数日後。
第七学区にある、カエル顔の優秀な医師が院長を務める大型病院。
消毒液の匂いが漂う白を基調とした静かな廊下を、瀬川空はゆっくりとした足取りで歩いていた。
「……痛ぇな」
誰にも聞こえない声で、小さく毒を吐く。
夏真っ盛りだというのに、空は薄手の長袖シャツを着込んでいた。その下には、数日前の『
《肉体再生》の演算を常時微弱に流し続け、どうにか歩行可能な状態を保っているが、顔色は決して良くない。いつもの目の下の隈は、さらに色濃くなっていた。
それでも、彼にはどうしても確かめなければならないことがあった。
上条当麻の病室の前。
少しだけ開いたドアの隙間から、聞き慣れた賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
「とうま! お腹すいたんだよ! ご飯まだ!? とうまの分のご飯もわたしが食べてあげるから!」
「待て待て待て! お前、上条さんが怪我人で入院してるって分かってんのか!? ていうか、さっき見舞いのりんごをウサギさんカットにして全部剥いてやったばっかだろうが!」
「りんごはおやつだよ! ご飯じゃないよ!」
「お前の胃袋はどうなってんだよぉぉっ! 不幸だぁぁぁ!」
インデックスの無邪気な声と、上条の情けない叫び声。
騒がしくも温かい、いつもの彼らのやり取りだった。
「……良かった。無事だったか」
空は廊下の壁に背中を預け、安堵の息を長く吐き出した。
どうやら、あの夜の死闘は無事に終わったらしい。インデックスも元気そうだし、上条も相変わらず不幸な星の下で元気に振り回されている。
小さく微笑み、空は病室のドアをノックしようと手を伸ばした。
だが、その瞬間。
病室の中、インデックスがテレビのアニメ番組に気を取られ、くるりと背を向けたその隙。
ドアの隙間から見えた上条当麻のふとした横顔を見て、空の心臓が冷たく凍りついた。
(……なんだ、今の目は)
ノックしようとした手が、空中でピタリと止まる。
上条の目は、インデックスの背中を見つめながら、ひどく怯えていた。
いや、違う。怯えだけではない。
何も知らない。何も覚えていない。自分の現在地すら分からず、暗闇に放り出された迷子のような、途方もない孤独を抱えた目。
自分が「上条当麻」であることすら確信を持てていないような、酷く空虚な瞳だった。
空は、息を呑んだ。
自分は空っぽの器だ。だからこそ、常に他人の感情を読み取り、他人の顔色を窺い、その場に合った「瀬川空」という人間を
人間の些細な表情筋の動き、視線の揺れ、声のトーン。それらを誰よりも観察し、模倣し続けてきた空だからこそ、残酷なまでに分かってしまった。
毎朝、鏡の前で「いつもの笑顔」を練習している自分と、同じ顔だ。
――上条当麻は、記憶を失っている。
確信だった。
あの夜、あの神の魔術を打ち消した代償として、彼は自分の過去を丸ごと失ったのだ。
空は、そっと伸ばした手を下ろし、気配を消して病室の前から離れた。
♢
数分後。
廊下の突き当たりにある自動販売機コーナーで、空は極甘の缶コーヒーを買って佇んでいた。
そこへ、飲み物を買いに病室を出てきた上条が、重い足取りで現れる。
周囲に誰もいないことを確認したのか、上条は深く、ひどく疲れ切ったため息を吐き出した。それは「インデックスに振り回される不幸な上条当麻」のものではなく、「見知らぬ世界でたった一人、孤独に耐える少年」の吐息だった。
「よお、上条。災難だったな」
空がわざと明るい声で声をかける。
「うおっ!?」
上条の肩が大きく跳ねた。ビクビクとこちらを振り返るその目は、一瞬だけ「誰だ?」と警戒するような色を浮かべたが、瞬時にいつもの「上条当麻」の表情へと切り替わる。
「……お、お前、なんでここに!?」
大袈裟に驚いてみせる上条。その態度は、記憶を失う前の彼そのものだった。
だが、空には分かる。その反応速度がコンマ数秒遅いこと。そして、ポケットに突っ込んだ右手が、微かに震えていることが。
空は、あえて自分から情報を与えるように、いつもの調子で言葉を紡いだ。
「何だよ。お前の大親友、
「あ、あぁ! 全くだぜ。上条さんはあいつの食欲のせいで、入院中だってのに休む暇もないけどな!」
名前と状況。
空が与えたピースを拾い上げ、必死に会話を成立させようと笑いながら答える上条。
その笑顔の裏側で、彼がどれほどの恐怖とプレッシャーと戦っているのか。想像するだけで、空の胸の奥がギリギリと締め付けられた。
(こいつは、自分の記憶がないことを、隠し通すつもりなんだ)
あの泣き虫なシスターが、自分のせいで恩人が記憶を失ったと知れば、どれほど傷つくか。
それを分かっているから、上条当麻は「上条当麻」を演じ続けることを選んだ。
大切な人の笑顔を守るために。
空っぽになってしまった自分という器を、嘘の笑顔で覆い隠して。
「……上条」
空は、手に持っていたもう一本の極甘缶コーヒーを、上条の胸元へ押し付けた。
「え? あ、サンキュ……って、お前これ、どんだけ甘いか分かってんのか!? 糖尿病になるわ!」
記憶がなくても、味覚や常識は残っているらしい。顔を引きつらせる上条に、空は小さく笑った。
「いいから飲め。糖分は脳にいいんだぞ。疲れた時には一番だ」
そして。
空は、いつもの飄々とした態度を消し、真剣な目で上条を真っ直ぐに見つめた。
「何かあったら、俺を頼れよ」
「……瀬川?」
「馬鹿な相談でも、金貸してくれでも、腹が減ったからメシ食わせろでも、なんでもいい。……俺たち、ダチだろ?」
上条の目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
すべてを見透かされたのではないかという焦りと、それに勝る、無条件の肯定への安堵。
迷子になっていた少年は、その言葉に救われたように、優しく目を細めた。
「……あぁ。頼りにしてるぜ」
二人は、軽く拳を突き合わせた。
上条の右手の震えは、もう止まっていた。
空は背を向け、病院の廊下を歩き出す。
振り返らない。これ以上顔を見れば、お人好しの親友のために泣いてしまいそうだったから。
(上条。お前も、大切なもののために『自分』を殺したんだな)
過去の記憶を持たない、上条当麻。
自我を持たない、瀬川空。
二人はあまりにも似ていた。だからこそ、空の胸には揺るぎない決意が固まっていた。
「お前がその嘘を突き通すって言うなら。俺は全力で、その嘘に付き合う」
表の主人公が、記憶を失ってなお誰かを救い続けるため、仮面を被るのなら。
裏の掃除屋は、その主人公が帰るべき「日常」の席を、どれだけ血を流してでも死守してみせる。
病院の自動ドアを抜けると、夏の眩しい日差しが空の身体を照らした。
入道雲が湧き上がる青空の下、蝉の鳴き声が街を包んでいる。
光り輝く学園都市の表側と、血に塗れた裏側。
その境界線を歩き続ける瀬川空の孤独な戦いは、ここからいよいよ、後戻りのできない深淵へと足を踏み入れていく。