街中をあてもなく歩き回っていたタロウの耳に、間の抜けた声が届いた。
「みーっけ」
声と同時に、タロウの身体へ何かが強引に入り込んでくる。
――だが次の瞬間。
「え!?……ちょ、なにこれぇ!!? 何人いるのよ、ここ!?
ぎゃああ……つ、潰されるぅ……っ!」
タロウの体内から悲鳴が響いたかと思うと、弾かれるようにして「何か」が飛び出してきた。
「き、消えちゃうかと思ったじゃん……っ! なにあの密室密度! 最悪!」
怒りも露わにそこに現れたのは、金色がかった茶色のショートボブに、
ぴょこんと一本だけ跳ねたアホ毛が揺れる少女の幽霊だった。
宙にふわふわと浮かびながら、涙目でタロウを睨みつけている。
「なんだ……お前は?」
「あ〜もう! ざこお兄ちゃんのくせに生意気な中身してんじゃないわよ!
謝ってよね!」
初対面――それも、勝手に取り憑こうとしてきた幽霊からの理不尽な要求に、タロウは冷淡に問い返す。
「……なぜ俺が?」
すると少女の幽霊は、逆ギレ気味にまくしたてた。
「あんたの中に入ったら、すり潰されそうになったからに決まってるでしょーが!
こっちは消滅しかけたんだからね!? 慰謝料よ、慰謝料!」
「わからん。なぜ勝手に入ってきた奴に、俺が謝罪せねばならない。
……そもそも、なぜ俺に入ろうとした」
「そんなの決まってるでしょ? 私だって器が欲しいの! あんただって、
他の奴から“それ”を奪い取ったんでしょ? ざこのくせにさぁ!」
少女の言葉を聞いた瞬間、タロウの瞳から感情が消えた。
「よく分かった。……お前は、敵だ」
刹那、タロウの身体から禍々しい怨霊の気が噴き出す。
彼は電光石火の速さで手を伸ばし、少女の幽霊の首を容赦なく掴み上げた。
「ぐっ!? く、苦しい……ちょ、離し……なさ、い……っ」
「消えろ」
指先にじわりと力を込め、そのまま握り潰そうとした時――。
「ひぐっ……!? ご、ごめんなさ……っ、待って、悪かったからぁ……っ!
ざこって言ってごめんなさいぃ! やだ、消えたくないぃ……っ」
幽霊は完全に怯え、グズグズと涙を流して命乞いを始めた。
プライドも忘れて必死に謝る姿は、先ほどまでの生意気さが嘘のように哀れだった。
そのあまりの弱々しさに興が削がれたタロウは、乱暴に手を離す。
「失せろ」
冷たく一言だけ言い残すと、タロウは怯える幽霊に目もくれず、踵を返して歩き出した。
――『昨夜、市内の児童養護施設において、大規模な人身売買および臓器密売を行っていた犯罪組織が摘発されました。現場からは多数の遺体が発見されており、警察は猟奇殺人の可能性も視野に入れ――』
巨大な街頭ビジョンから流れるニュースキャスターの声が、
雨上がりの冷たいアスファルトに響き渡っていた。
立ち止まり、その映像を見上げる群衆。その雑踏の中に、タロウがいた。
タロウのハッキングによって、深夜のうちに主要メディアと警察へ送られた内部告発データ。
それは狙い通り、日本中を揺るがす大スキャンダルとなって爆発していた。
ビジョンには、逮捕された関係者の実名や、顧客リストに名を連ねていた政財界の大物の名前が次々とスクロール表示されていく。
だが、その画面を凝視するタロウの瞳が、不意に細められた。
「……出てこない」
ニュースは一向に、最も重要な『あの男』の名を呼ばない。
裏の巨大スポンサー、下井清太。
あれだけの決定的な証拠を流したのだ。
警察が隠蔽しようにも、すでにメディアにも同時送信している。
一秒で社会的に抹殺されるはずの男の名だけが、削ぎ落とされている。
「(……ただの実業家ごときに、これほどの情報統制ができるはずがない。
