彼が「空」という名前に少しずつ慣れ始めた頃だった。
最初は呼ばれても振り向けなかった。
「空」
そう呼ばれるたび、自分のことではないような気がした。
それでも瀬川は何度でも笑って呼んだ。
「空ー!おーい、どこ行った!…よしっ、ようやく見つけたぞ。ってまたアリ見てるのか?」
そのたびに彼は少しだけ笑うようになった。
名前を呼ばれることが嬉しい。
そんな感情を知った。
気付けば瀬川の後ろを子犬のようについて歩き、料理を作る姿を眺め、失敗して焦げた卵焼きを一緒に食べて笑う。
「ごめんなぁ、また失敗した」
「……おいしい」
「嘘つけ。炭じゃねぇか」
二人で笑った。
施設の子どもたちは「また瀬川先生がやらかしてる」と笑い、園長は呆れたようにため息をつく。
そんな何気ない日常が、空にとっては世界そのものだった。
だから。
その世界は、あまりにも簡単に壊れた。
♢
夜。
施設中へ焦げ臭い匂いが充満していた。
「火事だ!!」
誰かの悲鳴。
その直後、窓ガラスが爆ぜる。
轟ッ、と。
まるで生き物のような紅蓮の炎が廊下を駆け抜けた。
「きゃあああっ!」
「助けて!」
子どもたちの泣き声。
職員たちの怒号。
しかし、誰も状況を理解できない。
火災報知器は鳴らない。
スプリンクラーも作動しない。
消火設備はすべて沈黙していた。
まるで最初から、この施設を燃やすためだけに準備された舞台のようだった。
「空!」
瀬川が勢いよく部屋へ飛び込んでくる。
「こっちだ!」
何も分からない空の手を強く握り、そのまま煙の中を走り出した。
「先生……!」
「喋るな! 煙を吸う!」
熱い。
苦しい。
煙で目が開かない。
それでも瀬川の手だけは離さなかった。
いや、離せなかった。
彼だけが世界で唯一、自分を「空」と呼んでくれる人だったから。
廊下へ出た瞬間だった。
コツ。
コツ。
コツ。
炎の向こうから足音が聞こえる。
まるで散歩でもしているかのような、ゆっくりとした足取り。
「――――」
聞いたこともない言葉だった。
外国語とも違う。
歌のようで、祈りのようで。
耳にしただけで背筋が粟立つ奇妙な響き。
炎の中から現れた男は、黒いローブをまとい、一本の杖を携えていた。
科学の街には似つかわしくない異物。
その杖が軽く振られた瞬間。
ゴウッ――!!
炎が意思を持った蛇のようにうねり、壁を這い、天井を突き破る。
物理法則など存在しない。
そこにあるのは、世界を書き換える理不尽だけだった。
後に空が知ることになる。
それは超能力ではない。
科学とは異なる世界の法則だった。
「走れ!!」
瀬川が叫ぶ。
しかし。
炎の蛇が空だけを狙って牙を剥いた。
「ひっ……!」
逃げられない。
幼い足では間に合わない。
死ぬ。
そう思った、その瞬間。
空の視界を、大きな背中が覆った。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
耳を裂く絶叫。
肉が焼ける音。
鼻を突く焦げ臭さ。
瀬川だった。
彼は迷いなく空を抱き締め、その身一つで炎を受け止めた。
「……せが、わ……さん?」
返事はない。
膝をついた瀬川の制服は燃え上がり、皮膚は炭のように黒く焼け焦げていく。
それでも最後まで空だけは庇っていた。
「……空」
かすれる声。
「生きろ」
それだけだった。
その身体は前へ倒れ。
二度と動かなかった。
♢
「素晴らしい」
暗い研究室。
壁一面のモニターへ映し出される炎。
その中央で、一人の男が恍惚とした笑みを浮かべていた。
「いい……実にいい」
白衣の袖を握り締め、震える声で呟く。
「これだ、これこそが求めていた解法だ」
男の名は、木原虚。
被験体5271――いわゆる瀬川空を担当する研究員だった。
彼の瞳に、人間へ向ける感情は一切存在しない。
あるのは実験結果への興味だけ。
「愛着を持った対象を目の前で喪失する。希望が絶望へ反転する。人格形成直後の幼児へ極限のストレスを与える。…さて。」
口角が吊り上がる。
「君はどんな自己保存機構を選ぶ?心を閉ざすか。狂うか。憎悪に支配されるか。あるいは――」
モニターの向こうの幼子を見つめながら、木原は歓喜に震える。
「自己そのものを消すか。見せてくれよ。被験体5271。私だけの最高傑作。」
♢
目の前には炎。
世界で一番優しかった人は動かない。
呼んでも返事はない。
触れても温かくない。
どうして。
どうして。
どうして。
幼い脳が理解を拒絶する。
その瞬間。
何かが音を立てて崩れた。
(……そうか)
熱さが消えていく。
涙も止まる。
(望んだから。)
(好きになったから。)
(大切だと思ったから。)
失った。
胸が痛い。
息が苦しい。
世界が壊れそうだ。
なら。
そんなものはいらない。
望まなければ失わない。
好きにならなければ苦しまない。
自分が存在するから傷付くのなら。
自分なんて、なくなればいい。
幼い防衛本能は、自らの人格へ刃を向けた。
自我を削る。
感情を捨てる。
願いを消す。
『
空に。
空っぽに。
何もない器へ。
何も映さない器へ。
その瞬間。
少年の瞳から、光が静かに消えた。
そして後に学園都市は、この”空洞”こそが常識を逸脱した能力の器になることを知る。
だが、この夜、その事実を知る者は誰もいなかった。