「は、……っ、は、……っ!」
激しく息を乱しながら、タロウは雨上がりの冷たいアスファルトを全力で蹴り、きらびやかなホテルのエントランスから夜の雑踏へと逃れ出た。
何故だ。自分は確かに、真一の首筋へ爪を突き立てようとした。
その手応えに確信すらあった。
それなのに、何かをされた感触すらなく、次の瞬間には自分が冷たい地面に倒れ伏していたのだ。
あまりにも不可解。さらにはあの笑顔――
まるでこちらを歯牙にもかけていないとばかりの態度が、脳裏に焼き付いて離れない。
走るタロウの頭の中に、先ほどと同じ、あの少女の幽霊が直接語りかけてくる。
「言っとくけど、あれは正面からじゃ、ざこのあんたじゃ絶対に勝てないからね……」
「昔、あんたと同じ存在がいたけど、あのチカラを持った奴に挑んで誰も帰ってこなかったんだから……」
「昔? 俺と同じだと?……どういう意味だ?」
「……その人はね、自分のことを『レギオン』って名乗っててさ。あれのことは、『アクマのちから』って呼んでた」
幽霊はどこか、懐かしむような、切ない表情を浮かべながらタロウに語った。
「アクマのちから? なんだそれは?」
「知らないよ! くわしくは教えてくれなかったんだもん」
「あたしが聞いたのはね、『契約者』、『虚構世界』、『精神世界』、
あとは『契約者の見つけ方』の4つだけ。ね、凄いでしょ?」
幽霊は、記憶を辿るように断片的な言葉を次々と紡ぎ出していく。
「それは何なんだ?それに、帰ってこなかったとはどういう意味だ?」
「だから! 知らないって言ってるじゃん!!もう!!」
タロウの素っ気ない態度と質問攻めにこれ以上付き合うのが嫌になったのか、彼女は拗ねたように口を尖らせ、プイとそっぽを向いた。
タロウの頭の中は『アクマのちから』、『契約者』、『虚構世界』、
そして自分と同じという『レギオン』と、わからない事だらけだった。
だが、わからないといえばもう一つ、引っかかることがあった。
タロウは走りながら問いかけた。
「そういえば、お前はなぜあの場にいた?」
「あんたのこと、追いかけてたからに決まってるじゃん?」
あっけらかんと幽霊は答えた。
「あ! そんなことよりさぁ、いつまでも『お前』って呼ばないでよね!!
あたしには『真夜《まや》』ってちゃ~んとした名前があるんだから!
ざこのくせにあたしの名前を呼べるんだから光栄でしょ?」
表情も話題もコロコロと変わる。この幽霊、もとい真夜にこれ以上付き合いきれないと、タロウは無視して歩みを早める。しかし、真夜は当然のように追従してきた。
「……なぜついて来る?」
「は? 面白そうだからに決まってるじゃん。あ! ざこお兄ちゃんが必死に逃げたって、
幽霊のあたしからは逃げられないからね〜。いっひひ〜」
そう言って、真夜はタロウの右側をふよふよと浮きながらついて回る。
この手の輩には何を言っても無駄だと悟り、タロウが諦めてため息をついた、その矢先。
真夜が唐突に何かを思い出したかのように呟いた。
「そういえばさ、その人……『真実を探せ』と『囚われるな』って言ってた気がするな〜……」
「…………ハァ、一度、落ち着ける場所へ向かおう」
タロウは頭を抱えながら、この珍妙な同行者を連れ、人目のつかない場所を探して再び夜の街を走り出した。
~~~~~~
「ねぇ~、まだつかないの~……暇~」
「ヒマ~。ヒマだよ~」
騒がしくつきまとう真夜に、タロウはうんざりしながら言い放った。
「……ヒマヒマと、お前は黙って静かにしてろ」
「あ! また『お前』って言った!! 真夜だよ、真~夜……
もう! 忘れっぽいざこお兄ちゃんだな~、イチロウくんは~。いっひひ~」
その名前が耳に届いた瞬間、タロウの全身に戦慄が走った。
「お前……どこでその名を知った……」
タロウはいつでも襲いかかれるよう、上体を低くして鋭く身構えた。
一気に張り詰めた空気が漂う。
「もう! また『お前』って言っ……ひっ!?」
タロウの瞳に宿った本物の「狂気」を前に、真夜の言葉が喉に詰まった。
「早く……答えろ……」
低く、明らかな殺意を孕み始めたタロウの気配に、真夜は半泣きで両手を振った。
「わ、分かったから! ほら、あのときだよ! 体の中に入ったとき、あのとき見えちゃったんだってば!」
「何を……見た……」
「え~と……その、怒らない……?」
「正直に言えばな」
必死に予防線を張る真夜に、タロウは低く頷いて続きを促した。
「……船で島についてから……その、真一って人に、撃たれるまで……です……」
あまりの緊張感に呑まれ、真夜はしどろもどろになりながら白状した。
「……。」
「!?」
「…………ふぅぅー……」
「真一」という名を聞き、激昂しかけた頭を冷やすように、タロウは深く息を吐き出した。
「お、怒らないよね?……約束したもんね、ね……?」
恐る恐る顔色を窺ってくる真夜に、タロウは「今後は勝手に見るな」とだけ冷たく釘を刺し、話を打ち切った。