだという。世間の喧騒から切り離されたかのような、奇妙な静けさが漂っていた。
「……ここだな」
「う~、なんかすっごく静か……。おばあさんと介護の人しか来ない家って聞いてたけど、ホントに人の気配がないね」
真夜が声を潜めてタロウの肩越しに周囲を伺う。
10年前――通り魔事件として処理されていた、黒田真一の父親の死。
だがタロウの予想では、あまりにも凄惨なものだった。
父親を殺したのは、他ならぬ息子の黒田真一。
タロウの中では、その可能性が最も高かった。
おそらく、真一は知っているのだろう、契約者の弱点を、
つまり真一の『真実を知る者』とは父親。そしてそれを無くす為、実の父親を手にかけていたのだ。
「誰も真一の過去を知らないわけだ……。知る者は最初から、この世のどこにも残されていなかった」
タロウが苦く呟いた、その時だった。
――ヒュッ……。
廊下の隙間から冷たい風が吹き抜け、陰になった部屋の隅に、青白く揺らめく影が静かに立ち現れる。
「……!? ざ、ざこお兄ちゃん! なんか出てきたーっ!?」
真夜が反射的にタロウの背中に隠れて叫ぶ。
そこに佇んでいたのは、半透明の姿をした初老の男性――黒田真一の父親の「幽霊」だった。
学生時代に数えるほどしか見かけていなかったが、確かにあの頃の面影はあった。
「……おじさん……」
真実を抱えたまま、もしくは残された家族を見守るようにこの屋敷で10年もの間漂い続けていたのだろうか。
だが、その姿はあまりにも希薄で、今にも空気の中に溶けて消えてしまいそうだった。
「待ってください! あなたに訊きたいことがあります!真一の真実を知るのはあなたなんですか?」
タロウは焦燥を露わにして問いかけ、精神世界を開こうと手を伸ばす。
しかし――
父親の幽霊は、声も出せないかすかな口動きで、何かを伝えようとしている。
その哀しげで、同時に深い悔恨を孕んだ瞳が、じっとタロウを見つめていた。
「頼む……消えないでくれ……!」
祈るようなタロウの叫び。
しかし、時間は容赦なく訪れる。
父親の身体が足元から光の粒子となって、サラサラと解けていく。
消滅の最後の刹那――父親の幽霊は、震える細い腕をゆっくりと上げた。
指し示したのは、部屋の壁際に置かれた立派な書棚だった。
「……書棚……?」
父親の幽霊は、最後に穏やかな微笑みを残し、完全にこの世界から消滅した。
再び、静寂な部屋に戻る。
「……消えちゃったね……」
「……ああ。だが、最後の手掛かりを残していってくれた」
タロウは固く拳を握りしめると、指し示した重厚な書棚へと静かに歩みを進めた――。