転生上がりのストリートチルドレンが官吏登用試験を受けてみた結果 作:コロトック
俺は書類の山を前に腕まくりをしていた。三ヶ月分の未処理案件は、昨日でようやく半分を切ったところだ。
「殿下、今日はこちらの決裁からいきましょう」
「は、はい……」
フィリア様の返事にも、昨日より少しだけ張りがある。地味な変化だが、悪くない兆候だ。
そこへ、当然のように遅れてグレアムが姿を現した。
「おはよう、殿下。今日も僕は視察の予定でね」
「視察? 昨日は情報収集って言ってませんでした?」
「同じことだよ、細かいことを気にする男は嫌われるよ」
嫌われたところで、元から好かれる気もない。適当にあしらわれて、グレアムはまた部屋を出ていった。滞在時間、今日は昨日より短い。
扉が閉まる音を聞いてから、フィリア様がほっと小さく息を吐くのが分かった。この一連の流れも、もうすっかり見慣れたものになりつつある。
◇
グレアムがいなくなった途端、フィリア様の肩から目に見えて力が抜けた。
「殿下、グレアム殿がいる時といない時で、随分と様子が違いますね」
「あ……や、やっぱり、分かりますか……」
「分かるも何も、丸わかりです」
「す、すみません……」
「殿下が謝る話じゃないですよ」
三日目にして、この台詞も板についてきた。
「グレアム殿は、いつもああなんですか」
「その……最初の頃は、もう少し、真面目、だったん、です。でも……その、去年あたりから……」
「何かあったんですか」
フィリア様は口を開きかけて、また閉じた。この反応は昨日も見た。何かに触れると口を噤む。よほどの事情らしい。
「言いたくないなら、無理には聞きません」
「あ……その……ごめん、なさい」
「謝らなくていいですって」
この調子で謝罪カウントを数えていたら、そのうち専用の帳簿が必要になりそうだ。
「殿下、これだけは聞かせてください。グレアム殿がいなくなったら、殿下は困りますか」
フィリア様は目を丸くして、それからゆっくりと首を横に振った。
「い、いえ……その、正直……いなく、なってくれたら、助かる、と……あ、で、でも、そんなこと、言っちゃ、駄目、ですよね……」
「思ったことを言っただけです。誰にも怒られませんよ」
「そう、なん、でしょうか……」
小さくうなずいたフィリア様の表情に、ほんの少しだけ安堵の色が見えた。誰かに本音を吐き出せただけでも、この人にとっては大きな一歩なんだろう。
◇
昼過ぎ、書類を届けに宰相府へ向かう途中の廊下で、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「リーシャ」
声をかけると、振り返った本人は特に驚いた様子もなく、いつもの余裕たっぷりの表情を見せた。
「あら、久しぶりね。元気そうで何より」
「配属されてから一度も見なかったんだけど、どこにいたんだ」
服装も試験の時とは違う。地味な文官服だが、仕立ては明らかに良い。首元には見慣れない銀の徽章がついていた。
「王城のあちこちよ。私、監査官なの」
「は?」
聞き間違いかと思って聞き返す。
「監査官。各部署の業務が適正に行われているか、確認して回る仕事よ」
「新人がいきなり監査官?」
「試験の成績と面接次第では、そういう配属もあるの。知らなかった?」
「まさか歴史ゼロ点でも監査官になれるのかと思って一瞬期待したけど、俺には来なかったな」
「あなたの適性は事務方寄りだったのよ。残念だったわね」
知らなかった。というより、そんな役職があること自体、この世界に来てから初めて聞いた。
「じゃあ、俺の職場も監査対象なのか」
「もちろん。というより、あなたの職場は前々から目をつけられていたわ」
急に不穏な言葉が出てきた。
「目をつけられてたって、フィリア様が何かしたのか」
「殿下じゃないわ。殿下の周りの人間よ」
リーシャの視線が、俺の背後、王城の奥の方角に向けられる。グレアムの部屋がある方向だ。
「侯爵家の三男坊、勤務態度が悪いだけならまだいいけど、経費の使い方がどうにも怪しいのよね」
「経費?」
「視察だ情報収集だと言っては、いつも同じ料亭に高額な請求を上げてる。中身のない報告書とセットでね」
なるほど、あの態度でよく給金をもらえていると思ったら、そういうことか。
「それ、殿下は知ってるのか」
「知らないでしょうね。知っていたとしても、言えないでしょうけど」
言えない。フィリア様の反応と重なる言葉だった。
「殿下が何か知ってて黙ってる、ってことか」
「さあ、それはどっちだと思う?」
久しぶりに聞いた気がするその返しに、思わず苦笑いが漏れる。
「答える気ないなら聞くだけ無駄だな」
「今回はちゃんと理由があるの。私もまだ確証がないから、迂闊に話せないだけよ」
真面目な声のトーンに、こっちも茶化す気が失せた。
「確証が取れたら、教えてくれるのか」
「ええ。その時は、あなたにも協力してもらうことになると思うわ」
監査官と秘書補佐。立場は違うが、目的地はどうやら同じ方向を向き始めているらしい。
「殿下を巻き込むことになるのか」
「もう巻き込まれてるわよ、あなたも殿下も」
その一言で、俺はようやく状況の深刻さを実感し始めた。書類の山を片付けているだけでは済まない話らしい。
◇
「一つ聞いていい?」
リーシャが珍しく少し声のトーンを落として続けた。
「殿下、グレアムに何か弱みでも握られてるのかしら。あの怯え方は、単に苦手意識だけとは思えないのだけど」
「俺も同じことを思ってた。何か聞こうとすると、必ず口を噤む」
「書類の放置期間、覚えてる?」
「ああ、殿下から聞いた」
「あれ、放置じゃなくて没収されてた可能性があるの。グレアムに握り潰された決裁が、いくつか」
「握り潰す理由は?」
「殿下が余計な決裁をしないよう、動きを止めておきたかった。私の推測だけど」
なぜ動きを止める必要があるのか。理由まではまだ見えない。だが、単なる怠け者の上司という話では済まなくなってきた。
「証拠、見つかりそうか」
「時間はかかるけど、無理じゃないわ。それより、あなたのほうが有利かもしれない」
「俺が?」
「殿下の一番近くにいるのは、今はあなたでしょう。私が調べられない部分を、あなたなら見られる」
「たとえば?」
「経費申請の下書きとか、殿下宛に届いた書簡の控えとか。あなたの手元を通るものなら、私が正面から要求しても出てこない資料が見られるはずよ」
言われてみれば、書類整理は最初から俺の仕事だ。改めて頼まれるまでもなく、目を通す機会はいくらでもある。
「証拠集めに協力しろってことか」
「そこまで大げさな話じゃないわ。ただ、気になるものがあったら教えてほしいだけ」
巻き込まれるどころか、最前線に引っ張り出されつつある。書類仕事だけのはずだった補佐の仕事が、いつの間にか随分と物騒な方向に転がり始めていた。
「一つだけ言っておくけど」
立ち去りかけたリーシャが、思い出したように振り返った。
「グレアムに気づかれないよう、慎重にやってね。侯爵家は敵に回すと面倒な相手よ」
「気をつける。……お前もな」
「私は平気よ。こう見えて、身を守る術くらい心得てるもの」
自信満々な後ろ姿を見送りながら、俺はため息をついた。
事務仕事、楽じゃない