八月上旬。
学園都市の夏は、もはや災害レベルで容赦がない。
アスファルトの照り返しと、無数に立ち並ぶビル群や研究施設が吐き出す尋常ではない排熱によって、第七学区は巨大なサウナと化していた。街路樹の蝉の声すら、熱気に当てられてどこか狂ったようなテンションで鳴きしきっている。
そんな殺人的な猛暑の中、第七学区にある高校の、クーラーの設定温度がなぜか異常に高く設定された教室では、別の意味で熱を帯びた声が響き渡っていた。
「上条! 土御門! 青髪! そして瀬川ぁっ!」
ダンッ!! と、分厚い英語の参考書が教卓に叩きつけられる。
額に青筋を浮かべて仁王立ちしているのは、クラスメイトであり、自他共に認める鉄壁の委員長・吹寄制理だった。
「小萌先生に泣きつかれたから、私の貴重な勉強時間を割いて仕方なく見てあげてるけど……なんであんたたち、揃いも揃っていまだに夏休みの課題が白紙なわけ!? 特に上条! あんた入院してたって聞いたから大目に見ようかと思ったけど、それにしても酷すぎるわよ!」
「ひぃっ!? い、いや、これには深い海よりも深い事情がありまして……!」
上条当麻が冷や汗をダラダラと流しながら、ジリジリと後ずさる。
その横で、土御門元春は「にゃー。カミやんがやらないって言うから俺も同調したぜよ」とあっさり親友を売り飛ばし、青髪ピアスは「怒りで揺れる吹寄はんのたわわな果実もええなぁ!」と的外れな感動をして吹寄のケリをすねに食らっていた。
空は、少し離れた席からいつもの極甘缶コーヒーを握りしめ、苦笑いを浮かべていた。
(……相変わらずだな)
いや、相変わらず
空の目には、上条の微かな戸惑いと、必死に脳を回転させている焦りが痛いほどに見えていた。
上条当麻は、記憶を失っている。
目の前で怒り狂う『吹寄制理』というクラスメイトの名前は、土御門たちの呼び方から推測できただろう。だが、「これまでの関係性」や「適切な距離感」が分からないのだ。
怒られている時、上条当麻なら平謝りするのか? それとも理不尽を嘆いて言い返すのか?
周囲の反応を手探りで測り、与えられた情報から『上条当麻ならこうするだろう』という
「そもそも瀬川! あんたもあんたよ!」
不意に、吹寄の矛先が空へと向いた。
「成績優秀で、常盤台中学の特別講師まで任されてるあんたが、なんでこのバカ三人組と一緒に補習受けてるのよ!一体どういう風の吹き回し!?」
「あー……ごめん、吹寄さん」
空は立ち上がり、困ったように笑って後頭部を掻いた。
「俺がこいつらの課題を見てやる約束だったんだけど、ちょっと……深夜のバイトが忙しくて、俺が寝坊してすっぽかしちゃってさ。だから連帯責任ってことで」
「……はぁ」
吹寄は深い深いため息をついた。
「あんたがそこまで言うなら仕方ないけど。あんまりこいつらに甘くしちゃダメよ。瀬川は優しすぎるのよ。あと、その甘ったるい缶コーヒーも健康に悪いからやめなさい!」
「善処します」
空がさらりと間に入り、自ら泥を被ったことで、吹寄の怒りのトーンが一段階下がった。
(……よし)
空は極甘の缶コーヒーのプルタブを開け、コーヒーを喉に流し込みながら、親友の背中を静かに見つめた。
上条が、誰にも気づかれないレベルで、微かに安堵の息を吐いたのが分かった。
(上条。お前は今、必死で「上条当麻」を演じてる)
自分が記憶を失ったと知れば、インデックスや土御門、青髪、そして小萌先生たちがどれほど心配し、悲しむか。
その優しさゆえに、過去の自分という実体のない幽霊を追いかけ、ボロを出さないように綱渡りをしている。
その姿は。
かつて恩人を失った絶望から心を閉ざし、周囲の顔色に合わせて「瀬川空」という都合の良い仮面を被った自分自身と、酷似していた。
だからこそ、痛いほどに分かる。
誰にも本音を言えず、周囲を騙し続けることが、どれほど孤独で、息の詰まる作業なのかを。
(……任せろ)
空は小さく微笑み、上条の隣の席に腰を下ろした。
(お前が「過去の上条当麻」を必死にエミュレートするなら。俺は、「お前の一番の理解者」をエミュレートしてやる)
「ほら上条、土御門、青髪。これ以上吹寄さんが怒らないうちに課題終わらせるぞ。まずは数学からだ」
空はノートを広げ、上条の肩を軽く小突いた。
「ほら、お前は公式の丸暗記は苦手だけど、図形問題は得意だっただろ。ここはこうして解くんだ」
「えっ? あ、ああ、そうだったそうだった! 上条さんは図形が得意なんですよ!」
「カミやん、嘘つけにゃー。この前の中間テスト、図形問題全滅だったぜよ」
「なっ!? 土御門、お前なんてことバラすんだよ!」
「ほらほら、カミやんのボロが出たで! 吹寄はん、ここぞとばかりにカミやんを踏んづけてやってくだせぇ!」
「なんで私が踏むのよこのド変態!!」
空がさりげなく「
お前がボロを出しそうになれば、俺が自然な会話の流れでカバーする。
お前が関係性に迷えば、俺がさりげなく正解の
俺の
「瀬川ぁぁぁっ! お前、マジで命の恩人だよ! 俺の脳細胞じゃこの数式は一生解けなかった!」
上条が、涙目で空の手を握りしめてくる。
「大袈裟だなぁ。ほら、手ェ動かせ」
上条の記憶がない以上、今の彼が自分に向けている感謝も、友情も、厳密には過去からの地続きではない。
嘘と演技で塗り固められた、薄氷の上に成り立つ関係かもしれない。
それでも。
窓の外のやかましい蝉の声を掻き消すほどに、この教室に響き渡る彼らの笑い声だけは。
空にとって、紛れもない『本物』だった。