「先輩!」
メイメイの声が、雑音混じりの通信の向こうから、悲鳴に近い音量で飛び込んでくる。
『聞こえますか、先輩! さっき救出に入った生体艦、まだ内部にうちの部隊の一部が――』
「――何ですって」
しおりの声が、初めて鋭く強張った。ブリッジの空気が、一瞬にして凍りつく。
◇
生体艦の内部、崩落した通路の奥で、メイメイと分隊の五名は完全に孤立していた。有機質の壁が四方から迫るように蠢き、退路だったはずの通路は、まるで意志を持ったかのように塞がっていく。
「囲まれた……いや、これ、囲まれてるんじゃない」
メイメイが息を呑む。
「――誘い込まれた」
壁の脈動が、これまでとは明らかに違う律動を刻み始めていた。まるで、獲物を捕らえた生物が、消化のために体液を分泌し始めるかのように。
『中尉、これ以上は……』
部下の声に、隠しきれない恐怖が滲む。メイメイは奥歯を噛みしめ、通信機に叫んだ。
「先輩、聞こえますか! 罠でした! 全周包囲、こっちの動きが完全に読まれてる……!」
◇
しおりからの応答が途絶えたまま、メイメイたちは、迫りくる有機質の壁と向き合っていた。
「中尉、あそこ、隙間があります」
部下の一人が、壁の脈動の合間に生じる、僅かな裂け目を指差す。メイメイは即座に判断した。
「行くよ。……ただし、私が殿をやる」
「中尉!」
「文句言わない。先輩に借りを返す前に、私がここで終わるわけにはいかないの」
裂け目に向かって、部下たちを先に押し出す。壁の脈動が、まるで意志を持つ捕食者のように、逃げようとする気配を敏感に察知して、より激しく蠢き始めた。メイメイは白兵戦用のブレードを構え、脈打つ組織の一部を強引に切り裂いた。生々しい感触と共に、鈍い悲鳴のような振動が艦全体に走る。
「うわ……気持ち悪……でも、開いた!」
「中尉、早く!」
部下に急かされ、メイメイは最後に裂け目を潜り抜けた。背後で、切り裂かれた組織が再生するように閉じていく音が響く。
「はぁ……はぁ……全員、無事?」
「全員、揃ってます」
安堵の息を吐いたのも束の間、メイメイの脳裏に、先ほど艦の奥で感じた「引力」の気配が、より強く、より切実な形で蘇った。
(先輩……)
通信は依然として繋がらない。だが、メイメイの直感は、しおりが今、この艦のどこか深いところで、一人で何かと向き合っていることを、はっきりと告げていた。
「撤収は本隊に任せる。……先輩を、待つ」
メイメイの声に、部下たちは一瞬、戸惑いを見せた。だが、彼女の表情の真剣さに、それ以上何も言わなかった。
◇
「メイメイ、撤退できる?」
しおりの問いに、返ってきたのは、これまで聞いたことのないほど切迫した声だった。
『後ろも塞がれました……! 先輩、私たち、囮にされた……!』
その一言が、ブリッジの空気を一変させた。
「囮……?」
バシルが繰り返す。しおりは、目の前が一瞬、暗く沈むような感覚に襲われた。脳の奥の疼きが、これまでにない強さで脈打っている。
(――囮。囮にされたのは、メイメイたちじゃない)
その考えが、なぜか確信に近い形で、しおりの中に落ちてきた。
(私だ。あれは、最初から私を狙っている)
◇
しおりの手が、端末の上で静止した。
周囲の乗員たちが、固唾を呑んで艦長の判断を待っている。数秒――いや、実際には一秒にも満たなかったかもしれない――の沈黙の後、しおりは既に立ち上がっていた。
「バシル」
「艦長」
「精神中枢への単独アクセスを試みる。シャトルを一機、用意して」
ブリッジに、明確な動揺が走った。
「艦長……! 正気ですか」
「メイメイを死なせるくらいなら、一人で行く方がマシ」
しおりの声には、迷いがなかった。だがその瞳の奥に、恐怖と、それを上回る何か――使命感とも、諦観とも取れない、複雑な光が揺れているのを、バシルは見逃さなかった。
「艦長。……一つだけ、聞かせてください」
「何」
「本当に、行かなきゃいけない理由は、それだけですか」
しおりは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。バシルの問いは、的を射すぎていた。
(違う。私は、確かめたいんだ。あれが、私に何を伝えたいのか)
だが、その本音を口にする時間は残されていなかった。
「――行ってくる」
◇
『土井中佐、待ちなさい!』
執務室からのヴィーカの声が、通信越しに割り込んでくる。だがその声は、既にシャトルの発進準備に入っていたしおりには届かなかった。いや、届いていても、止まるわけにはいかなかった。
「ヴィーカ中将。……申し訳ありません。この判断は、私に任せてください」
