「ねえ、しおりちゃん。今度、非番の日にでも――」
その先は、続かなかった。
執務室に、けたたましい警報が鳴り響いたからだ。
甲高い電子音が三度、間を置かずに繰り返される。それは訓練でも、演習でもない――エリオン軍管区の全軍に向けて発せられる、最上位の緊急招集信号だった。ヴィーカの表情が、一瞬にして将官のそれに切り替わる。
「……これは」
しおりのすぐ隣にあった柔らかな体温が、瞬時に消えた。ヴィーカはもう机の端末に取りついている。階級章を外したままのシャツ姿で、指がホロキーボードの上を滑るように動く。
「先輩」
メイメイの声から、さっきまでの茶化すような響きは消えていた。しおりも即座に姿勢を正す。窓の外、赤銅色の空の下で、司令部の各所から兵士たちが駆け出していくのが見えた。
◇
ホログラム投影領域に、緊急通信のマークが灯る。応答と同時に映し出されたのは、見慣れた顔だった。
「土井中佐、聞こえる?」
大久保麗子。臨戦防衛連合統合作戦本部、兵站部部長。しおりの士官学校時代からの先輩であり、今は遠くレイヴンダーの要塞都市から、こうして通信越しに顔を合わせる間柄になっている。いつもは苦労人らしい穏やかな笑みを浮かべている麗子の顔が、今は珍しく硬い。
「麗子先輩。何が」
「エリオン周辺宙域に、『未知の空間歪み』を観測した。今すぐデータを送る。これ……普通じゃない」
言葉と同時に、端末にデータが転送されてくる。しおりが画面に近づき、波形を目にした、その瞬間だった。
「……ッ」
顔色が変わる。額に手を当て、体がよろめいた。
「先輩!?」
メイメイが素早く支えに入る。しおりは頭を押さえながら、それでも画面から目を離さなかった。
「……大丈夫。ちょっと頭が。……このデータ、この歪みの波形」
「心当たりがあるの?」
ヴィーカの声が鋭くなる。しおりは、こめかみを押さえたまま、絞り出すように答えた。
「士官学校の時。海賊と遭遇した時の宙域に、こんな『不自然なねじれ』があった。あの時は、気にも留めなかったけど……同じだ。形が、完全に同じ」
沈黙が落ちる。画面の中の麗子が、声を低くした。
「……やっぱり、あなたにしか分からないか。土井」
◇
臨戦防衛連合統合作戦本部――中立宙域に浮かぶ巨大要塞都市「レイヴンダー」。人口五千万を超えるこの要塞は、局部銀河群に居並ぶ幾多の国家が、それぞれの旗を掲げたまま身を寄せ合う、奇妙な連合体の心臓部だった。
その一室、兵站部の作戦室で、大久保麗子は端末の向こうのしおりへの通信を切ると同時に、深く息を吐いた。傍らに控えていた付き人のデュメリーが、無言でカップを差し出してくる。
「デュメリー、ありがと」
「大久保大佐。……また、始まるんですかね」
デュメリーの声には、隠しきれない緊張があった。麗子はカップを受け取りながら、モニターに映る宙域図を見つめる。歪みの発生源は、エリオンからそう遠くない航路上。しかもその形状は、過去の記録データベースと照合した結果、極めて特異な一致を示していた。
「たぶんね。三年前と、同じ」
麗子の脳裏に、あの日のことが蘇る。
――三年前。人類が初めて「外宇宙生物」と呼ばれる存在と接触した日。
局部銀河群の外縁、誰も踏み入ったことのない暗黒星域の彼方から、それは前触れもなく現れた。既存のどんな艦艇とも似ていない、生体構造の宇宙船。無音で蠢く触手のような推進器、虹色に脈打つ膜に覆われた船体。最初に接触した辺境警備隊は、通信すら発することなく消息を絶った。
被害は瞬く間に拡大した。局部銀河群内の複数の恒星系が同時多発的に襲撃を受け、アンティケーテ自由国だけでも数百万人規模の避難民が発生した。モナルキア王国、コンスティテュート自治区、フェニキア商業連邦――普段は互いに睨み合い、時に刃を交えていたはずの国々が、それぞれの体面と利害を一時的に棚上げしてでも手を組まねば、人類という種そのものが磨り潰される。誰もがそれを、頭では理解していた。
