美代のヒステリックな絶叫と美子の冷淡な嘲笑が波の音に消えていく中、
真一がゆっくりと歩き出した。
その歩調は優雅で、まるで自らが作り上げた最高傑作の彫刻を鑑賞する芸術家のようだった。
「美代との再婚を勧めたのは……」
真一は、懐中電灯の光を自分の靴先に向けながら、穏やかに語り始める。
「ゲームだった」
少しだけ間を置き、真一は楽しげに肩を揺らした。
「期間内にお前を落とせたら、美代には賞金。
……落とせなかったら、美代は一生俺の言うことを聞く駒になる。
そういうゲームさ」
真一は低く笑った。
「そして、タイムオーバーだ。
お前が頑なに亡き妻の面影を引きずっているせいでね。
だから、お前の部屋に機密漏洩の『証拠』を置いた。もうゲームは終わりだからな」
真一はゆっくりと歩を進める。
その表情は、少しずつ狂気を帯びて熱を帯び始めていく。
「美子は……フフッ、あの子は傑作だよ。
幼少期に俺と美代のゲームの存在に気づき、なんと自らゲームに参戦してきた。
そして『良い娘』の仮面を被り、お前を一番近くで監視し、こちらの都合の良い方へと少しずつ誘導してくれたのさ」
一歩、また一歩。
「会社の後輩……清太だったか? あいつには金を渡した。
お前のスケジュールや会社のアクセスログを改ざんするためにね。
……いやぁ、あいつは思った以上に安い男だったな」
フッと短く笑い、真一はついに地面に這いつくばる一郎の目の前で、静かにしゃがみ込んだ。
一郎の傷だらけの顔を見つめ、声を落とす。
「……だが、この完璧な計画における、一番の『失敗』は何だったか分かるか?」
十分な間を置いて、真一の瞳の奥に、昏い炎が燃え上がった。
「あの日だ」
心臓が跳ね上がる。一郎の視界が恐怖で激しく歪む。あの日――。
「光《ひかり》と朝陽《あさひ》の、あの事故だよ」
真一の口から、かつて愛した前妻と幼い娘の名前が滑り落ちる。
「あれは俺が仕組んだ。
車に細工をしてね。本当は、お前もあの時、あの場所で綺麗に死ぬ予定だったんだ」
少しだけ、本当に残念そうに眉を下げて笑う。
「でも、お前だけ奇跡的に生き残ってしまった。
だから計画を変えたんだよ。死なせるよりも、生かした方がもっと絶望できると思ってな」
ゆっくりと、真一が立ち上がる。
その背後に広がる夜の闇が、まるで彼の影そのものであるかのように肥大化していく。
真一の声は、もはや冷静さを失い、震えていた。
「全部、俺の計画だったんだよ。お前の最愛の家族の死も、冤罪も、再婚も、この無人島での処分も……全部、全部な! 一郎!」
「……はは。」
「ひひっ……」
「ヒャーハハハハハハハッ!!」
――あの日から、全てが始まった。
光と朝陽が死んだ、あの血塗られたあの日から。
自分が信じていた世界は、最初から存在しなかった。
「あああああああああああ!!!!」
地面に這いつくばる一郎の輪郭が、激しく小刻みに震え始める。
その顔がゆっくりと持ち上がった瞬間、真一は歓喜に息を呑んだ。
そこにいたのは、かつての温厚で、お節介で、
人を信じることしか知らなかった田中一郎ではなかった。
「許さない……!!」
喉をかきむしるような、獣の咆哮。
「お前だけは……!! 絶対に、殺してやる……!!」
右膝から流れる血も、絶望も、全てが真一への殺意へと変換されていく。
怒りで歯の根がガチガチと鳴る。
そんな一郎の豹変を目の当たりにして、真一は陶酔したように身震いした。
「ひひひっ……」
真一の口から、歪んだ歓喜の笑みが漏れる。
「いい目だ。本当、いい目だな、一郎! お前がそんな目をするなんてなぁ!」
真一は髪を掻き毟り、狂ったようにステップを踏むようにして後退した。
その瞳は、おもちゃを手に入れた子供のように輝いている。
「やっとこっちへ堕ちてきた! お前も、俺と同じだ……!」
「あは……」
真一の笑い声が、夜の海岸に響き渡る。
「あはは!」
感情の高揚が限界を突破し、
「あひゃひゃひゃひゃはははは!!!」
狂った笑い声を夜空にぶちまけながら、真一は再び、一郎の頭へと銃口を真っ直ぐに突きつけた。
一切の躊躇なく、冷たい引き金が引き絞られる。
――パン!!!
