「はぁっ……はぁっ……! 先生っ……どこまで行ったのよ……!」
ミレニアム自治区の外れ。廃棄された工場や廃ビルが立ち並び、一般の生徒は寄り付かない第4廃棄区画だ。ひび割れたアスファルトの上を、早瀬ユウカは肩で息をしながら駆けていた。
隣を並走するノアのタブレット端末には、シッテムの箱のアクセスログから逆探知した先生の現在位置が、不気味な赤い点となって点滅している。
「ユウカちゃん、落ち着いて。位置情報によれば、先生はこの区画の奥……旧資材置き場を歩いています」
「落ち着けるわけないじゃない! なんであんな治安の悪いところに……! またサボって、ふらふらして……見つけたら絶対、1週間は反省文を書かせてやるんだから……!」
怒りの言葉を口にしながらも、ユウカの声は微かに震えていた。ここ最近の先生は、明らかにおかしかった。仕事はすべて放置。何度注意しても空返事で、隙を見せればシャーレから姿を消す。
以前のような『ちょっとした息抜き』や『生徒の頼み事を聞きに行っていた』という理由すらなく、ただ当てもなく彷徨っているだけなのだ。
最初は、平和になって気が抜けたのだろうと思っていた。だが、あんなにも生徒想いで、誰よりも責任感の強かった先生が、自分たちの言葉を右から左へ受け流し、まるで魂が抜けたように虚空を見つめている姿を見るたびに、ユウカの胸には得体の知れない恐怖が募っていた。
「……先生の赤い点、動きが止まりました。すぐこの先です!」
「行くわよ、ノア!」
錆びついたトタン屋根のゲートを潜り抜け、2人は旧資材置き場へと飛び込んだ。そして――ユウカは息を呑んだ。
「――っ、何をしてるのよあいつら!」
広場では、ヘルメット団の残党と思しき不良生徒たちが数人、縄張り争いか何かで小競り合いを起こし、激しい銃撃戦を繰り広げていた。乾いた発砲音が響き、コンクリートの破片が弾け飛ぶ。
その、飛び交う銃弾のど真ん中を。シャーレの先生が、ふらふらと歩いていた。
「先生っ!?」
ユウカの悲鳴のような叫びが響く。だが、先生は振り返らない。猫背のまま、ポケットに両手を突っ込み、顔の横を銃弾が掠めても、足元で手榴弾の破片が跳ねても、微塵も反応しなかった。
恐怖で足がすくんでいるのではない。避ける気がないのだ。まるで、自分が撃たれて死ぬなら、それはそれで構わないとでも言うように。
「危ないっ!!」
ユウカは反射的に地面を蹴っていた。サブマシンガンを構え、シールドを展開しながら、銃弾の雨の中へと飛び込む。先生の細い身体にタックルするように飛びつき、コンクリートの陰へと転がり込んだ。
「きゃあっ……!」
「先生! 大丈夫ですか!?」
後方からノアが援護射撃を行い、突如現れたセミナーの書記と会計に恐れをなした不良たちは、慌てて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。土煙が晴れ、静寂が戻った廃工場。
「……っ、つぅ……」
ユウカは顔を顰めた。咄嗟に先生を庇った際、展開したシールドの死角から飛んできた流れ弾が、彼女の左肩を掠めていたのだ。制服の生地が破れ、白い肌から赤い血がツーッと流れ落ちている。
キヴォトスの生徒にとって銃弾は致命傷にはならない。だが、肉を裂かれれば当然痛みはあるし、血も出る。
「はぁ、はぁ……っ、先生! 無事ですか!?」
痛みを堪えながら、ユウカは起き上がり、下敷きになっていた大人を見下ろした。説教してやる。どうしてこんな危険な場所を歩いていたのか、どうして避けなかったのか、こってりと絞ってやる。そう思って、口を開きかけた時だった。
「…………ユウカ」
地面に倒れたままの先生が、ゆっくりと瞬きをして、ユウカを見た。その瞳を見た瞬間、ユウカの背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。
光のない、濁りきった暗い瞳。流血しているユウカの肩を見ても、驚きも、焦りも、悲しみも、何一つの感情も浮かんでいない。
かつての先生なら。生徒が怪我をしたとあれば、それがかすり傷であっても血相を変えて飛び起き、『大丈夫!? ごめん、僕のせいで……!』と自分の上着を破ってでも止血してくれたはずの先生が。ただ、ひどく面倒くさそうに、薄い唇を動かした。
「……どうして、庇ったの」
「え……?」
「別に。そのまま当たってもよかったのに。……死ぬなら、それでよかったのに」
時が止まったかのように、ユウカの思考が停止した。ノアもまた、息を呑んで立ち尽くしている。
「な、なに……言ってるんですか、先生……」
ユウカの口から、震える声が漏れた。自分が撃たれてもよかった? 死んでもよかった? そんなこと、許されるはずがない。私たちが、どれだけ先生を大切に思っているか。どれだけ心配して、ここまで走ってきたか。
「先生、私……怪我、したんですよ……? 先生を、庇って……」
無意識のうちに、ユウカは『先生からの優しい言葉』を求めていた。ごめんね、痛かったね。ありがとう、助けてくれて。そんな当たり前の、かつての先生なら必ず言ってくれた言葉を。
だが、大人はゆっくりと身を起こし、ユウカの肩から流れる血を指差して、ひどく冷酷な、事実だけを述べるかのように言った。
「血、出てるね。……痛いのが嫌なら、次から僕のことなんて放っておけばいいのに」
――パキン、と。
ユウカの中で、何かが決定的に壊れる音がした。
「君たちは強いんだから、もう僕みたいな大人、必要ないでしょ。……平和になったんだ。もう、何もかもどうでもいいんだよ」
怒っているわけではなかった。絶望しているわけでも、悲観しているわけでもない。ただ、本当に、純粋に。
先生の中では『生徒(ユウカ)が怪我をしたこと』も、『自分が死にかけたこと』も、道端の石ころが転がるのと同じくらい、どうでもいい出来事になってしまっていたのだ。
「あ、ぁ……っ……」
ユウカの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。肩の傷の痛みなど、もう何も感じなかった。それよりも、目の前にいる『中身が空っぽになってしまった大人』の冷たさが、鋭い刃となって彼女の心をズタズタに引き裂いていた。
「せん、せい……っ、どうして……っ、私、ユウカですよ……? あなたの、担当の……っ!」
「……うん。知ってるよ。だから、もう帰って。僕はもう少し、この辺で横になってるから」
泣き崩れるユウカに見向きもせず、先生は再びコンクリートの地面にゴロリと寝転がった。汚れた瓦礫の上で、まるでそれが自分の棺桶であるかのように、目を閉じる。
「……嘘……嘘です、こんなの……っ、ノア、ノアっ……!」
ユウカはすがりつくようにノアを振り返った。だが、いつも完璧な笑顔を絶やさないノアもまた、血の気の引いた蒼白な顔で、ただ震える唇を噛み締めていることしかできなかった。
すべてを救い終えた先生は、こうして静かに壊れていく。生徒たちの悲痛な泣き声だけが、冷たい廃工場に空しく響き渡っていた。