――闇。光の一片すら届かない、底知れぬ暗闇。
かつて一郎と呼ばれた魂は、無数の怨念と混ざり合っていた。
世界中で消えていった、無念の魂たち。
それらを取り込み、彼は一つの存在へと変貌していく。
かつての「田中一郎」の意識は、膨大な恨みの濁流に飲み込まれ、
復讐者として再構築されていく。
「しんいち、許しはしない……」
「必ず、必ず……」
その時、まだ混ざりきっていない魂がささやき始めた。
『肉体、肉体がいる……』
『現世……干渉』
『魂が……完全に離れていない体……」
暗闇の底で、まだ輪郭がはっきり残っている一人の青年の意識が、接触してきた。
『頼むがある、俺の身体を自由に使って、かまわない……』
『その代わり……。孤児院のみんなをあの子を、助けて……』
内に宿る無数の群体がざわめく。
「……約束だ」
その言葉を聞き届け、青年の魂は安らかな光となって成仏したのか、
闇の彼方へと消えていく。
次の瞬間、膨大な怨念の群体が、
青年の残された肉体へと一気に流れ込み体に残されたわずかな記憶も再生された。
青年は孤児院出身だった。
裏の秘密を知ってしまい、誰にも知られずに殺害されたばかりの若い命。
激しい拒絶反応。
しかし、怨霊の力なのか、青年の肉体を内側から強制的に作り替えていく。
骨格が軋み、細胞が変質し、髪や肌の質感が変わる。
凶悪な性質に引っ張られ、鋭く、ひどく暴力的な雰囲気をまとった人へと、姿を変えていく。
そして――その双眸が開かれた。
冷たい雨が、打ち捨てられたゴミと瓦礫の散らばる薄暗い路地裏を濡らしていた。
そこは人目につかない都会の死角であり、青年の肉体が事切れていた最期の場所だった。
「は、……っ、……あ」
喉の奥から、乾いた掠れた呼吸が漏れ出る。
男は、まるで初めて人間の肉体を手に入れた獣のように、ゆっくりと、しかし確実な力強さで泥に塗れた地面から立ち上がった。
ずっ、と己の手を見つめる。
白く、しなやかで若い。だが、その皮膚のすぐ下を、黒い怨霊の影が蠢いては消える。
己の頭に手を当て、周囲を見回した。
「……ここは」
路地の隙間から見える大通りの景色は、かつての彼、その記憶にある世界から、
奇妙に変貌していた。
街頭のサイネージはより鮮明に、かつて見たこともないほど薄く、
滑らかな立体映像を映し出している。
時間の流れが、脳内に濁流となって押し寄せた。
その事実が、脳内を刺激する。
ドクドクと血管が波打ち、無数の「声」が頭の中で狂い叫んでいるようだった。
「ぐ、あ、ああっ……!」
激しい頭痛に、こめかみを強く押さえた。
あまりに膨大で凄まじい怨念の質量と、憑依した肉体の拒絶反応。
さまざまな要素が混ざり合い、意識の中で記憶が激しく混濁していく。
自分が誰なのか、何をすればいいのか、霧の彼方に霞む。
だが、混濁する泥水のような意識の底で、「最期の約束」だけがあった。
「……約束」
掠れた声で呟く。
「……孤児院」
「孤児院のみんなを助けてほしい」
ただそのことだけが、彼の足を一歩、前に踏み出させた。
「まず……向かうのは、そこだ」
~~~~~~
街の喧騒から外れた、古びた孤児院の近く。
男の足は、約束という言葉に引き寄せられるように、その場所へと辿り着いていた。
しかし、静まり返った施設周辺の不穏な空気が、鋭敏になった男の感覚を刺激する。
「嫌だ! 離して!離してよ!!」
「黙れ!いいからさっさとこい!」
「暴れるな!おい!」
鋭い少女の悲鳴が静寂を切り裂いた。
見ると、施設の裏口から、肩口で切り揃えた栗色の髪に、大きな瞳が印象的な十代前半の少女が、施設職員らしき男たちに強引に腕を掴まれ黒塗りのワンボックスカーへと連行されそうになっていた。
あからさまに様子がおかしい。
職員たちの目は、少女を「人間」として見ていなかった。
「誰か……! 誰か、お願い!」
少女の必死の叫びが響く。
男は立ち止まり、その光景を冷ややかに見つめた。
身体の底から、記憶が、激しい濁流となってせり上がってくる。
『この施設は、裏で人身売買を行っている』
男の冷徹な双眸が、少女たちを捉えた。
同時に、必死に抵抗していた少女もまた、路地の影に立つ男の姿に気づき、その視線が交差する。
「!?助け……て?」
「……え? お兄ちゃん……? ううん、違う……でも、その目……」
少女の動きが、一瞬だけ止まる。
恐怖に怯えていたその瞳に、奇妙な戸惑いが浮かぶ。
「……でも、お兄ちゃんは……死んだ、はず……」
少女は確かな既視感を覚えていた。
その横で職員たちが、「おい!見られたぞ、どうする?」「いつも通りに消せばいいさ」と話していた。
職員たちがそれぞれナイフを持ち、一斉に男へと向かうが。
「邪魔だ……」
男の腕の一振りで全員が吹き飛ばされた。
「顔は全然違う……。なのに、どうしてお兄ちゃんに見えたんだろう……?」
自由になった少女が呆然と呟く。
その瞬間、男の脳内で、群体がざわめいた。
「お兄ちゃん」という言葉に、青年の残留思念が激しく鳴り響く。
「オレは……」
男は割れるような頭痛にこめかみを押さえ、掠れた低い声で自らの名を絞り出そうとしたが。
「オレは……た……ろ……う……」
「タロウさん? ……でいいの?……やっぱり……お兄ちゃんじゃないんだ……
あ、あの……ボク明日葉朝日《あしたばあさひ》です。
あの、助けてくれてありがとうございます」
その名を聞いたとき、奪われて失った、
実の娘と同じ名の響きが、魂の奥深くを激しく引っ掻いた。
激しい耳鳴り。混濁する脳。
「タロウさん?……どうしたんですか?……あ!?どこいくの?」
戸惑いながらも、その名を呼ぶ朝日の声。
あまりの記憶の混乱に耐えかねる。
だが、「孤児院を救う」という約束だけは揺るがなかった。
タロウは朝日たちを置き、施設の奥へと歩き出した。