『しおり――』
「艦隊の指揮は、一時的にバシルに委任します。メイメイたちの救出、よろしくお願いします」
短く、しかし有無を言わせぬ口調で告げると、しおりは通信を切った。
シャトルが射出される。
赤い警告灯が明滅する狭いコクピットの中、しおりは操縦桿を握りながら、正面に広がる生体艦の巨大な威容を見据えた。虹色の膜が、まるで呼吸するように緩やかに脈打っている。その奥、艦の中心部へと向かって、しおりの意識そのものが、抗いがたい力で引き寄せられていくのを感じる。
(――行くわよ)
自分に言い聞かせるように、しおりはシャトルを加速させた。
◇
生体艦の内部は、外から見た以上に異様だった。
金属の艦内通路など、どこにもない。壁も、床も、天井も、すべてが脈打つ有機質の組織でできていて、まるで巨大な生物の体内を進んでいるかのようだった。時折、壁の奥から、遠く低い、鳴動のような音が響いてくる。それが呼吸なのか、鼓動なのか、しおりには判別がつかなかった。
シャトルを乗り捨て、しおりは徒歩でさらに奥へと進んでいく。誘導灯もなければ、案内表示もない。それでも、しおりの足は迷わなかった。まるで、この場所の構造そのものを、生まれる前から知っていたかのように。
(――この感覚。知っている)
進むほどに、脳の奥の疼きが強くなっていく。もはや痛みと呼んでいいレベルに達していたが、それでもしおりは足を止めなかった。
やがて、通路は開けた空間へと繋がった。
光源のない、しかし暗闇とは違う奇妙な発光に満ちた広間。境界も、天井も、床さえも定かでない、重力の存在しない空間だった。しおりの体が、ふわりと宙に浮く。
(ここが――)
思考が言葉になる前に、視界が白く染まった。
◇
情報が、濁流のように流れ込んでくる。
――それは、映像でもあり、感覚でもあり、記憶でもあった。けれど、そのどれとも呼びきれない何かだった。順序もなく、輪郭もなく、ただ圧倒的な質量だけが、しおりの意識という器に、逃げ場もなく注ぎ込まれてくる。
耳鳴りにも似た音が、視界そのものの奥で鳴っている。息をしているのかどうかも分からない。ただ、押し流されまいと、しおりは必死に自分の名前を心の中で繰り返した。土井しおり、土井しおり――それだけが、この濁流の中で唯一しがみつける、確かなものだった。
やがて、最初に像を結んだのは、無数の恒星が生まれては死んでいく光景だった。眩く膨れ上がり、やがて自らの重みに耐えかねて崩れ落ちていく星々。その繰り返しの果てに、幾つもの文明が芽吹いては、争い、分裂し、滅び、また新たな文明が同じ場所に芽吹いていく。それは何百、何千という周期を経て、ようやく一つの模様として浮かび上がってくるような、途方もない時間の集積だった。
(人類だけじゃない。……これは)
局部銀河群の外縁から、内側へ内側へと広がり続けていった、無数の知性体の歴史。あるものは統合を志し、あるものは分裂を選び、あるものは互いを滅ぼし合った。そのすべてが、まるで同じ楽譜をなぞるかのように、繰り返されていた。しおりには、それが何万年、何十万年という尺度の話なのか、あるいはもっと短いのか、判断のしようがなかった。ただ、途方もなく長い時間の重みだけが、実感として意識の奥に突き刺さってくる。
(歴史は、円環だと言った人がいた。……その通りだったのか)
もしこの宇宙のどこかに、すべてを見渡す何者かがいるのなら――創造主でも、神でも、あるいはただの偶然の積み重ねでも構わない――その何者かは、きっともう、この繰り返しに飽きているに違いない。しおりは、いつかどこかで自分自身がそう呟いたはずの言葉が、今、外側から差し戻されてくるような感覚を覚えた。
(違う。それを口にしたのは、私のはずだった。……それとも、これも、最初から誰かに言わされていたことなの)
思考の輪郭が、ぐにゃりと歪む。自分の考えと、外から流れ込んでくる情報の境界が、次第に曖昧になっていく。
映像は、やがて焦点を絞ろうとする。だが、しおりの意識が、それを完全に受け止めることを拒んでいるのか、像は何度も結びかけては、また霧のように散っていった。
局部銀河群。アンティケーテ自由国。モナルキア王国。コンスティテュート自治区。フェニキア商業連邦。無数の旗が乱立するこの版図もまた、幾つもの文明が同じように分裂と統合を繰り返してきた、その最新の一断面に過ぎないのだと、しおりはただ、そう理解させられる。
そして、その理解のさらに奥、もっと個人的な――もっと生々しい何かが、うっすらと輪郭を持ち始めた。
(――これは、私?)
