とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第二話:空洞(エンプティ)

彼が「空」という名前に少しずつ慣れ始めた頃だった。

最初は呼ばれても振り向けなかった。

「空」

そう呼ばれるたび、自分のことではないような気がした。

それでも瀬川は何度でも笑って呼んだ。

「空ー!おーい、どこ行った!…よしっ、ようやく見つけたぞ。ってまたアリ見てるのか?」

そのたびに彼は少しだけ笑うようになった。

名前を呼ばれることが嬉しい。

そんな感情を知った。

気付けば瀬川の後ろを子犬のようについて歩き、料理を作る姿を眺め、失敗して焦げた卵焼きを一緒に食べて笑う。

「ごめんなぁ、また失敗した」

「……おいしい」

「嘘つけ。炭じゃねぇか」

二人で笑った。

施設の子どもたちは「また瀬川先生がやらかしてる」と笑い、園長は呆れたようにため息をつく。

そんな何気ない日常が、空にとっては世界そのものだった。

だから。

その世界は、あまりにも簡単に壊れた。

 

 

夜。

施設中へ焦げ臭い匂いが充満していた。

「火事だ!!」

誰かの悲鳴。

その直後、窓ガラスが爆ぜる。

轟ッ、と。

まるで生き物のような紅蓮の炎が廊下を駆け抜けた。

「きゃあああっ!」

「助けて!」

子どもたちの泣き声。

職員たちの怒号。

しかし、誰も状況を理解できない。

火災報知器は鳴らない。

スプリンクラーも作動しない。

消火設備はすべて沈黙していた。

まるで最初から、この施設を燃やすためだけに準備された舞台のようだった。

「空!」

瀬川が勢いよく部屋へ飛び込んでくる。

「こっちだ!」

何も分からない空の手を強く握り、そのまま煙の中を走り出した。

「先生……!」

「喋るな! 煙を吸う!」

熱い。

苦しい。

煙で目が開かない。

それでも瀬川の手だけは離さなかった。

いや、離せなかった。

彼だけが世界で唯一、自分を「空」と呼んでくれる人だったから。

廊下へ出た瞬間だった。

 

コツ。

 

コツ。

 

コツ。

 

炎の向こうから足音が聞こえる。

まるで散歩でもしているかのような、ゆっくりとした足取り。

「――――」

聞いたこともない言葉だった。

外国語とも違う。

歌のようで、祈りのようで。

耳にしただけで背筋が粟立つ奇妙な響き。

炎の中から現れた男は、黒いローブをまとい、一本の杖を携えていた。

科学の街には似つかわしくない異物。

その杖が軽く振られた瞬間。

 

ゴウッ――!!

 

炎が意思を持った蛇のようにうねり、壁を這い、天井を突き破る。

物理法則など存在しない。

そこにあるのは、世界を書き換える理不尽だけだった。

後に空が知ることになる。

それは超能力ではない。

 

魔術(・・)

 

科学とは異なる世界の法則だった。

「走れ!!」

瀬川が叫ぶ。

しかし。

炎の蛇が空だけを狙って牙を剥いた。

「ひっ……!」

逃げられない。

幼い足では間に合わない。

死ぬ。

そう思った、その瞬間。

空の視界を、大きな背中が覆った。

「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

耳を裂く絶叫。

肉が焼ける音。

鼻を突く焦げ臭さ。

瀬川だった。

彼は迷いなく空を抱き締め、その身一つで炎を受け止めた。

「……せが、わ……さん?」

返事はない。

膝をついた瀬川の制服は燃え上がり、皮膚は炭のように黒く焼け焦げていく。

それでも最後まで空だけは庇っていた。

「……空」

かすれる声。

「生きろ」

それだけだった。

その身体は前へ倒れ。

二度と動かなかった。

 

 

「素晴らしい」

暗い研究室。

壁一面のモニターへ映し出される炎。

その中央で、一人の男が恍惚とした笑みを浮かべていた。

「いい……実にいい」

白衣の袖を握り締め、震える声で呟く。

「これだ、これこそが求めていた解法だ」

男の名は、木原虚。

被験体5271――いわゆる瀬川空を担当する研究員だった。

彼の瞳に、人間へ向ける感情は一切存在しない。

あるのは実験結果への興味だけ。

「愛着を持った対象を目の前で喪失する。希望が絶望へ反転する。人格形成直後の幼児へ極限のストレスを与える。…さて。」

口角が吊り上がる。

「君はどんな自己保存機構を選ぶ?心を閉ざすか。狂うか。憎悪に支配されるか。あるいは――」

モニターの向こうの幼子を見つめながら、木原は歓喜に震える。

「自己そのものを消すか。見せてくれよ。被験体5271。私だけの最高傑作。」

 

 

目の前には炎。

世界で一番優しかった人は動かない。

呼んでも返事はない。

触れても温かくない。

 

どうして。

 

どうして。

 

どうして。

 

幼い脳が理解を拒絶する。

その瞬間。

何かが音を立てて崩れた。

(……そうか)

熱さが消えていく。

涙も止まる。

(望んだから。)

(好きになったから。)

(大切だと思ったから。)

失った。

胸が痛い。

息が苦しい。

世界が壊れそうだ。

なら。

そんなものはいらない。

望まなければ失わない。

好きにならなければ苦しまない。

自分が存在するから傷付くのなら。

自分なんて、なくなればいい。

幼い防衛本能は、自らの人格へ刃を向けた。

自我を削る。

感情を捨てる。

願いを消す。

自分だけの|現実(パーソナルリアリティ)』を、一から書き換えていく。

空に。

空っぽに。

何もない器へ。

何も映さない器へ。

その瞬間。

少年の瞳から、光が静かに消えた。

そして後に学園都市は、この”空洞”こそが常識を逸脱した能力の器になることを知る。

だが、この夜、その事実を知る者は誰もいなかった。

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