何かが動いたと考える方が自然だ)」
そうなると、何が動いたか……という話になるが、皆目見当がつかなかった。
いぶかしみながら、タロウは雑踏の中を歩き出した。
しかし、情報が揉み消されたのなら、直接その首をとればいいだけだ。
殺意を宿したその足が、ふと、高級ホテルのエントランス前で止まる。
黒塗りの高級外車のドアが開いた。
現れたのは、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした、一人の男。
一〇年前と変わらない、端正で穏やかな横顔。
その瞳はどこまでも自信と、知性に満ち溢れている。
黒田真一。
真一は、何食わぬ顔で運転手らしき男と短い言葉を交わすと、そのままホテルのロビーへと優雅に歩いていく。
タロウの口元が、吊り上がった。
「……見つけた」
タロウの瞳に、憎悪が宿る。
自分を地獄に陥れた男が、何食わぬ顔で陽の当たる世界を生きていたのだ。
「真一―――!!」
一般人には感知すらできない漆黒の暴風となり、タロウはロビーへ歩いていく真一の下へと肉薄する。
その硬質化させた爪が、真一の首筋を引き裂こうとした――その瞬間だった。
グにゃり、と視界が歪んだ。
「――っ!?」
気がつけばタロウは一人地面に倒れていた。
何故?自分は真一の首を狙ったはず?なにかをされた形跡はなかった。
「おっと。……どうしました?」
頭上から、聞き覚えのある通る声が降ってくる。
倒れ伏すタロウの前に、真一がゆっくりと歩み寄り、しゃがみ込んだ。
その表情には、昔となんら変わらない、親切で紳士的な顔そのものだった。
「突然転んだりして。……怪我はありませんか?」
真一は、優しくタロウに手を差し伸べる。
突然の大きな音に周囲の一般客たちが口々に囁き合った。
「どうしたんだろう?」
「何あれ……」
「急に倒れ込んだわよ、あの人」
「大丈夫かしら?」
「酔っ払ってるんじゃないの……?」
ただの青年が、何もないロビーで勝手に滑って転び、それを親切な紳士が心配している。
それが周囲の人々の認識だった
再び真一へと襲い掛かろうとした、まさにその瞬間。
タロウの耳に、聞き覚えのある焦燥に満ちた声が飛び込んできた。
「ちょっと! 何してんのよ!? 早く逃げなさいってば!!」
視線を向ければ、そこにいたのは先ほどタロウの身体を奪おうとした、
あの少女の幽霊だった。
「お前は、さっきの……なぜここにいる?」
「そんなの今どうでもいいでしょ! それより、あいつは本当にダメ……!
他の雑魚どもとは格が、全然違うの……!早く逃げなよ……っ!!」
必死の形相で、少女の幽霊は「逃げろ」と何度も、何度も繰り返す。
しかし、タロウの瞳にあるのは昏い執念だけだった。
「あいつが目の前にいるんだ。ここで仕留める」
宿敵を前に血気に逸るタロウ。だがその時、隣の幽霊の声が響き渡った。
「いいから!言うことを聞きなさいってば」
「!?」
タロウの目の前に現れる女幽霊。
「見なさいよ、ざこなあんたでも持ってるでしょ?あたしと同じ霊の眼を」
促されるまま、タロウは真一を、「霊の眼」で凝視した。
「――っ!?」
タロウの眼が捉えたのは、異常な光景だった。
真一の周囲一帯の空間、彼を取り巻く空気そのものが、陽炎のように不自然に揺らいでいた。
それを見て一瞬で冷静になったタロウは、立ち上がりすぐさま踵を返し、その場から逃走を開始した。
突如として走り出したタロウの背後で。
「お気をつけて……」
真一は、手を振りながらこちらに小さく微笑みかけていた。
そうして、真一は何事もなかったかのようにその場に立ち去っていった。