そうして結成されたのが「連合宇宙軍」だった。急造の混成艦隊。指揮系統も装備規格もばらばらな寄せ集めの軍に、それでも人々は縋るしかなかった。
その混成艦隊の中で、まだ少佐になったばかりの土井しおりは、異常なまでの戦果を上げ続けた。誰も予測できない敵の動きを、まるで最初から知っていたかのように読み切り、少佐という階級を超えた規模の艦隊を、事実上指揮するようになっていった。同じ頃、兵站の天才と呼ばれた麗子が、いかに乏しい補給網の中で艦隊を支え続けたか――それを語る者は、今も統合作戦本部に少なくない。
外宇宙生物の第一波は、多大な犠牲と引き換えに、辛うじて退けられた。
けれど、それで終わりではなかったことを、麗子も、そしてしおりも、痛いほど知っている。
喉元を過ぎれば、熱さを忘れる。第一波が退いた途端、各国は手のひらを返したように主導権争いを始めた。連合宇宙軍は解体され、しおりは「政治的に危険」という理由で宇宙軍から追われ、海軍航宙隊への左遷という名の隠居生活に押し込まれた。麗子自身も、政治の表舞台に立つことを避けるようにして、目立たぬ兵站畑を歩まされている。
そして今、外宇宙生物の再侵攻の兆候――未知の空間歪み――が、再び観測された。より強制力を持たせた「臨戦防衛連合」として再編されて以降、初めての、本物の警報だった。
「……こういう時に限って、また土井が近くにいるんだから」
麗子は誰にともなく呟く。デュメリーが、少し困ったように眉を下げた。
「偶然、ですかね」
「さあ。でも、偶然だとしても、都合が良すぎる。前もそうだった」
麗子はそれ以上、その考えを言葉にしなかった。ただ、端末の向こうで頭を押さえていたしおりの姿を思い出しながら、次の指示を打ち込み始める。
◇
エリオン海軍航宙隊司令部、中将執務室。
「頭痛は?」
ヴィーカがしおりの顔を覗き込む。しおりは小さく首を振った。
「もう治まりました。……すみません、取り乱して」
「謝らなくていい。それより、聞かせて。あなたの言う『同じ』というのは、どういう意味」
しおりは深呼吸をひとつしてから、画面のデータをもう一度呼び出した。波形のグラフが、宙域図の上に重なって表示される。
「士官学校時代の海賊捕縛事件――あの時の宙域にも、この波形と酷似した空間の乱れがあった。当時は、単に敵側の未知の技術によるものだと処理された。でも、今にして思えば、あの海賊たちの動きは、あまりにも統率が取れすぎていた」
「まるで、何かに誘導されていたみたいに、ってこと?」
メイメイが、先ほど自分が口にした噂話を思い出しながら呟く。しおりは頷いた。
「連合宇宙軍時代の第一波も、最初は同じような、局所的な空間の歪みから始まった。そこから、生体艦が一隻、また一隻と現れて、最終的にはあの規模の侵攻になった。もしこれが同じパターンなら――」
「まだ、始まりに過ぎない、ということね」
ヴィーカが後を引き取る。執務室の空気が、一段と張り詰めた。
◇
同時刻、統合作戦本部の別の一室では、加盟各国の代表による緊急の遠隔協議が開かれようとしていた。
議題は単純明快。「臨戦防衛連合」の名の下に、どこまでの兵力を、誰の指揮下で、どの宙域に展開するか。
だが、単純明快な議題ほど、こういう場では紛糾する。
「モナルキア王国としては、まだ確定情報の少ない段階での戦力展開には慎重にならざるを得ない」
大帝国の代表は、重々しい口調でそう切り出した。だが実のところ、彼らの本音は別にあることを、この場にいる誰もが知っている。臨戦防衛連合に加盟してはいても、モナルキア王国は今なお「外宇宙生物の脅威さえ去れば、いつでもアンティケーテを飲み込む」という野心を隠していない。自国の主力艦隊を、他国の――しかも旧敵国の――宙域防衛のために消耗させることに、彼らは常に及び腰だった。
