翌日。第七学区の高校。
夏休み初日を迎えたというのに、校舎の一角にある教室だけは、うだるような熱気と絶望に満ちた叫び声が充満していた。
窓の外では蝉がけたたましく鳴いている。
「なんで夏休み初日から補習なんだよぉぉっ!」
上条当麻が机に突っ伏し、頭を抱えて悶絶している。
「カミやんが日頃の小テストをサボりまくったツケだにゃー。自業自得ってやつぜよ」
土御門元春が呆れたように言いながら、器用にペンを回して見せる。
「上条はん、ここは一つ、吹寄はんに土下座して泣きつくというラブコメ展開を……!」
「あいつがそんなんで許してくれるタマかよ! つーか青髪、お前も俺と同じ補習組だろうが!」
「甘いなカミやん。俺は補習という名の『小萌先生鑑賞イベント』を至近距離で体験するために、意図的にテストの点数を調整して参加してるんやで。この努力が分からんか!」
「ただの変態じゃねぇか!」
いつもの騒がしい三人組のやり取りを、瀬川空は一番後ろの席で頬杖をつきながら眺めていた。
手元には、プルタブを開けたばかりの極甘缶コーヒー。一口飲むごとに、疲れ切った脳髄へ暴力的なまでの糖分が染み渡っていく。
「瀬川ちゃん」
プリントの束を抱えた担任の月詠小萌が、不思議そうに首を傾げながら歩み寄ってきた。
「瀬川ちゃんは成績優秀で補習の必要なんてないのに、どうしてわざわざ学校に来てるんですかー? 先生、瀬川ちゃんの名前をリストに入れた覚えはないのですよ?」
「あー……」
空は困ったように笑い、缶コーヒーを軽く揺らす。
「家にいても暇ですし、学校のクーラーで涼みに来ただけですよ。あと、こいつらが隙を見て逃げ出さないように監視役です」
「くそっ、嫌味なやつだぜ……!」と机に突っ伏したままの上条が唸る。
「えへへ、瀬川ちゃんは真面目ですねぇ。でも、せっかくの夏休みなんだから、たまには高校生らしく遊ぶことも大切なのですよ?」
小萌先生が背伸びをして空の肩をポンポンと叩く。空は「善処します」と苦笑いで応えた。
(……本当は)
窓の外に広がる青空を見上げる。
(誰もいないだだっ広い家に、一人でいるのが息苦しかっただけなんだけどな)
そんな弱音ともとれる本音は、甘ったるいコーヒーと一緒に胃の奥へ流し込んだ。
♢
その日の夜。
空は、第七学区の外れにある廃研究所へと帰還した。
重い鉄扉を開けると、油と埃の混じったような無機質な匂いが鼻を突く。
学園都市統括理事長・アレイスターから「生活拠点」として与えられたこの場所は、地下から地上多層階にまで及ぶ巨大な複合研究施設だ。
かつてここで何の実験が行われていたのか、空は知らない。だが、一通りの分野の機材や自家発電設備まで備わっており、空の知的好奇心を満たし、触媒を加工するだけならこれ以上ないほどの施設だった。
「……」
歩くたび、自分の足音だけがやけに大きく響く。
広すぎるリビング。多すぎる空き部屋。止まったままの巨大なコンソール。
一人の少年が生活するには、あまりにも持て余す、そして冷たすぎる空間だった。
空は無言のまま洗面所へ向かい、制服の上着とシャツを脱ぎ捨てる。
蛍光灯の白い光に照らされた鏡の中。
そこに映る自分の上半身には、無数の青痣と、まだ癒えきっていない痛々しい傷跡が網の目のように刻まれていた。
連日の暗部の仕事。そしてAIMバースト戦での限界を超えた並列演算の代償。
「エミュレート――『肉体再生』」
瞳から光が消える。
無意識領域で演算を構築し、細胞の分裂と修復を強制的に加速させる。
「っ……ぁ、ぐ……!」
細胞が無理やり結合し、千切れた筋繊維が強制的に縫い合わされる感覚。ジリジリと肉が内側から焼けるような激痛に顔を歪め、洗面台の縁を強く握りしめる。
治癒能力などという便利なものではない。これは寿命を前借りして肉体を繋ぎ止める、自傷行為に近い荒業だ。
荒い息を吐きながら、空は引き出しから取り出した包帯を、無造作に胴体へ巻き直した。
治療を終えると、地下の作業台に向かう。
冷たいスチール製の机の上には、大量のビー玉、プラスチックの油性ボールペン、そして新品のトランプが整然と並べられていた。
彼の能力『
空は布を手に取り、一つ一つ丁寧に拭き上げ、傷や歪みがないかを確認していく。
(俺の能力は、一度見た能力の術理をコピーすることはできても、器である俺自身の『出力』には限界がある。第一位や第三位のような、理不尽なまでの単体火力は出せない)
だからこそ、物理法則や環境、こうした日用品の触媒に能力を付与し、足りない火力を補うしかない。
単なるビー玉に『摩擦ゼロ』と『運動エネルギー』を乗せ、音速を超える弾丸に変える。
百円のペンに『直進』と『刺突』のベクトルを付与し、鋼鉄を貫く槍に変える。
空っぽの自分を偽装し、この街の裏側で生き残るための、大切な相棒たちだった。
メンテナンスを終え、空は静まり返った研究所の二階、居住エリアを歩く。
おそらくかつては、住み込みで働いていた研究員たちの寮だったのだろう。
大きな対面式キッチンに広いダイニング。その奥には、自分が寝泊まりしている部屋の他に、使われていない空き部屋がいくつか並んでいる。
ドアを開けても、ベッドも机もない、ただの伽藍堂だ。
「……デカすぎるんだよな、やっぱり」
空は開け放たれた空き部屋のドア枠に寄りかかり、小さく息を吐いた。
養護施設で暮らしていた頃は、隙間風の吹く狭い部屋に、何人もの子供がひしめき合っていた。
騒がしくて、自分のスペースなんてなくて、鬱陶しくて。
でも……温かかった。
「瀬川さん」
自分に名前をくれた、たった一人の不器用な大人の笑顔が脳裏をよぎる。
炎に包まれ、真っ黒な炭になって自分を庇い死んでいったあの日の記憶。
(俺は、あの日から空っぽのままだ)
何かを望めば、失う。
誰かを愛せば、傷つく。
だったら最初から、誰も中に入れなければいい。
この広すぎる空間を、誰かの存在で埋めようとは、もう二度と思わない。
空は部屋の電気を消し、暗闇の中で静かに瞳を閉じた。
(……それでも)
昼間、学校の教室で馬鹿みたいに騒いでいた上条たちの顔が浮かぶ。
クレープ屋で、退院を心の底から喜んでいた佐天たちの笑顔が浮かぶ。
あの「ありふれた日常」が、どうしようもなく眩しくて、愛おしかった。
自分が決して手に入れることのできないものだからこそ、守りたかった。
「俺の特等席は、
冷たいコンクリートの壁に背中を預けながら、瀬川空は静かな夜に一人、覚悟の言葉を闇へ溶かした。
数日後。
この科学の街に「魔術」という全く新しい理不尽が空から降ってきて、親友である上条当麻とともに、彼の日常がさらなる混沌へと巻き込まれていくことを。
この時の空は、まだ知らない。