転生上がりのストリートチルドレンが官吏登用試験を受けてみた結果 作:コロトック
配属から数日。俺はフィリア様の執務室で、崩れかけた書類の山と格闘する日々を送っていた。
「そういえば、自分は秘書補佐だったのですが、その秘書の方はどこに?」
ふと気になって聞いてみる。補佐がいるということは、当然本業の秘書がいるはずだ。今のところ影も形も見ていない。
「あ、あの、す、すいません。多分、外に出てます……」
「多分?」
「今日は、その、たぶん……いつも通り、かと……」
いつも通り不在らしい。もはや職務怠慢という単語がぴったりくる。
「困りましたね」
「は、はい。でも、その方は……侯爵様の、ご子息、ですから。力的には、あちらが、どうしても、上、で……」
なるほど、身分の壁というやつか。前世にはなかった不便なシステムだ。実力主義の欠片もない。
◇
話を聞くと、事情はもっと根深いらしい。
「その秘書殿、普段は何を?」
「た、たしか……お茶を、飲みに行ったり……お昼寝、されたり……」
「仕事してなくないですか」
「わ、私も、そう思う、のですが……」
思うだけで終わっているのが問題だ。
「一度、注意されたことは?」
フィリア様の肩が、目に見えてびくりと震えた。話しかけるだけで反応が出る体質は相変わらずだ。
「あ、あります……その、一回、だけ……」
「どうなりました」
「『殿下のために動きやすいよう、あえて外で情報収集しているのです』って……言われて……その場では、納得、してしまって……」
完全に言いくるめられている。話術だけは達者らしい。
「情報収集の成果は?」
「聞いたことは、ないです……」
聞く気もなかったんだろうな、というのが正直な感想だった。実務能力ゼロ、肩書きだけで居座る典型例。前世で見た覚えのあるタイプの人間だ。
◇
その後も書類仕事は続く。フィリア様は事務処理そのものは真面目にこなす人だった。ただ判断を求められる場面になると急に手が止まる。
「殿下、この予算案、承認印はどうしますか」
「え、あ、その……セ、セナさんは、どう、思いますか……」
「俺に聞かれても」
「で、でも……セナさんの、判断のほうが……きっと、正しい、ので……」
自分で決めることを、根本的に恐れているらしい。理由はまだ聞いていないが、たぶん一度や二度の失敗で済む話ではなさそうだ。
「殿下がお決めになったことなら、俺は従いますよ」
「そ、そんな……」
「間違ってても俺が拾いますし」
「拾わせるわけには……」
「拾うために雇われてるので、遠慮なくどうぞ」
しばらく黙り込んだあと、フィリア様は震える手で印を押した。それだけのことに、何十秒もかかっている。
「押せましたね」
「は、はい……セナさんの、おかげ、です」
「殿下が押したんですよ」
小さな成功体験のはずなのに、フィリア様は今にも泣きそうな顔で喜んでいた。この人にとっては、これくらいの一歩でも十分な進歩なんだろう。
ここまでの数日で分かったことが一つある。フィリア様は無能なんかじゃない。ただ、失敗した時に守ってくれる人が、これまで一人もいなかっただけだ。
◇
仕事の合間、ふと窓の外に目をやる。
リーシャの姿が見えない。別にあいつを見なくても俺の業務に支障はない。ないのだが、どこに配属されたのかは地味に気になっていた。
試験の首席が事務仕事に回されるとは考えにくい。もっと上の部署に取られていてもおかしくない実力だった。
「殿下、リーシャという受験生をご存知ですか。今年の首席だったはずですが」
「リーシャ、様……? あ……もしかして、その方……」
フィリア様が何か言いかけたところで、執務室の扉が勢いよく開いた。
「やあやあ、遅れてすまないね、殿下。今日も情報収集で忙しくてね」
悪びれもせず登場したのは、金髪を撫でつけた優男だった。腰の低さと自信過剰さが同居している、妙なバランスの持ち主だ。
噂の秘書殿が、ようやく本人登場である。
「殿下、こちら新任の秘書補佐です」
フィリア様が消え入りそうな声で紹介すると、優男はこちらを一瞥した。値踏みするような視線が、頭のてっぺんから足先まで往復する。
「おや、見ない顔だ。新しい補佐かい?」
「本日付で着任しました、セナです」
「へえ、平民が。まあ、殿下のお役に立つならなんでもいいさ。僕は情報収集で忙しいから、殿下のことはよろしく頼むよ」
言うだけ言って、上着を脱ぎ捨てソファに寝転がる。情報収集という単語の定義を、一度きちんと問い詰めたくなった。
「情報収集の成果、うかがってもよろしいですか」
「……君、なかなか失礼だね」
柔和な笑みの下から、初めて刺のある声が返ってきた。フィリア様が慌てたように俺の袖を引く。侯爵の息子相手に、平民が正面から突っかかったのがまずかったらしい。
「し、失礼、しました……セナさん、その辺で……」
フィリア様が間に入ろうとするが、声が小さすぎて優男には届いていないようだった。
「殿下、この補佐、少し躾がなってないようですね。平民は平民らしく、大人しくしているものだと教えて差し上げないと」
「あ、あの……その……」
フィリア様は何か言おうとして、結局何も言えずに視線を落とした。何度もこうやって丸め込まれてきたんだろうことが、その反応だけで想像できた。
「殿下は俺が判断できないことを聞いたら、自分に相談してくださいと仰っています。今のところ相談をした記憶はありませんが」
半分は嘘だ。フィリア様がそこまで言ったわけではない。だが、これくらいの牽制は許されるだろう。
優男の眉が、わずかに動いた。
「……面白いことを言う補佐だ。殿下、この子、気に入りましたよ」
気に入られた覚えはない。むしろ危険信号にしか聞こえない台詞だった。
目が合った瞬間、優男の口元だけが笑ったまま、目だけが笑っていなかった。
「そういえば、名乗るのを忘れていたね。僕はグレアム。ビスハイル侯爵家の三男だ。以後、よろしく頼むよ」
「よろしくお願いします」
「殿下のことは僕に任せておけばいい。君は雑用だけこなしていればいいから」
雑用しかさせない気満々の物言いに、思わず言葉に詰まる。フィリア様がおろおろとこちらとグレアムを交互に見比べていた。
「では、僕は情報収集に戻るとしよう」
言うだけ言って、来た時と同じ勢いで部屋を出ていく。滞在時間はものの数分だった。あれで給金が発生しているなら、世の中間違っている。
「あ、あの……大丈夫、でしたか……セナさん」
フィリア様が心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「殿下こそ、あれで大丈夫なんですか。ずっとあの調子だったんでしょう」
「は、はい……その、逆らうと、もっと、面倒なことに、なるので……」
「面倒なこと?」
フィリア様は一瞬口を開きかけて、すぐに首を横に振った。
「な、なんでもないです……その、今は」
何かを知っていて、言えない事情がある。その反応だけで十分に察しがついた。
「リーシャという方について、聞こうとされてましたよね。何か関係あるんですか」
「そ、それは……その、あの……」
言い淀んだフィリア様は、結局最後まで答えてくれなかった。何かある。それだけは確信できる反応だった。
グレアムの態度も、フィリア様の怯えも、リーシャの不在も、初日にしては情報が多すぎる。事務仕事だけのはずが、思ったより面倒な職場に配属されたのかもしれない。
窓の外はすっかり夕暮れだった。三ヶ月分の書類はまだ半分も片付いていない。