薄闇の向こうに、誰かの気配がある。声にならない声。輪郭の定まらない顔。それが人間のものなのか、そうでない何かのものなのか、しおりには判別できなかった。ただ、自分という存在の始まりが、自分の知っているどんな記憶よりも前――物心つくよりもずっと前の場所に、確かにあるのだという感覚だけが、重く胸に沈んでいく。
(私は、どこから来たの)
問いかけに、答えは返ってこない。ただ、二つの異なるものが、一つに縒り合わされていくような、名状しがたい感触だけが、意識の奥深くを撫でていく。それが何を意味するのか、しおりにはまだ、正確に言葉にすることができなかった。できなかったが――それでも、決して「何でもないもの」ではないのだと、本能的に理解してしまっていた。
(私の中に、私じゃない何かが、ずっと一緒にいた……?)
脳の奥、ずっと疼き続けていた場所が、今、応えるように、一際強く脈打った。士官学校時代からの奇妙な夢。誰かに惹かれてしまう体質。海賊の脅威にいち早く気づけたこと。三年前の戦いで、まるで見えているかのように敵の動きを読み切れたこと――それら一つ一つの意味が、明確な答えという形ではなく、ただ「無関係ではない」という予感だけを伴って、しおりの中に落ちてくる。
(全部、繋がってる。……でも、まだ、分からない)
分からないことが、かえって恐ろしかった。輪郭のはっきりした絶望よりも、輪郭の定まらない不安の方が、時に人の心を、もっと深いところから蝕んでいく。
士官学校で仲間たちと過ごした日々。麗子と肩を並べて戦った海賊捕縛事件。連合宇宙軍で少佐として指揮を執った、あの熾烈な戦い。人々が自分を「英雄」と呼び、縋るように賞賛の声を送ってくれた、あの瞬間の数々。
それらの記憶までもが、今この瞬間、輪郭を失ったように揺らいで見えた。
(全部、私が選んで、私が歩いてきた道のはずだった。……それとも――)
「……違う」
しおりの声が、無重力の空間に虚しく響く。
「違う、違う、違う違う」
涙が、宙に浮かぶ滴となって、ゆっくりと漂っていく。
「私は……私は、普通の人間だ。私には、ヴィーカがいて、メイメイがいて、麗子先輩がいて、バシルがいて。私は、普通の人間として生きてきた……!」
◇
戦闘中のブリッジでは、バシルが必死にセンサーの解析を続けていた。
「しおり艦長の生体反応、確認できません……! シャトルの通信も途絶したままです」
「メイメイ隊も応答なし……いえ、待って、微弱ですが反応あります!」
オペレーターの報告に、バシルは即座に指示を飛ばす。
「メイメイ隊優先で救出班を再編成。艦長のシャトルの位置座標は?」
「生体艦の中心部付近。ですが、あそこは……」
執務室のヴィーカは、モニターに映る戦況図を、握りしめた拳の白さも忘れて見つめ続けていた。
「しおり……」
呟く声が、僅かに震える。三十八年生きてきて、これほどまでに何かの結果を待つことに、恐怖を感じたことはなかった。
「中将、生体艦の内部から、微弱ですが未知の波動が観測されています。……あれは、通信の類ではなく」
「精神的な干渉、ということね」
「おそらくは」
ヴィーカは目を閉じた。祈るような、しかしそれ以上に、彼女自身の声を届けたいという衝動に突き動かされて、通信機を握りしめる。
「――しおりちゃんに繋いで。届かなくてもいい。繋いで」
◇
統合作戦本部でも、麗子は端末の前から動けずにいた。
「土井の生体反応、まだ確認できないの」
「大佐、通信班が全力で解析していますが、あの生体艦内部からの信号は乱れがひどく」
デュメリーの報告に、麗子は唇を噛んだ。
(三年前も、こうだった)
脳裏に、あの日の記憶がよぎる。連合宇宙軍時代、しおりが単身で敵中枢に切り込み、消息を絶ったことが一度だけあった。あの時も、麗子は今と同じように、ただ祈ることしかできなかった。そして、しおりは生きて帰ってきた。
