――ヒナは、知っている。
『ヒナ、今日も頑張って偉いね。ほら、少し休みなよ』
『責任を負うのが、大人だからね。君はただの生徒として、僕に甘えてくれればいいんだよ』
それは、激務で倒れそうになっていた自分を、優しく抱き止めてくれた時の記憶だ。
大きな手で頭を撫でられると、張り詰めていた心が嘘のように解けていった。彼が淹れてくれるコーヒーはいつも不格好だったけれど、どんな高級な紅茶よりも温かくて、ヒナの冷えた身体を芯から温めてくれた。
先生は、誰よりも優しくて、頼りになる大人だった。
だからこそヒナは、彼の前でだけは『ただの女の子』に戻ることができたのだ。
◆
「……先生」
シャーレの居住区。薄暗い仮眠室のドアを開け、空崎ヒナは静かに足を踏み入れた。
ユウカから『先生の様子が深刻なほどおかしい』と悲痛な連絡を受け、風紀委員会の仕事をすべて放り出して駆けつけたのだ。
部屋の中央にあるベッド。そこに、シャーレの先生はいた。
仰向けに寝転がり、焦点の合わない虚ろな瞳で、ただ真っ白な天井を見つめている。
ヒナが部屋に入ってきても、顔を向けることすらしない。
「先生……具合が悪いって、ユウカから聞いたわ。大丈夫……?」
ヒナはおずおずとベッドに近づいた。
かつての先生なら、ヒナの顔を見た瞬間に「ヒナ! わざわざ来てくれたの? ごめんね、心配かけて」と慌てて起き上がり、申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに笑ってくれたはずだ。
だが、今の先生は、ゆっくりと瞬きをして、天井を見たまま口を開いた。
「……別に。具合が悪いわけじゃない。ただ、動きたくないだけ」
「動きたくないって……お腹は空いてないの? さっきリビングを通ったけど、昨日から水しか飲んでないみたいじゃない……ユウカも、すごく心配してたわよ」
「お腹が空かないんだから、仕方ないでしょ。……うるさいなぁ」
ヒナの肩が、ビクッと震えた。
うるさい。
そんな言葉を、先生から向けられたのは初めてだった。
声に怒りはない。ただ、羽虫を追い払うような、純粋な『煩わしさ』だけがそこにあった。
「……先生、あのね」
ヒナは、ギュッと制服のスカートを握りしめた。
きっと、先生は本当に疲れているだけなのだ。平和になって、気が抜けてしまっているだけ。
だから、あの頃のように自分が甘えれば、先生も昔のような優しい顔を取り戻してくれるはず。
そう信じて、ヒナは少しだけ無理をして、ベッドの端に腰を下ろした。
「私、最近すごく忙しくて……少し、疲れちゃった。先生の隣で、休んでも……いいかな?」
震える手で、先生の袖口をそっと掴む。
――『おいで、ヒナ』。
あの時と同じように、頭を撫でてほしかった。温かい手で、大丈夫だと笑ってほしかった。
しかし。
先生は、ヒナに掴まれた自分の腕を、ひどく無造作に引き抜いた。
「……え?」
「休みたいなら、そこのソファでも使えば。それか、ゲヘナに帰りなよ」
「せん、せい……?」
「僕は寝てるから。用がないなら、もう放っておいてよ。……誰が来ても、もう何もしてあげられないから」
ぐるりと。
先生が寝返りを打ち、ヒナに背中を向けた。
ヒナは、空を切った自分の手を見つめたまま、微動だにできなかった。
あの温かい手は、もうどこにもない。
先生の背中からは、かつてのような『生徒を守る大人』の頼もしさなど微塵も感じられなかった。
そこにあるのは、ただ生きる意味を放棄し、すべてを面倒くさがる『空っぽの抜け殻』。
(違う……先生は、あんなに優しかったのに……)
記憶の中の先生が、ヒナに微笑みかけている。
温かいコーヒー。優しい声。大きな手。
その煌びやかな過去の記憶が鮮明であればあるほど、目の前で背中を向ける大人の冷酷な現実が、ヒナの心を無惨に削り取っていく。
「どうして……」
ヒナの紫色の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
自分は、ただの生徒として甘えていいと言ってくれたのは先生じゃないか。
責任を負うのが大人だと言って、私を救ってくれたのは、あなたじゃないか。
「どうして……私のこと、見ないの……っ」
声を震わせて問いかけても、丸まった背中からは規則正しい寝息が返ってくるだけだった。
先生は、ヒナが泣いていることすら気にしていない。いや、気にも留めていないのだ。
過去の記憶にある優しい大人は、もうどこにもいない。
ヒナはベッドの傍らにへたり込み、冷たくなった自分の手を胸に抱きしめながら、声を殺して泣き咽ぶことしかできなかった。