第十七話:異物の残滓(オカルト・トレース)
夏休みに入って数日が過ぎた、七月下旬。
学園都市の空は巨大な入道雲に覆われ、ジリジリと肌を焼くような日差しがアスファルトを焦がしていた。街路樹からは、暑さをさらに煽るような蝉の鳴き声がやかましいほどに響き渡っている。
「……おかしいな」
第七学区。上条当麻が住む鉄筋コンクリートの学生寮の前で、瀬川空は一人、訝しげに眉をひそめていた。
手にはコンビニのビニール袋。中には、極甘の缶コーヒー数本と、上条が好きそうな惣菜パンがいくつか入っている。
ここ数日、上条と連絡がつかない。
普段なら「不幸だー!」と嘆きながらも、誘えば必ず顔を出すし、くだらないメッセージの返信も早い。あの底抜けにお人好しで寂しがり屋な男が、夏休みの初っ端から数日も音信不通になるのは、いくらなんでも不自然すぎる。
胸騒ぎを覚え、差し入れにかこつけて学生寮まで足を運んだ空だったが、上条の部屋のチャイムを何度鳴らしても応答はなかった。
「留守、か……。またどこかで不良に絡まれて、不幸を嘆いてるのか?」
小さくため息をつき、踵を返そうとした、その時だった。
『ジャリ』。
空の足元で、スニーカーの靴底が奇妙な音を立てた。
視線を落とす。廊下の端、非常階段へと続く踊り場の床。コンクリートの表面が、直径一メートルほどにわたって黒く変色している。
「火事……じゃないな」
空はしゃがみ込み、その焦げ跡に指を触れた。
強烈な違和感。
学園都市の暗部で掃除屋として立ち回る中で、
だが、この焦げ跡は物理的な燃焼の痕跡とは決定的に異なる。
発火能力者が火を放てば、周囲の酸素を急激に消費し、必ず不完全燃焼による煤が発生する。プラスチックや塗料が溶けた嫌な匂いも残るはずだ。
しかし、この焦げ跡にはそれがない。
まるで『そこだけ世界から切り取られ、別の法則で黒く塗りつぶされた』かのように、不自然なまでに「綺麗すぎる」焦げ跡だった。熱量だけが一方的に叩きつけられ、化学反応のプロセスを完全に無視している。
――瞬間。
空の脳裏に、幼い頃の記憶がフラッシュバックした。
『走れ!!』
猛烈な熱波。
酸素を喰らい尽くし、生き物のように壁を這い回る紅蓮の炎。
『……空。生きろ』
自分を抱きしめ、炎の盾となって炭のように黒く焼け焦げていった恩人・瀬川の背中。
そして、あの夜、燃え盛る炎の中から現れた男の姿。
黒いローブを纏い、祈るように意味不明な言語を紡ぎ、杖を振るって理不尽な炎を生み出した異物。
「っ……あ……!」
空は弾かれたように後ずさり、背中を激しく壁に打ち付けた。
「はっ……ぁっ……」
息が荒くなる。心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が全身の毛穴から一気に噴き出した。
視界が歪む。耳の奥で、肉が焼ける音がリフレインする。鼻の奥に、こびりついて離れない焦げ臭さが蘇る。
「エミュレート……『自律神経制御』……『痛覚遮断』……っ!」
震える声で、演算を強制起動する。
恐怖で暴走しそうになる精神と肉体を、他者の能力を脳に上書きすることで無理やり押さえつける。
荒い呼吸が、少しずつ、機械的に整っていく。
冷え切った頭で、目の前の焦げ跡を再度見据えた。
間違いない。
科学の炎ではない。物理法則を踏みにじる、世界を書き換える理不尽。
『
学園都市には絶対に存在してはならない異界の理が、上条当麻の周囲で使われている。
しかも、これはただの魔術ではない。
「……あの時の、炎か」
空の瞳の奥で、暗い炎が揺れた。
幼い頃、自分の全てを奪い去り、自分を空っぽの器に変えたあの理不尽。その残滓が、親友の住む場所にある。
空は震えを止めた手で携帯端末を取り出し、暗部のデータベースへアクセスした。
上条の学生寮周辺の監視カメラ映像。不審者の侵入記録。近隣での異常気象データ。
「……ない」
何も出ない。
データがないのではない。数日分の記録が、丸ごと『なかったこと』にされている。巧妙なダミーデータがループ再生され、侵入者の痕跡だけがシステム上から完全に拭い去られていた。
風紀委員や警備員レベルの権限ではない。統括理事会の、それも最上位の権限による隠蔽。
いや、違う。
「
学園都市の厳重な監視網を掻い潜って魔術師が侵入するなど、あり得ない。
アレイスターは知っていて、泳がせているのだ。
そして、上条当麻の持つあの『異能を打ち消す右手』を、魔術師とぶつけるために盤上に上げた。
「……ふざけんなよ」
空の口から、低く、氷のように冷たい声が漏れた。
瞳から普段の温厚でニコニコした光が完全に消え失せる。
トラウマによる恐怖を、どす黒い怒りが完全に塗り潰していく。
「あいつの日常を、俺の親友を、お前の盤上のモルモットにする気か」
上条当麻は、弁当のおかず一つでバカみたいに笑う、ただの高校生だ。
空っぽの自分に『居場所』を作ってくれた、大切な日常の象徴だ。
それを、自分の掌の上で踊らせ、使い潰そうとするアレイスターの思惑。
そして、あの日と同じ理不尽を親友に叩きつけた魔術師の存在。
空は、焦げ跡から立ち上がった。
足元に転がっていたビニール袋から極甘の缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けて一気に喉へ流し込む。脳へ暴力的な糖分を送り込み、思考を極限まで加速させる。
(上条の性格だ。あいつは絶対に、目の前の人間を見捨てない。自分が傷つくことを恐れず、真っ直ぐに突っ込んでいく)
表の主人公が、未知の理不尽に立ち向かっているのなら。
俺は、あいつが背中を刺されないように、舞台裏の敵を全て排除する。
「待ってろ、上条」
空は学生寮を背にして歩き出した。
その顔はもう、気の良いクラスメイトのものではない。
学園都市の不都合を消し去り、矛盾を修正し、痕跡すら残さない――暗部の『掃除屋』としての冷酷な顔だった。
夏の熱気すら凍りつかせるような決意を胸に、瀬川空は魔術の気配が残る街の深淵へと足を踏み入れた。