転生上がりのストリートチルドレンが官吏登用試験を受けてみた結果 作:コロトック
ここ数日、すごくいい気分だった。
そして、最近気づいたことがある。あいつがいない間、書類の処理速度が体感で二倍近くになることを。無駄な口出しがないというのは、これほど効率が上がるものかと、静かに感動すらしていた。
あのバカがいた頃は、余計な口ばかり出していた。指示は的外れで、口出しだけは一人前。存在自体がノイズだったと言っていい。
だが、平穏はそんなに長く続かないらしい。
◇
フィリア様と仲良く話していた時だった。
「殿下、この決裁書、印はもう押していただいて大丈夫です」
「は、はい」
最近は、印を押すまでの時間も随分短くなった。震える手も、以前ほどではない。小さな進歩の積み重ねが、少しずつ形になっている。
ふと、書類の隅にちらりと書かれた金額の桁を見て、貴族ってすげーと思っていた時だった。
執務室の扉が、久しぶりに勢いよく開いた。
いうまでもなく、あのバカの登場である。貴族を尊敬し始めていた俺を現実に戻してくれた。
「やあやあ、殿下。ご無沙汰していて申し訳ない」
悪びれもせず登場したグレアムに、フィリア様の肩がびくりと跳ねる。俺は書類から顔を上げ、あえてにこやかに応じた。
しかし違和感がある。
(あのバカの借金、そんじょそこらの額じゃなかったはず)
カジノの用心棒兼、道具として体で払わされていたとはいえ、あの規模の借金が、そう簡単に片付くとは思えない。妙な胸騒ぎがした。
(こいつ、親に助けてもらったな)
地盤がしっかりある人間は、こういう時に強い。自業自得で作った借金でも、親を使って帳消しにできてしまうらしい。うらやましいとまでは言わないが、多少は複雑な気持ちになる。
スラム育ちの俺には、後ろ盾なんてものは存在しない。あるのは自分の腕と、ハトを筆頭とした顔なじみたちの信用くらいのものだ。それでも十分だと思っていたが、こういう時にふと、世の中の理不尽さを実感してしまう。
◇
久しぶりに見る顔は、以前よりも心なしかやつれていた。それでも煌びやかに見せてくるのはなんでだろう。なんかすごい腹が立つ。
「…秘書様は今までどこにいらしたのでしょうか?」
「そ、それはもちろん、視察にだな」
「なるほど、それは仕事熱心ですね」
「そうか、わかってくれるか」
得意げに頷くグレアムを見ながら、俺はゆっくりと言葉を続けた。
「ええ。私なんて、先日もカジノで大負けしましてねえ。やっぱりスラム出身の者が調子に乗ってはいけませんな。秘書様の熱心な仕事ぶりは、見習う必要がありそうです」
場が一瞬、静まり返った。
グレアムの笑顔が、目に見えて固まっていく。頬に一筋、冷や汗が伝った。
「な、なんの話かな。僕は視察の話をしているんだが」
「そうでしたね。失礼しました。平民ゆえの愚かな話として聞き流してください」
声だけは丁寧に、目だけは全く笑っていない自覚はある。慇懃無礼《いんぎんぶれい》というやつを、生まれて初めて実践してみた。
あくまで平然と流す。事実だけを淡々と並べれば、それで十分だ。
フィリア様も、口元を必死に押さえながら視線を逸らしている。何かを堪えているのは明らかだった。
「では、僕はまだ用事があるので、これで」
早口でそう告げると、グレアムは来た時以上の速さで部屋を後にした。逃げ足だけは一流だった。
◇
あのバカが逃げるように出て行った後、フィリア様が大きく深呼吸をして、こんなことを言ってきた。
「セ、セナ」
「はい」
「カジノ、なんて……メッ、です!」
人差し指を立てて、精一杯の勢いで叱ってくる。声は震えているし、指も若干おぼつかない。それでも、本人なりに全力で叱ってくれているのは伝わってきた。
「……」
なんだこの可愛い生き物は。
おっと、不敬だった。
「あ、あの、セナ?」
「すみません、ちゃんと聞いてます。以後、気をつけます。あと行ってないです」
「は、はい……ならいい、です」
満足げに頷くフィリア様を見て、俺はしみじみと思った。
「殿下、今の顔、もう一度見せてもらってもいいですか」
「え……な、なんで、ですか」
「いえ、貴重なので、記憶に焼き付けておこうかと」
「か、からかわないで、くださいっ!」
真っ赤になって両手で顔を隠すフィリア様を見て、俺はようやく素直に笑った。
◇
書類仕事の合間、頭の隅ではまだあの借金のことが引っかかっていた。侯爵家の後ろ盾があれば、多少の失態は簡単に揉み消せるらしい。
リーシャなら何か知っているかもしれない。そう思いつつも、あえて聞きには行かなかった。
あいつはいつも、こちらが本気で聞くまでは何も明かさない。中途半端に探りを入れたところで、はぐらかされて終わるのが目に見えている。
今はまだ、そのタイミングじゃない気がした。
窓の外を見ると、いつの間にか夕暮れが差し込んでいた。今日一日、まともに働いたのはグレアムを除いて全員だったと思うと、少しだけ滑稽な気分になる。
それでも、フィリア様のあの叱り方を思い出すと、悪くない一日だったとも思えた。