第一話:名前(アイデンティティ)
夕闇が学園都市を包み始める。
整備された高層ビル群から少し離れた河川敷には、人の気配などほとんどない。頭上を走る鉄橋を列車が通過するたび、轟音が川面を揺らし、水音と混ざり合って夜の静寂を飲み込んでいく。
そんな人気のない土手を、一組の若い男女が足早に歩いていた。
「チッ……めんどくせぇことになったぜ、本当に」
少年は制服のポケットへ両手を突っ込み、不機嫌そうに舌打ちする。
その後ろを少女が慌てて追いかけていた。胸に抱いた赤子は、不安げに小さな声を漏らしている。
「早く来いって。
声を潜めているものの、その口調には焦りと苛立ちが隠しきれていない。
「ちょっと待ってよ。この子がぐずっちゃって……」
「放っとけよ。今から捨てるガキに情なんかかけてんじゃねぇ」
少年は振り返りもしない。
「……たっく。本当にめんどくせぇ」
ようやく辿り着いたのは鉄橋の真下。
夜の闇が濃く、川の流れる音が絶えず響くそこは、誰かが泣こうが叫ぼうが気付かれることはない。
「ここで十分だろ」
少女は震える手で赤子を抱き直した。
まだ何も知らない、小さな命。
丸い瞳だけが二人を見上げていた。
「……ごめんね」
ぽつりと漏れる声。
「私たちじゃ育てられないの」
それは言い訳だった。
生活が苦しい。
将来がある。
親に反対された。
理由はいくらでも並べられる。
けれど結局は、自分たちの人生を守るため、その命を切り捨てるという一点に変わりはない。
「あなたより……私たちの方が大事だから」
少女は赤子を土手へ静かに寝かせた。
その瞬間、赤子は母親の温もりが離れたことに気付き、小さく泣き声を上げる。
少女の肩が震える。
しかし少年は苛立ったように息を吐いた。
「だからもういいって。帰るぞ」
「ちゃんと証拠は消してよ」
「分かってるって」
少年は右手を軽く振る。
指先から淡い銀色の粒子が舞い上がり、赤子へ降り注いだ。
能力名は『浄化』。
物質表面の汚れや皮脂、指紋などを分解・除去するだけの、何の役にも立たない能力。
少なくとも学校ではそう笑われていた。
だが、こんな時だけは違う。
「これで俺たちが触った痕跡は残らねぇ」
赤子の服。
毛布。
肌。
二人の痕跡だけが綺麗に消えていく。
「さ、終わりだ」
少年は一度も赤子を見ずに踵を返した。
少女も一瞬だけ振り返る。
泣き続ける赤子と目が合う。
だが、その視線から逃げるように駆け出した。
やがて二人の足音は夜の闇へ溶けていく。
残された赤子は、誰かが戻ってくると信じているのか、きょろきょろと辺りを見回していた。
母親を探すように。
何も知らないまま。
その夜、彼は世界から最初の「拒絶」を受けた。
♢
学園都市の片隅。
再開発区域から取り残されたように建つ、小さな養護施設。
壁には細かなひびが入り、冬になれば隙間風が吹き込む。
暖房は古く、夏は暑く、冬は寒い。
それでも、ここには学園都市の外から置いていかれた子供たち――
彼も、その一人だった。
名前はない。
戸籍も曖昧。
親の情報も存在しない。
生まれて間もなく捨てられたため、誰も彼をどう呼べばいいのか分からなかった。
だから施設では管理番号だけが与えられた。
「18番」
それが彼を示す全てだった。
番号で呼ばれ、番号で食事を受け取り、番号で記録される。
他の子供たちも彼には近寄らない。
名前のない子供は、どこか不気味だった。
職員も忙しい。
一人一人を気遣う余裕などなく、最低限の世話だけをして仕事へ戻る。
彼もまた、それが普通なのだと思っていた。
寂しいという感情すら知らなかった。
知らないから、傷付くこともない。
そんな毎日が、ずっと続くはずだった。
だが、一人だけ違う大人がいた。
春の終わり。
施設へ新しく赴任してきた青年職員。
瀬川。
お世辞にも優秀とは言えない男だった。
料理を作れば焦がす。
洗濯物は色移りさせる。
書類仕事は締め切りを過ぎる。
園長には毎日のように怒鳴られていた。
それでも子供たちは彼を嫌わなかった。
泣いている子がいれば一番に駆け寄り。
転べば一緒になって膝を擦りむき。
失敗しても最後まで笑っていた。
そんな、不器用で優しい人だった。
ある日の夕暮れ。
彼は庭の隅で、ただアリの行列を眺めていた。
何時間でも飽きずに見ていられる。
列を乱さず歩くアリは、自分よりずっと生きる意味を知っているように思えた。
「よう」
隣へ腰を下ろした瀬川が、缶コーンスープを一本差し出した。
「熱いから気を付けろよ」
小さな手で受け取る。
じんわりと伝わる温もり。
「お前、まだ名前がないんだってな」
彼は黙って頷いた。
「番号で呼ばれるの、嫌か?」
首を横に振る。
嫌という感情が分からなかった。
「……そっか」
瀬川は困ったように笑う。
「でもな、俺が嫌なんだ」
そう言って立ち上がり、夕焼け空を見上げた。
茜色から群青へ。
どこまでも広がる学園都市の空。
「『空』。そういう名前はどうだ?」
彼はゆっくり顔を上げる。
「空は広い。何にでもなれる。限界なんかない。だから、お前もそうなってほしい。誰にも決められない、お前だけの人生を歩いてほしい」
空。
その二文字を、小さく口の中で転がす。
「……そら」
初めて自分のものになった言葉。
番号ではない。
記号でもない。
自分だけの名前。
「おう。…あー、苗字もいるか…よし。今日からお前は瀬川空だ」
大きな手が頭を乱暴に撫でる。
痛いくらいなのに、不思議と嫌じゃなかった。
缶コーンスープよりも。
夕焼けよりも。
その手はずっと温かかった。
その日初めて。
彼は、自分はここにいていいのだと思えた。
ーそれが執着だった。
ーそれが愛情だった。
まだ幼すぎた彼は、その感情の名前すら知らない。
そして、この学園都市で。
実験動物として生かされるモルモットが、誰かを愛することがどれほど残酷な結末を招くのかも。
この時の彼は、まだ知らなかった。
小説はおろか、二次創作も初めてなので至らぬ点も多々あるかもしれませんが、多少のミスは多めに見ていただけると幸いです。