「……あの子は、必ず戻る」
誰に言い聞かせるでもなく、麗子はそう呟いた。デュメリーが、静かに頷く。
「大佐がそう仰るなら、そうなんでしょうね」
「気休めじゃないわよ。あの子は、そういう星の下に生まれてるの。良くも悪くも」
麗子の言葉には、しおりの出生に関する仮説――まだ誰にも伝えていない、あの疑念――が、微かに滲んでいた。だが、それを今、口にするつもりはなかった。
「デュメリー、通信の解析、続けて。……何か拾えたら、すぐに知らせて」
「はい」
◇
無重力の空間の中で、しおりは膝を抱えるように体を丸めていた。周囲には、まだ濁流のような情報の残滓が渦を巻いている。外宇宙生物の「意思」――それが正確に何なのか、しおりにはまだ理解できていない――が、彼女を回収しようと、じわじわと迫ってくるのが分かる。
(もう、いいのかもしれない)
そんな考えが、頭をよぎる。
(私は、最初から私じゃなかった。だったら、ここで、本来あるべき場所に還るだけなのかも――)
――先輩――!
雑音混じりの声が、遠く、しかし確かに届いた。
「……メイメイ?」
――先輩、聞こえますか! 生きて帰ってきてください、絶対に……!
――しおりちゃん……! 返事をして! しおりちゃん!
ヴィーカの声だった。狂おしいほどの響きが、無重力の暗闇の中に染み渡っていく。
しおりの胸の奥で、何かが震えた。
(……私が、作られた存在だったとして)
(それでも、あの人たちと過ごした時間が、嘘になるわけじゃない)
しおりは、ゆっくりと顔を上げた。涙で歪んだ視界の向こうに、あの「意思」の気配が、なおも迫ってくるのが見える。
「お前に作られた私でも」
声が、震えながらも、確かな芯を持ち始める。
「今ここで生きているのは、私だ」
無重力の空間が、揺れる。外宇宙生物の「意思」が、明確な拒絶の意志を感じ取ったかのように、より強く、より執拗に迫ってきた。
だが、しおりはもう、怯まなかった。
「お前の命令じゃない。私の意志で、私は帰る……!」
◇
脳の奥に埋め込まれたタンパク質――外宇宙生物との共鳴器官――が、これまでにない強さで疼く。まるで、しおりの意志そのものを塗り替えようとするかのように。
しおりは、その疼きに、意志の力で抗い続けた。生まれた経緯がどうであれ、この二十六年間、自分の足で歩いてきたという事実だけは、誰にも――たとえ自分を作った存在にすら――譲るつもりはなかった。
震える手を、しおりは通信機へと伸ばす。
「バシル。……聞こえる?」
『艦長! 無事ですか、応答願います!』
バシルの声に、隠しきれない安堵が滲む。しおりは、涙の跡を拭うこともせず、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「座標を送る。全艦、一斉掃射。私を気にするな」
『――艦長、それは』
「精神中枢の座標。私が今いる場所の、すぐ近くにある。……ここを潰せば、この艦は機能を失うはず」
『艦長のいる場所のすぐ近くって、それ』
「今しかない。……お願い」
通信の向こうで、バシルが一瞬、言葉を失う気配があった。だが、それは長くは続かなかった。
『……了解』
短い沈黙の後、バシルの声は、いつもの飄々とした調子を取り戻していた。
『先輩を信じます』
しおりは、震える指先で、座標データを手入力で打ち込み始めた。
(――これで、いい)
外宇宙生物の「意思」が、なおも彼女を引き留めようと、意識の奥で暴れている。だが、しおりはもう、その声に耳を貸すつもりはなかった。
(私は、私の意志で選ぶ)
座標データの送信が完了する。
同時に、無重力の空間の輪郭が、大きく歪み始めた。まるで、迫りくる終わりを予感するかのように。
しおりは、最後にもう一度だけ、目を閉じた。
(メイメイ。ヴィーカ。麗子先輩。バシル。……ありがとう)
そして、静かに、その瞬間を待った。