「フェニキア商業連邦としても、あの宙域の交易ルートが寸断されるのは看過できない。護衛戦力の増派には賛成するが、我々の艦は基本的に民間契約に基づくものであり、正規軍の指揮下に直接組み込むことには難色がある」
商業連邦の代表もまた、自分たちの利害をやんわりと、しかし確実に主張する。彼らにとって重要なのは、勝利そのものよりも、勝利がもたらされるまでの間、自分たちの商圏がどれだけ守られるかだった。
「コンスティテュート自治区は、独立戦争の傷がまだ癒えていない。動員できる艦は限られている」
自治区の代表の声には、隠しきれない疲労がにじんでいた。
そうした駆け引きの応酬の中、アンティケーテ自由国からのオブザーバーとして参加していた大久保麗子は、ただ静かに耳を傾けていた。彼女の役割は、政治的な発言力を行使することではない。あくまで兵站の専門家として、限られた資源をどう配分すれば最も効率的か、その一点だけを考え続けることだった。
「――皆様のお立場は、よく理解しております」
麗子がようやく口を開いたのは、議論が一巡し、場の空気が疲弊し始めた頃だった。
「ですが、エリオン周辺の歪みは、過去の記録と極めて高い一致率を示しています。もし三年前と同じ推移をたどるなら、初動の対応が遅れるほど、後の被害は指数関数的に拡大します。今、動かせる戦力で、動かせるだけ動かす。それ以外に、私たちに選択肢はありません」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ語り口だった。誰も彼女の経歴を疑う者はいない。連合宇宙軍解体の際、多くの将官が政治的な保身に走る中、麗子だけは一貫して「戦力の最適配分」という一点だけを追求し続けてきた。その実績が、今この瞬間の発言力を支えていた。
結局、各国は「初動対応は現地アンティケーテ自由国の判断に委ねる」という、玉虫色の合意で一致した。要は、責任の所在を先送りにしただけの結論だ。だが、それでも麗子にとっては十分だった。少なくとも、現地の判断で動ける余地さえあれば――そこには、土井しおりがいる。
◇
「――エリオン方面軍の判断に一任、か」
ヴィーカは、麗子から転送されてきた協議結果の要旨に目を通し、小さく鼻を鳴らした。
「相変わらず、無責任な人たちね」
「でも、それで十分です」
しおりが静かに言った。
「動けるということですから」
ヴィーカはしおりを見つめ、それから小さく笑った。困ったような、けれどどこか誇らしげな笑みだった。
「あなたって人は、本当に……。分かったわ。海軍航宙隊、第一艦隊。出撃準備を」
「ヴィーカ中将」
「しおり中佐、あなたが行くんでしょう」
見透かされたように言われて、しおりは一瞬言葉に詰まる。だが、頷くしかなかった。
「はい」
◇
出撃準備の号令が下ると、司令部は一気に慌ただしくなった。
格納庫では、機関長のバシルがすでに機体の最終点検を始めている。整備兵たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしながらも、その顔には焦りよりも、どこか楽しげな余裕が滲んでいた。
「先輩の艦だけは、いつも通り最高の状態にしておかないとな」
独り言のように呟きながら、バシルは機関出力の調整パネルに手を走らせる。規定値ぎりぎりまで、いや、時にはその一線を踏み越えて出力を引き出すのが、彼の――そしてしおりの艦隊の――流儀だった。
一方、白兵部隊の詰所では、メイメイが自らの装備を確認しながら、部下たちに檄を飛ばしていた。
