七月下旬。
連続爆破事件の傷跡がようやく薄れ始めた学園都市に、新たな都市伝説が静かに広がり始めていた。
――『
音楽ファイルを聴くだけで能力が向上する。
そんな都合の良い話を、最初は誰も本気にしていなかった。
学生たちは笑い話として噂を交わし、教師たちは「くだらない都市伝説」と一蹴し、風紀委員も当初は悪質なデマ程度に考えていた。
だが、その認識は長く続かなかった。
低能力者や無能力者が突如として高い出力を発揮し始める。
これまで成功しなかった能力実験が、急に成功する。
そして、その直後に意識不明へ陥る学生が各地で相次いだ。
偶然で片づけるには、あまりにも件数が多すぎた。
いつしか都市伝説は「噂」ではなく、現実の事件として学園都市全体を飲み込み始めていた。
♢
深夜。
第七学区外れにある廃研究所。
静まり返った地下フロアでは、壁一面を埋め尽くすモニターだけが青白い光を放っている。
画面へ映し出されているのは、幻想御手の音声波形。
それと、使用後に昏睡状態へ陥った学生たちの脳波データだった。
空は極甘の缶コーヒーを片手に椅子へ深く腰掛け、眉間をゆっくり揉む。
「……気持ち悪い。」
ぽつりと漏れた独り言が、人気のない研究所へ吸い込まれていく。
音声波形を拡大する。
脳波データと重ね合わせる。
演算式を書き起こし、理論を分解し、もう一度組み立て直す。
数分後、空は静かに息を吐いた。
「脳波を同期させてるのか。」
一人の脳だけではない。
使用者同士の脳波を強制的に接続し、一つの巨大な演算ネットワークを形成している。
その集合演算能力を利用し、本来の能力以上の出力を引き出しているのだ。
理屈だけなら理解できる。
能力開発として見ても、発想自体は決して間違ってはいない。
しかし。
「……これだけは駄目だ。」
空は画面から目を逸らした。
彼の能力、
他者の能力や術理を、自らの演算領域へ写し取り再現する能力。
だからこそ、絶対に踏み込んではならない領域が存在する。
精神干渉。
記憶操作。
そして、ネットワーク接続型能力。
理由は単純だった。
「俺の
幼い頃、自ら壊した心。
何も残っていない空洞。
だからこそ、あらゆる能力を受け入れられる。
だが逆に言えば、その器へ誰かの精神が直接流れ込めば、自分と他人の境界は簡単に崩壊する。
もし幻想御手を深追いしたらどうなるか。
空自身の精神が壊れるだけでは済まない。
接続された数千人規模のネットワークへ、自分という”異物”が混入する。
演算領域そのものが暴走し、ネットワーク全体を巻き込んで破壊する可能性すらあった。
「最悪。」
空は静かに呟く。
「接続してる学生全員の脳が焼き切れる。」
想像するだけで背筋が冷える。
万能に見える能力にも、越えてはならない一線がある。
今回ばかりは、その一線の向こう側だった。
「……静観するしかないか。」
それが掃除屋として導き出した結論だった。
♢
翌日の午後。
常盤台中学での特別講師としての授業を終えた空は、夕暮れに染まり始めた街を歩いていた。
夏休み前の校舎はどこか浮き足立ち、生徒たちの笑い声があちこちから聞こえてくる。
そんな帰り道。
公園のベンチへ、一人で座り込む少女の姿が目に入った。
「……佐天さん?」
少女はびくりと肩を震わせ、慌てて振り返る。
「あ……瀬川さん。」
無理に笑おうとしている。
だが、その笑顔は先日ファミレスで見せた屈託のないものとは違っていた。
どこか疲れ切っていて、今にも崩れてしまいそうだった。
「どうしたの?そんな暗い顔して。」
「い、いえ!」
佐天は慌てて首を振る。
「何でもありません!」
空は何も言わず、その表情を見つめた。
微かに揺れるAIM拡散力場。
普段とは異なる演算の癖。
そして、僅かに残る
それだけで十分だった。
(……使ったんだな。)
問い詰める気にはなれなかった。
能力が欲しい。
皆と同じように何かできるようになりたい。
その願いを否定する資格など、自分にはない。
自分は願うことすらやめた人間なのだから。
「……そっか。」
それだけ呟く。
佐天は不安そうに視線を伏せた。
「瀬川さん。」
「うん?」
「もし……。」
言いかけて、言葉が止まる。
助けてほしい。
そう言いたいのだろう。
けれど、自分で選んだことを打ち明ける勇気もない。
空は小さく笑った。
「何かあったら。」
佐天が顔を上げる。
「御坂さんを頼って。白井さんでも、初春さんでもいい。」
穏やかな声だった。
「三人とも、君を一人にはしない。」
「……。」
「だから、一人で抱え込まなくていい。」
佐天の瞳が小さく揺れる。
何かを言おうとして、結局何も言えず、小さく頷くだけだった。
「ありがとうございます……。」
その声を聞き届けると、空は軽く手を振って歩き出す。
振り返らない。
立ち止まらない。
(俺が寄り添う役じゃない。)
佐天涙子を救うのは、美琴たちだ。
白井がいて。
初春がいて。
佐天の涙を受け止める友達がいる。
それで十分だ。
表の事件は、表の人間が解決する。
空はそのことを、誰より信じていた。
♢
ポケットの中で携帯端末が小さく震えた。
暗部専用回線。
画面へ短い文章が表示される。
『木山春生の潜伏先を特定』
その名前を見た瞬間、空の表情から笑みが消えた。
幻想御手の開発者。
この事件の鍵を握る研究者。
もっとも、彼女を捕らえるのは自分ではない。
自分の役目は、その舞台裏を整えることだ。
「……俺は、俺の仕事をするだけだ。」
端末をポケットへしまい、夕闇が街を包み始めた路地裏へ足を踏み入れる。
昼は特別講師。
夜は暗部の掃除屋。
相反する二つの顔を抱えながら、瀬川空は誰にも知られぬまま、再び学園都市の闇へと姿を溶け込ませていった。