数日後。
『幻想御手』による連続昏睡事件は、初春飾利が完成させたワクチンプログラムの配布によって終息を迎えた。
学園都市のニュースでは、事件解決に貢献した風紀委員や警備員の活躍が連日報じられている。
御坂美琴の名前こそ表には出なかったものの、現場にいた者たちは皆、あの少女がどれほどの危険を背負って戦ったかを知っていた。
そして、その陰で誰にも知られることなく動いていた一人の少年の存在を知る者は、誰一人としていなかった。
♢
病院。
白い廊下に消毒液の匂いが漂う。
空は見舞客に紛れながら静かに病室の前まで歩き、閉まりきっていない扉の隙間から中をそっと覗いた。
「佐天さん! 本当に良かったです!」
「もう心配させないでくださいまし!」
「ごめん、ごめんってば!」
病室の中では、佐天涙子が照れくさそうに笑っていた。
その隣には安心したように肩の力を抜く初春。
呆れながらもどこか嬉しそうな白井黒子。
窓際にもたれかかり、「まったく世話が焼けるんだから」と口では文句を言いながらも、誰より安堵した表情を浮かべる御坂美琴。
泣き声と笑い声が入り混じる、賑やかな空間。
事件の前と変わらない、ありふれた少女たちの日常だった。
その様子を見届けると、空は小さく口元を緩める。
「……これでいい」
誰にも聞こえないほど小さな声。
自分の仕事は終わった。
あの輪の中へ入る資格はない。
あそこで笑うべきなのは、自分ではなく彼女たちだ。
踵を返し、足音を立てないよう病院を後にする。
振り返ることはなかった。
♢
その日の夕方。
第七学区駅前。
いつものファミリーレストランには、相変わらず騒々しい声が響いていた。
「はぁぁぁ……何で夏休みなのに毎日補習なんだよぉ!」
テーブルへ突っ伏した上条当麻が心の底から嘆く。
「ひとえにカミやんが授業中に寝るからぜよ。因果応報ってやつにゃー」
土御門元春がアイスコーヒーを片手に楽しそうに笑う。
「いやいや土御門はん、それ以前にカミやんは宿題提出率も壊滅的やからな!」
「うっせぇ! 青髪、お前にだけは言われたくねぇ!」
「瀬川はんを見習わんかい! 第8位で成績優秀、料理もうまい。まさに完璧超人や!」
突然話を振られた空は、飲みかけのメロンソーダを危うく吹き出しそうになった。
「やめてよ、青髪。俺だって授業中寝すぎて補習ギリギリだったんだから」
「それでも補習回避してる時点で十分化け物だろ!」
上条が恨めしそうな目を向ける。
「脳みそ交換してくれ!」
「そんな便利な能力は持ってないよ」
「第8位なら何とかなるやろ!」
「ならないって」
笑い声が店内へ広がる。
空も自然と笑っていた。
演技ではない。
心の底から漏れた笑いだった。
テーブルにはフライドポテト。
ドリンクバーのメロンソーダ。
そしていつもの極甘缶コーヒー。
昼はこんな他愛もない話で笑い合う。
夜には誰にも知られず血を流す。
その落差はあまりにも大きい。
それでも、この時間だけは自分も普通の高校生になれる気がした。
「そういや空、お前さん目が赤いぜよ」
土御門が不意に言う。
サングラス越しの視線は鋭い。
暗部に生きる者だけが持つ観察眼だった。
「夜更かしかにゃー?」
空は一瞬だけ右目に触れる。
数日前、AIMバースト戦で毛細血管が破裂した眼球。
能力によって傷は塞がったものの、まだ充血だけは残っていた。
「ああ……ちょっとゲームやりすぎちゃって」
笑って誤魔化す。
「ほどほどにしとけよ」
上条が欠伸混じりに言った。
「寝不足は体に悪いぞ」
その何気ない一言が、不思議なくらい胸へ染み込んだ。
(……ありがとう)
口には出さない。
出せるはずもない。
それでも。
どれだけ血を吐こうと。
どれだけ身体が壊れようと。
明日もまた、この席へ戻って来よう。
そう思える場所があるだけで十分だった。
♢
夜。
第七学区外れ。
人の気配もない巨大な廃研究所。
重い鉄扉を開けると、湿った空気が静かに流れ出してくる。
「……ただいま」
返事はない。
当然だ。
この建物には空しか住んでいない。
広すぎる廊下を歩く足音だけが、何度も壁へ反響する。
明かりを点ける。
無機質な蛍光灯が研究設備の並ぶ室内を白く照らした。
巨大な実験室。
使われなくなった培養槽。
止まったままのコンソール。
この研究所は暗部の仕事に対する報酬として与えられたものだった。
本来なら一人で暮らすには広すぎる。
掃除だけでも一苦労だ。
それでも、誰かを雇う気にはなれなかった。
誰かが住めば、失うかもしれない。
そんな未来を考えるだけで胸が重くなる。
キッチンへ立つ。
冷蔵庫から特売品の豚肉と玉ねぎを取り出し、生姜焼きを作り始めた。
包丁の音。
肉の焼ける音。
醤油と生姜の香り。
静まり返った研究所では、そのすべてが妙に大きく聞こえる。
出来上がった皿を食卓へ運び、向かい側の空席をぼんやり眺めた。
「……いただきます」
返事はない。
箸を動かす。
味は悪くない。
むしろ、自分好みに作っている分、そこらの定食屋より美味しいとさえ思う。
それでも、何かが足りなかった。
空は胸へそっと手を当てる。
(俺は、器だ)
他人の能力を詰め込み。
他人の日常を守る。
そうしていなければ、自分という空洞は形を保てない。
そんな生き方を、自分で選んだ。
「……いつか、この家にも誰か来る日があるのかな」
独り言が静かな部屋へ溶ける。
答える者はいない。
失うのが怖くて、自分から距離を置いてきた。
誰も近づけないようにしてきたのは、自分自身だった。
空は小さく笑い、冷めかけた生姜焼きを口へ運ぶ。
その時の彼は、まだ知らない。
あと一か月もしないうちに、この静寂だけが支配していた廃研究所へ、五人の少女たちがやって来ることを。
「代替品」と呼ばれ、行き場を失った少女たち。
そして、自らを「空っぽの器」と呼ぶ少年。
どこにも居場所がない者同士が出会った時、この研究所はようやく研究施設ではなく、一つの「家」へと姿を変えていく。
それは瀬川空にとって、初めて手にする「家族」と呼べる日常の始まりだった。