「今回は海賊相手のお散歩じゃないからね。相手はうちらの常識が通用しない奴らだ。気を抜いたら、あっという間に持っていかれるよ」
「中尉、また先輩と一緒に無茶するんですか?」
部下の一人が、軽口交じりに尋ねる。メイメイはにやりと笑った。
「無茶じゃなくて、計算のうち。……ま、たまに計算外もあるけどね」
言いながらも、その目の奥には、先ほど執務室で見た、しおりの苦しげな表情がちらついている。あの噂話――海賊が誘導されていたようだ、という――を口にしたのは自分だ。それが、思いのほか核心を突いていたことに、メイメイ自身も薄々気づき始めていた。
(先輩、大丈夫かな……)
言葉にはしないまま、メイメイは装備の最終確認へと意識を戻す。
◇
執務室に一人残ったしおりは、出撃までの僅かな時間、窓の外の赤銅色の空を見つめていた。
(また、始まるのか)
心の中で呟いた言葉が、思いのほか重く胸に響く。
三年前のあの戦いで、多くの仲間を失った。戦果を挙げれば挙げるほど、まるで自分だけが特別な何かに守られているかのような、居心地の悪い違和感が付きまとった。あの時感じた「引き寄せられるような感覚」――今、脳の奥にある疼きと、あまりにもよく似ている。
(私は、ただの人間だ)
自分に言い聞かせるように、しおりは小さく息を吐く。ふと、机の端に置かれたままの古い写真立てが目に入った。士官学校時代、麗子やバシルたちと撮った、まだあどけなさの残る一枚。あの頃は、こんなことになるとは、誰も想像していなかった。
端末が鳴る。ヴィーカからの通信だった。
『しおり中佐、艦隊、いつでも出撃可能』
「……了解」
しおりは立ち上がり、階級章を確認するように軽く胸元に触れると、扉へと向かう。
◇
格納庫に整列した第一艦隊の駆逐巡航艦群。その旗艦のブリッジに、しおりが姿を現すと、既に配置についていた乗員たちの背筋が、自然と伸びた。
「艦長、入室」
副長役を務めるバシルの声が響く。しおりは艦長席に着き、正面のスクリーンに映る宙域図――あの、見覚えのある「ねじれ」を見据えた。
「全艦、聞いて」
しおりの声は、静かだが、艦内の隅々にまで通るような芯を持っていた。
「今回の相手は、これまでの海賊とは違う。三年前、私たちが経験した、あの外宇宙生物の可能性が高い。楽な戦いにはならない」
ブリッジの空気が、一瞬張り詰める。しおりは続けた。
「でも、私たちはあの時を生き延びた。そして今、私の艦だけは……なぜか、あの敵の影響を受けにくいらしい。理由はまだ分からない。でも、それが今、私たちにできることがある、という意味なら――使わない手はない」
「艦長らしい理屈ですね」
バシルが小さく笑って返す。しおりも、ふっと表情を緩めた。
「褒めてる?」
「もちろん」
『しおり中佐、こちらヴィーカ。出撃、許可する』
通信越しのヴィーカの声に、いつもの柔らかさはなく、司令官としての鋭さだけがあった。だが、その奥に微かな緊張と、隠しきれない案じる響きが滲んでいるのを、しおりは聞き逃さなかった。
「――行ってきます」
短く、それだけを返す。
◇
第一艦隊、出撃。
赤銅色の空を切り裂くように、駆逐巡航艦群がエリオンの重力圏を離脱していく。バシルの手により限界近くまで調整された機関が、機体を加速させる度に、僅かに軋むような音を立てた。
宙域図に表示された「ねじれ」は、艦隊が近づくにつれて、その輪郭をより鮮明にしていく。まるで、こちらの接近を待ち構えていたかのように。
しおりは艦長席で、静かにその歪みを見つめ続けていた。頭の奥、あの疼きが、また少しずつ強くなっていくのを感じながら。
(――何が、待っているのか)
答えは、まだ誰も知らない。
ただ確かなのは、繰り返されるはずのなかった歴史が、今まさにもう一度、動き出そうとしているということだけだった。
少し長くしたい気持ち