転生上がりのストリートチルドレンが官吏登用試験を受けてみた結果 作:コロトック
執務中のことだ。開けっぱなしの窓から、羽虫が一匹、部屋に迷い込んできた。
「あ、虫だ」
今ではなんていうことないことのない光景だが、前世は虫が大の苦手だった。というか、この世界でも最初は叫び倒していた。
そんなことをしみじみ思い出しながら、書類にペンを走らせ続ける。
思えば、スラム暮らしの五年間でこの手の感覚はすっかり麻痺しているのかもしれない。虫どころか、もっと大きい生き物にも慣れたくらいだ。
ネズミも、ゴキブリも、名前も知らない虫も、スラムでは日常茶飯事だった。あの頃を思えば、部屋に迷い込んだ羽虫一匹くらい、可愛いものだ。
だが、フィリア様は違った。
「……っ」
ブーン
視界の端で羽虫が羽音を立てながら机の上を横切った瞬間、フィリア様の顔から一気に血の気が引いた。
最初は書類の不備でも見つけたのかと思ったが、原因はもっと単純なものだったらしい。
「殿下?」
「む、む、む、虫……!」
声にならない悲鳴を上げながら、フィリア様が椅子から飛び上がる。次の瞬間、俺の腕に思い切りしがみついてきた。
普段の物静かな振る舞いからは想像もつかない俊敏さだった。虫相手にだけ発揮される謎の運動能力があるらしい。
「殿下、落ち着いてください」
「む、無理、です……! あれ、こっち、来て、ませんか……!?」
「まだこっちには来てないです」
「ほ、本当、ですか……!?」
「本当です。今のところ天井の方に」
「て、天井……! こっち、見て、ません、か……!?」
虫に視線があるかどうかまで気にしているらしい。この人の恐怖心の解像度は、想像以上に高かった。だが、昔の自分を見ているようで他人事とは思えない。
だが、しがみつく力が想像以上に強い。細くて頼りない見た目からは信じられないほどの握力だった。
「殿下、腕、ちょっと痛いです」
「あ……ご、ごめんなさい……」
少しだけ力が緩んだが、それでも離れる気配はない。虫への恐怖と、離れる勇気を天秤にかけて、恐怖の方が圧倒的に勝っているらしい。
◇
「虫、苦手なんですね」
「にが、て、です……その、昔から……」
「昔から、というと」
「その、小さい頃、庭で、大きな、虫に、追いかけられて……それ、以来……」
過去のトラウマまで垣間見えて、少しだけ同情してしまった。原因があるなら、この過剰な反応にも納得がいく。
「見た目、そこまで大きくないですけど」
「大きさの、問題、じゃ、ないん、です……その、動き方、が」
「サイズより、動き方の方が、苦手なんですね」
「はい……あの、規則性、なく、動くものが、全部……その、苦手、で……」
言われてみれば、羽虫の飛び方は確かに予測が難しい。フィリア様なりに、それなりの理由はあるらしかった。
言いながらも、フィリア様は俺の袖を離す気配がない。
だが、虫というのは案外自由なものだ。こちらの事情はつゆ知らず、ブーンと羽音を鳴らしながら出ていった。
「殿下、もう出ていきましたよ」
「ほ、本当に……?」
「本当です」
「ぜ、絶対、ですか……?」
「絶対です。俺が見張ってましたから」
念には念を入れて確認してくる様子に、この人の中で虫という存在がどれほどの脅威なのか、改めて実感させられた。こればかりは王城暮らしであれば尚更仕方がない。
恐る恐る顔を上げたフィリア様は、それでも俺の袖をしっかり握ったままだった。
「あ……す、すみません、その、しがみついて、しまって……」
「大丈夫です。むしろ、殿下にもこんな一面があったのかと、少し驚きました」
「は、恥ずかしい、です……忘れて、ください……」
「忘れませんよ。貴重なものを見せてもらいましたし」
「わ、忘れて、くださいって、言ってる、のに……」
涙目で訴えてくるフィリア様に、こっちも少し悪い気がしてきたが、貴重な記憶を自ら手放す気にはなれなかった。
顔を真っ赤にして俯くフィリア様を見ながら、俺はこの人の弱点を、しっかり記憶に刻み込んでおくことにした。
これまで見てきた叱り方、絵の腕前、決裁の震え方。積み重なっていくフィリア様の情報の中に、また一つ新しい項目が追加された気分だった。
いずれはそういった苦手なことも書類仕事のように克服してほしいが、まあ…時間はかかるだろうなあ。そもそも必要性をそこまで感じられないし。
◇
その日の午後、リーシャと久しぶりに顔を合わせた。
「虫が入ってきたそうね」
「まあな」
「ついでにでっかい虫も追い出せたようで何より。そのうち式典もあるし」
式典という少し気になるワードが出てきたが、それよりもだ。
「なんで知ってる?」
誰にも話していないはずの話が、既に本人の耳に届いている。しかもグレアムのことまで、それとなく仄めかしている。
「そりゃあ監査官だもの」
「答えになってないんだよなあ、それ」
澄まし顔で言い切るリーシャに、これ以上追及しても無駄だと悟った。この監査官の情報網が、一体どこまで広がっているのか、想像するだけで少し怖くなる。
「殿下、大変だったでしょう」
「まあな。腕、しばらく痛かったし」
「あら、それは災難だったわね。でもちょっと羨ましいわ」
口では同情しているようで、目元は完全に笑っていた。他人の災難を心底楽しんでいるあたり、この女の性格の悪さも大概だと思う。
監査官にはぴったりの性格だな、と思う。
「何か言いたげね」
「さあ?」
「…こいつ」
俺は書類を持ち直して目を細めてこちらを睨んでいる彼女の横を通り過ぎていった。
私用最後まで読んでいただきありがとうございます。
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すいません