七月二十八日、深夜。
学園都市の空は、厚い雲に覆われていた。星の光すら届かない重苦しい暗闇の中、第七学区の学生寮から少し離れた雑居ビルの屋上に、瀬川空は一人立っていた。
手には、自販機で買ったばかりの極甘の缶コーヒー。表面に浮かんだ水滴が、生温かい夜風に吹かれて指先を伝い落ちる。
だが、今の彼には、そのプルタブを開ける余裕すら残されていなかった。
「……何だ、あのエネルギー量は」
空の研ぎ澄まされた感覚が、 小萌先生の家から膨張し続ける、巨大な力の渦を捉えていた。
部屋の中には上条当麻と、先日空が目撃した銀髪のシスター。そして建物の外には、上条の寮の非常階段に魔術の痕跡を残したであろう二人組の魔術師の気配がある。
しかし、今彼らが直面しているのは、暗部の掃除屋として空が日常的に処理しているような、裏社会の小競り合いなどという次元の脅威ではない。
ゴウッ……!!
空気が震えた。いや、空間そのものが恐怖に悲鳴を上げたのだ。
夜空に向けて真っ白な光の柱が撃ち出された。
『
地球そのものを貫き、人工衛星すらも容易く消し飛ばす、伝説に語られる神の領域の魔術。
上条当麻は、その絶対的な理不尽に対して、自身の右手を真っ直ぐに突き出していた。
凄まじい光と轟音が弾ける。上条の右手が神の力を打ち消そうと拮抗し、巨大な光の柱は空中で乱反射を起こし、無数の『光の羽』となって四方八方へと飛散し始めた。
それは、一つ一つが街のブロックを丸ごと消し飛ばすほどの破壊力を秘めた破片。
「……っ! させるか!!」
光の余波が、学園都市のビル群や、夜空に浮かぶ人工衛星へ向かって降り注ごうとする。
もしこれが街に落ちれば、周囲は焦土と化し、数え切れないほどの命が失われる。上条が命懸けで事件を解決したとしても、彼が帰るべき日常の舞台そのものが崩壊してしまう。
空は懐から、一ダースの真新しいトランプを取り出し、夜空へ向けて一斉に放り投げた。
「エミュレート――『フルバースト』!!」
脳内に掛けられていた
《空間座標》の指定。
《空力使い》によるベクトル操作。
《念動力》による物理障壁の展開。
それらを、宙を舞うトランプ十二枚の『一枚一枚』に個別付与し、空中で巨大かつ複雑な防護陣形を組ませる。
さらに、これほどの異常な負荷に耐え切るため、バックグラウンドで《肉体再生》と《痛覚遮断》を強制起動。
同時に『五つ』の高度な能力演算の並列処理。
空自身のキャパシティである「四つ」の限界を、致命的にオーバーした自殺行為だった。
空から降り注ぐ神の光の破片が、空の張った十二枚の不可視の防護網と衝突した。
ドゴォォォォォォォォォン!!!
音のない、光の爆発。
光の破片が念動力の壁に激突し、空力使いの風に煽られ、空間座標の指定によって軌道を強制的に逸らされ、宇宙空間へと無害に散っていく。
しかし、防いだ衝撃と魔力的なフィードバックは、すべて演算の主である空の脳髄へと直接叩き込まれた。
「ぐぁ、ああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
空の全身の毛細血管が悲鳴を上げ、皮膚の至る所から鮮血が噴き出した。
神の力を、矮小な人間の器で受け止める。
完全な空洞であり、あらゆる能力を行使できる大容量の演算領域を持つ彼であっても、この情報量と負荷は処理しきれない。
右目から、左目から。鼻から、両耳から。
黒々とした血が滝のように流れ落ち、コンクリートの床を赤く染めていく。
視界は真っ赤に染まり、両眼の眼球は内側からの圧力で今にも破裂しそうだった。
「がはっ……ごほっ……!」
血反吐を吐き散らしながら、それでも空は、両手を天に掲げ続けた。
《痛覚遮断》を展開していても、脳が直接焼き切られるような幻痛だけは消し去れない。細胞が崩壊する端から《肉体再生》で無理やり繋ぎ止め、血で滑る足を踏ん張り、ただひたすらに空の上の破片を弾き続ける。
トランプは一枚、また一枚と負荷に耐えきれず灰になって消えていく。そのたびに残りのカードへ演算を集中させ、網の目を維持する。
「まだだ……! あいつが、親友が……命懸けで守ろうとしてるんだ……!」
上条当麻は今、目の前のたった一人の少女を救うために、己の命すらチップにして戦っている。
あのお人好しの馬鹿は、そういう男だ。
自分が傷つくことなんて微塵も考えず、他人のために真っ直ぐに手を伸ばす。
空は、そんな親友が大好きだった。
自分が空っぽの偽物だからこそ、彼が当たり前のように見せてくれる真っ直ぐな日常が、どうしようもなく愛おしかったのだ。
「表の英雄には、悲劇なんて似合わない……! 俺が……お前の日常の盾になる……!!」
血の涙を流し、喉を切り裂くような絶叫を上げながら、空は最後の力を振り絞って演算を回し続けた。
――そして。
上条当麻の右手が、インデックスの脳に刻まれた呪縛『
閃光が弾け、世界が純白に染まった。
直後、空の頭上を覆っていた巨大な力の渦が、嘘のように消え去った。
光の柱は途切れ、最後の破片が空の防護網に弾かれて夜の彼方へと消えていく。
「……終わっ……た、か……」
役目を終えた最後の一枚のトランプが、パァンッと音を立てて灰になり、夜風に舞い散る。
空は両腕から力が抜け、そのまま屋上のコンクリートへと崩れ落ちた。
べちゃり、と自分の血溜まりの中に倒れ込む。
視界がひどく霞む。全身の骨がギシギシと軋み、息をするだけで肺の奥から血の味がした。指先一つ動かすことすらできない。
(上条……)
『肉体再生』の演算だけを無意識領域に残し、ゆっくりと塞がっていく傷の熱を感じながら、空は薄れゆく意識の中で星空を見上げた。
事件は終わった。
上条は勝ったのだ。あの理不尽な魔術から、少女の命を救い出した。
自分が守りたかった日常は、明日からもまた続いていく。
血まみれの顔のまま、空の唇がわずかに緩み、安堵の笑みを形作る。
しかし。
その奇跡のような勝利の代償として、親友である上条当麻の脳の細胞が破壊され、彼の『これまでの人生の記憶』がすべて失われてしまったことを。
空が知るのは、もう少し先のことだった。