暗闇を切り裂く閃光。
弾け飛ぶ硝煙。
波の音が、全てを飲み込むようにザザァと高く弾けた。
******
何もない。
音もない。
光もない。
ただ、どこまでも底の知れない、無限の暗闇だけが広がっている。
生と死の境界線。田中一郎の意識は、底のない深淵へと沈んでいた。
……その絶対的な静寂を破るように、どこからともなく、微かな「声」が聞こえ始めた。
最初は、一つ。
やがて、二つ、三つ。
それは瞬く間に、数え切れないほどの無数の奔流となって暗闇を埋め尽くしていく。
男の怒号。女の悲鳴。老人のすすり泣き。子供の絶望。
裏切られた者の後悔。奪われた者の恨み。
世界中で理不尽に踏みにじられ、誰にも届かず消えていった様々な負の感情が、黒い霧のように暗闇を満たしていく。
その混沌のまさに中心に、一郎はぽつりと立っていた。
俯いたまま、頭部からどくどくと鮮血を流した、無惨な死に体の姿で。
しかし、その唇だけが、呪いのように微かに動いていた。
「殺してやる……」
「殺してやる……」
「お前たちだけは、絶対に、殺してやる……」
「しんいち―――!!!」
何度も。何度も。壊れた機械のように、暗闇に響かせる。
すると、狂気のように渦巻いていた無数の声が、ピタリと止んだ。
暗闇の亡者たちが、一斉に一郎を見つめる。
まるで、その底知れない漆黒の憎悪に、磁石のように惹きつけられたかのように。
一つ。また一つ。
冷たい魂の輪郭が、吸い寄せられるように一郎へと近づき、触れる。
触れた瞬間――。
一郎の脳内に、彼らの凄惨な『人生』が、津波となって雪崩れ込んできた。
親友に裏切られ、財産を全て奪われた者の絶望。
愛する者に毒を盛られ、泣きながら死んでいった者の無念。
権力者に踏みにじられ、無実の罪で首を吊った者の恨み。
縁者に陥れられ、自死へ追い込まれた者の嘆き。
無数の人生。無数の絶望。無数の怨念。
「あ……あああああああああっ!!!」
魂が引き裂かれるような激痛と狂気に、一郎は膝をつき、頭を抱えて絶叫した。
精神が崩壊して霧散するほどの業の濁流。
それでも――一郎はそのすべてを拒まなかった。
「ああ……そうだよな、悔しかったよな……憎いに決まってる……
お前たちの想い、よくわかる……俺もそうだ……だから……」
一郎は、ゆっくりと顔を上げた。
頭から血を流すその瞳には、かつての優しさなど、微塵も残されてはいなかった。
代わりに燃え盛っているのは、ただ一つの「憎悪」。
一郎は深淵の底から、全霊の咆哮を上げた。
「力を貸せ!!」
無数の魂たちが周りを取り囲み。
「そうすれば――お前たちの無念!この俺が、全て果たしてやる!!」
その誓いに応えるように、暗闇にうごめく無数の魂が、
一郎の身体へと猛烈に吸い込まれていった。
両腕に、胸に、瞳に、地を這う影に。
彼の存在のすべてが、漆黒の怨念で染め上げられていく。
……やがて、完全な静寂が戻った。
ざり、と乾いた音がして。
ゆっくりと、一郎が立ち上がる。
もう、そこにいるのは、お人好しな人間・田中一郎ではない。
――『怨念の集合体』。
その真新しき怪物が、暗闇の中で、静かに復讐の目を開いた。
第2章 絶望 END