七月下旬。
アスファルトから立ち上る陽炎が、高層ビル群の輪郭をぐにゃりと歪ませる。
照りつける真夏の太陽が街を焦がす学園都市第七学区。駅前に広がるアーケードの入り口付近には、涼を求める学生たちで賑わう人気のクレープ屋があった。
色鮮やかなパラソルが日陰を作るテラス席には、四人の少女たちの姿がある。
御坂美琴、白井黒子、初春飾利。
そして、数日間にわたる原因不明の昏睡状態から無事に目を覚まし、退院を果たしたばかりの佐天涙子だ。
「ん〜っ! やっぱりシャバの甘いものは最高ですね!」
チョコバナナクレープを大口で頬張り、口の周りにクリームをつけながら、佐天が満面の笑みを浮かべる。
「もう、佐天さんったら。少しは落ち着いて食べてくださいよ。ほら、クリームついてます」
初春が呆れたように笑いながら、紙ナプキンを差し出して親友の口元を拭う。
「仕方ありませんわね。無味乾燥な病院食ばかりでさぞ退屈していたのでしょうから、今日くらいは大目に見て差し上げますわ。お代はお姉様持ちですし」
黒子がアイスティーのカップを優雅に傾けながら、ちくりと毒を混ぜる。
「ちょっと黒子、アンタまでちゃっかり一番高いの頼んでるじゃないのよ……」
美琴はため息をつきつつも、ストローを咥えながら楽しそうに目を細めていた。
「でも、本当に良かったわよ。一時はどうなることかと思ったんだから」
「ご心配おかけしました! でも、御坂さんや白井さん、初春のおかげでもうすっかり元気ですから! これから夏休み本番、遊び倒しますよー!」
どこにでもある、平和で穏やかな休日の午後。
友達を心配し、無事を喜び、些細なことで笑い合う。この街で生きる学生たちの、当たり前で尊い日常。
その光景を、瀬川空は大通りの喧騒から少し離れた雑居ビルの日陰から、静かに見つめていた。
手には、結露で濡れたいつもの極甘缶コーヒー。
「……うん。元気そうで何よりだ」
小さく呟き、口元を緩める。
数日前、巨大な化け物『AIMバースト』が崩壊したあの日。
現場で戦っていた美琴や、応援に駆けつけた風紀委員たちを巻き込もうとした数百トンの瓦礫の雨を、空は死角から能力を同時展開して防ぎ切った。
その代償は、まだ空の肉体に色濃く残っていた。
全身の細胞が、悲鳴を上げている。
右目の充血は、バックグラウンドで『肉体再生』の演算を昼夜問わず回し続けて、ようやく赤みが引いてきた程度だ。無理な並列処理によって限界を突破した脳の血管や、ズタズタに引き裂かれた筋肉繊維は、呼吸をするだけで鈍い痛みを脳髄へ送ってくる。
「あいたた……」
軽く肩を回しただけで、肋骨の奥がギチギチと軋むように痛んだ。
普通なら入院どころか、集中治療室で絶対安静を命じられる状態だ。痛覚を遮断していなければ、まともに立つことすらできないだろう。
それでも、テラス席で四人が心の底から笑い合っている姿を見れば、これくらいの痛みなど安いものだと思えた。
彼女たちが明日も笑えるようにするのが、自分の仕事なのだから。
缶コーヒーを飲み干し、踵を返して路地裏へ消えようとした、その時だった。
「あ! 瀬川さんー!」
人混みの中から、よく通る明るい声が響いた。
(……見つかったか。まぁ、目立つ場所にいた俺が悪いんだけど)
空は瞬時に、呼吸の乱れや痛みを押し殺し、「いつもの完璧な笑顔」を作り上げて振り返る。
テラス席のパラソルの下で、クレープを持った佐天が、ぶんぶんと大きく手を振っていた。それに気づいた美琴たちも、こちらを見て手招きしている。
「奇遇だね、みんな」
空がゆっくりとした足取りでテラス席へ歩み寄ると、佐天が勢いよく立ち上がった。
「先日は公園で声をかけていただいて、ありがとうございました。あの時は……なんか変な態度とっちゃって、すみません!」
深々と頭を下げる佐天に、空は困ったように笑って軽く手を振る。
「いやいや、謝ることなんて何もないよ。無事に退院できて本当に良かった。今日は退院祝いの最中だったかな?」
「はい! 御坂さんたちが快気祝いに奢ってくれるって言うんで、遠慮なく食べまくってます!」
「あんたねぇ……私の財布の残金も少しは気にしなさいよ」
美琴がジト目で突っ込みを入れつつ、ふと空の顔をじっと見上げた。
「……アンタ、また隈がひどくなってるじゃない。目もまだ少し赤いし。本当にゲームのやりすぎなの?」
「うっ……」
「まさか、夏休みの課題を溜め込んで徹夜しているとかではありませんの?」
黒子が鋭い視線を向けて追及してくる。
「いや、課題はもう終わらせたよ。ちょっと……うん、深夜のバイトが忙しくてね」
「高校生が深夜バイトって、校則違反じゃないんですか?」と初春が小首を傾げる。
「まぁ、特別な許可をもらってる裏方の仕事だからね。学校には内緒にしておいてよ」
空は冗談めかして、人差し指を唇に当てて見せた。
嘘ではない。
学園都市統括理事長・アレイスター=クロウリー直属の暗部『掃除屋』という、この上なく特別で、完全にブラックな裏方の仕事だ。
「それじゃ、俺はこれから用事があるから。お祝いの邪魔をしちゃ悪いしね。みんな、残りの夏休みを思いっきり楽しんで」
空はそう言って、四人に軽く手を振った。
「はい! 瀬川さんもバイト頑張ってください! でも、あんまり無理しないでくださいね!」
佐天の屈託のない明るい声に見送られながら、空は再び人混みへと紛れていく。
背中越しに聞こえる少女たちの笑い声が、少しずつ遠ざかっていった。
♢
大通りの喧騒から外れ、薄暗く湿った路地裏へ足を踏み入れた瞬間。
空の顔から、スッと作り物の笑顔が消え去った。
「っ……げほっ……!」
壁に手をつき、小さく咳き込む。
喉の奥から込み上げてきた微かな血の味が、口の中に広がった。
(まだ、内臓の修復が追いついてないか……。並列処理の負荷は、やっぱり洒落にならないな)
ごくりと血を飲み込み、荒い息を吐き出す。
痛みを堪えながら、一度だけ振り返る。
遠く光の当たる大通りの向こう、色鮮やかなパラソルの下では、四人の少女が楽しそうに笑い合っている。あの場所だけが、切り取られたように輝いて見えた。
「……あそこは、俺の居場所じゃない」
光が眩しければ眩しいほど、自分が立っている足元にある闇の深さを実感する。
昼の光の下で笑い合う彼女たちと、夜の闇の中で血を洗い流す自分。
交わることのない二つの世界。
それでも。
あの笑顔を守れるのなら。
この学園都市の平和な日常を、空っぽの器に詰め込むことができるのなら。
自分はどれだけ泥に塗れ、血を吐き、身体が壊れても構わない。
空は、血の滲む唇をわずかに吊り上げ、一人きりの深い闇の中を、痛む足を引きずりながら歩き出した。
誰も彼を褒めることはない。
それでも、少年の足取りに迷いはなかった。