夕方。
吹寄制理による地獄の補習からようやく解放された四人は、まるでオアシスに吸い込まれる砂漠の遭難者のように、駅前のファミリーレストランへと流れ着いていた。
「不幸だぁぁぁ……。なんで退院早々、クーラーの効きすぎた教室で因数分解やら現在完了形やらを何時間も見なきゃいけねぇんだよ……。上条さんの脳細胞はすでにショート寸前ですよ……」
窓際のボックス席の奥。上条当麻が、テーブルの冷たい天板に突っ伏して完全に干からびている。
「まぁまぁカミやん。ここは一つ、俺の特製アイスコーヒーでも飲んで元気出すぜよ」
土御門元春が、サングラスの奥でニヤリと笑いながらグラスを差し出した。
「お前のアイスコーヒー、さっきドリンクバーの影でタバスコ丸々一本入れてただろ! 誰が飲むかそんな致死量の赤い液体!」
「チッ、見られてたかにゃー」
「青髪! お前、人が土御門の暗殺未遂を防いでる隙にまた俺のフライドポテト食っただろ!」
「え? いやいやカミやん、人聞きの悪いこと言わんといて。これは俺の胃袋が塩分と炭水化物を強烈に求めた結果の、大自然の摂理やで?」
「ふざけんな! お前の胃袋の摂理なんか知るか!」
ファミレスの店内に響き渡る、いつもの騒がしい光景。
周囲の客たちも「またいつもの高校生たちか」と苦笑いしながら通り過ぎていく。
瀬川空は、向かいの席からそのドタバタ劇を眺めつつ、カバンから取り出した極甘の缶コーヒーのプルタブを開け、ゆっくりと傾けていた。
舌を焼くような強烈な甘さが、補習で疲労した脳へ染み渡っていく。
「……ん」
ふと、上条と目が合った。
上条はポテトを巡る青髪との不毛な攻防の手を止め、少しだけ申し訳なさそうに、そして探るような顔で空を見た。
先ほどの教室で、空がさりげなく吹寄との会話を誘導し、自分の『記憶喪失』のボロが出ないように立ち回って庇っていたと、上条は感じているのだろう。無論、上条本人は空が自身の記憶喪失に気づいていることは知らない。
『……悪かったな、気ぃ使わせて』
言葉には出さないが、上条の瞳は確かにそう語っていた。
だが、空は何も言わず、ただいつものように「困ったやつらだ」という風に肩をすくめ、小さく笑ってみせた。
『気にするな。お前はお前のままでいればいい』
その無言のメッセージを受け取ったのか。
上条の表情からフッと強張った緊張が抜け、心底楽しそうで、気の抜けた笑顔が浮かんだ。
記憶喪失という重圧を背負った少年の顔ではない。ただの、どこにでもいる高校生の『上条当麻』の顔だった。
「おっしゃ青髪! そこまで言うなら上条さんのこの不幸な右手で、お前の頼んだ山盛りポテトも唐揚げも全部平らげてやる!」
「あかん! それだけは堪忍して! 俺の財布はすでに氷河期なんや!」
本気でじゃれ合い、笑い転げる二人の姿を見つめながら、空は缶コーヒーの甘さを静かに噛み締める。
(……記憶がなくても、根っこは何も変わってないな)
目の前で困っている誰かを見過ごせない、底抜けにお人好しな性格も。
貧乏くじばかり引いて、「不幸だ」と叫びながらも決して逃げ出さない強さも。
上条当麻という人間の『魂』は、過去の記憶というデータを失っても、決して失われてはいなかった。
(俺は、空っぽだ)
空は自嘲気味に、自分の胸の奥に空いた巨大な空洞を意識する。
悲しみも、怒りも、喜びも、すべては他人を観察して模倣した、借り物の感情でしかない。恩人を喪ったあの日、自ら自我を破壊してしまった自分には、上条のような確固たる魂はない。
でも。だからこそ。
この目の前にある、ひどく騒がしくて、温かい光景を。
自分の空洞に、一つでも多く詰め込みたいと、心の底から思えるのだ。
「瀬川はん! カミやんが横暴なんや! 助けて!」
青髪が涙目でこちらに助けを求めてくる。
「自業自得だろ。俺は手伝わないよ」
「冷たい! 瀬川はんはもっと慈愛に満ちたマリア様みたいな男やと思ってたのに!」
「慈愛に満ちてたら、そんな砂糖の塊みたいな極甘缶コーヒーなんてがぶ飲みしないぜよ」と土御門が笑う。
「それは関係ないだろ」
空も吹き出し、自然な笑い声を上げた。
自分でも驚くほど、素直で偽りのない声だった。
窓の外では、夏の夕暮れが学園都市のビル群を茜色に染め上げている。
永遠に続いてほしいと思える、平和な時間。
だが、空のズボンのポケットで、携帯端末が短く振動した。
暗部専用の暗号化通信。
空は笑顔を崩さないまま、テーブルの下で端末の画面を盗み見た。
『第十学区。三沢塾。詳細不明の魔術的結界を確認。内部への突入部隊あり。周辺の隠蔽および事後処理の準備を』
(……また、厄介なことになりそうだな)
魔術的結界。そして『表の人間』の突入。
おそらく、目の前でポテトを頬張っている
空は残りの甘いコーヒーを一気に飲み干し、空になったアルミ缶を片手で静かに、けれど力強く握り潰した。ベキッ、という小さな音が、空のスイッチを切り替える合図だった。
「さーて、俺はそろそろ帰るよ」
「お、もう帰るのか?」
上条が顔を上げる。
「うん。深夜のバイトがあるから」
「そっか。あんまり無理すんなよ! 寝不足で倒れたりしたら、小萌先生が泣くぞ!」
自分が一番ギリギリの綱渡りをしているくせに、友人を気遣うその温かい声。
空は「気を付けるよ」と背中越しに軽く手を振り、ファミレスを後にした。
自動ドアを抜け、生温かい夏の夕風を全身に浴びる。
夕闇に染まり始めた路地裏へ足を踏み入れた瞬間、空は「日常の顔」を完全に切り捨てた。
ニコニコとした柔らかな笑みは消え去り、瞳の奥から温かな光が失われる。
そこにいるのは、学園都市の不都合を人知れず排除する、冷徹なエラーチェッカーの貌だった。
(お前がどれだけ無茶をして、自分の身を削って誰かを救おうとしても)
空は、夕闇の底を歩き出す。
(お前が帰る場所は、絶対に俺が守る)
次の戦いの舞台は、三沢塾。
暗部の掃除屋は、親友が繰り広げるであろう死闘の余波を誰にも気づかせず処理するため、再び学園都市の深い闇へと沈んでいった。