八月上旬。
学園都市の夜は、昼間にアスファルトがたっぷりと吸い込んだ熱をじわじわと吐き出し、まとわりつくような不快な熱帯夜を生み出していた。
第七学区の中心部にそびえ立つ、巨大なオフィスビルのような外観を持つ『三沢塾』。
その周辺だけは、まるでこの街の喧騒から刃物で切り取られてしまったかのように、異様な静寂に包まれていた。
夏休みで浮かれる学生たちの姿はおろか、野良猫一匹、虫の音すら聞こえない。常に街を巡回しているはずの
その三沢塾を見下ろす、隣接するビルの屋上。
瀬川空は、吹き抜ける生温かい夜風に髪を揺らされながら、眼下の異常な空間を見下ろしていた。
手には、いつもの極甘缶コーヒー。だが、今日ばかりは一口も飲んでいない。結露した水滴が指先を濡らすのにも構わず、空は険しい瞳で三沢塾を睨みつけていた。
「……気持ち悪い気配だ」
空の研ぎ澄まされた感覚、あらゆる能力や法則を読み取る空っぽの器には、三沢塾の建物をすっぽりと覆い尽くす巨大な『歪み』がはっきりと感知できていた。
科学の街のルールを根底から否定し、空間そのものを歪める異界の法則。
暗部のネットワークから引き出した情報によれば、現在あの内部を占拠しているのは、元ローマ正教の隠秘記録官である魔術師、アウレオルス=イザード。
そして彼がこの学園都市に侵入してまで狙っているのは、吸血鬼を殺す能力を持つとされる一人の少女――『
「魔術師のテロ、か。……上条も、またとんでもなく厄介なものに巻き込まれたな」
視線の先。
三沢塾の正面入り口へと続く誰もいない大通りに、二つの人影が現れた。
一人は、全身を黒いコートで包み、口元にタバコを咥えた長身の魔術師、ステイル=マグヌス。
そしてもう一人は。
記憶を失ったばかりの親友――上条当麻だった。
空は、屋上の縁から身を乗り出すようにして、その背中を見つめた。
上条の足取りに、怯えや躊躇いは見られない。
(……上条。お前は記憶を失っても、自分が何者か分からない不安の中にいても。目の前の誰かを救うためには、当然のように火の粉の中へ飛び込んでいくんだな)
彼は今、自分の過去を何も知らない。ステイルとの因縁も、魔術の本当の恐ろしさも、実感としては持っていないはずだ。それでも、迷子のような不安を抱えたまま、彼は三沢塾に囚われているという見ず知らずの少女のために、命を懸けて死地へ向かっている。
「本当に、敵わないよ。お前には」
空は自嘲気味に笑い、そして、手にしていた缶コーヒーのプルタブを開け、一気に喉の奥へと流し込んだ。
砂糖の塊のような暴力的な甘さが、脳細胞を強制的に覚醒させる。
空になったアルミ缶をベキッと片手で握り潰し、そのまま屋上の隅へ放り投げた。
「主人公が舞台に上がったんだ。裏方は、裏方の仕事を始めないとな」
空はブレザーの裏地やズボンのポケットから、三箱もの真新しいトランプと、数十個のガラスのビー玉を取り出した。
チャキ、とカードを切る冷たい音が夜の静寂に響く。
「俺の仕事は、お前が戦う舞台から、ただの一つの被害も、ただの一つの不条理も、外の世界へ逃がさないことだ」
次の瞬間。
空は、地上数十メートルのビルの屋上から、何のためらいもなく虚空へと身を躍らせた。
猛烈な風圧が全身を叩く。自由落下の中、空の瞳から人間らしい温かな光がスッと消え失せた。
脳内に展開される、無数の演算式。
空は空中で数十個のビー玉を放り投げ、同時にトランプを自身の周囲に円状に展開した。
『エミュレート――空間座標、及び
宙を舞うトランプが、空中の指定された座標でピタリと静止する。それを足場にするように、空の靴底から放たれた『反発力』のベクトルが、落下のエネルギーを強制的に相殺していく。
タアンッ、タアンッ、と。
空中に見えない階段があるかのように、トランプを蹴りながら減速し、空は音もなく三沢塾の裏路地へと着地した。
アスファルトには傷一つなく、足音すら立たない完璧な降下。
直後。
空気が、ビリッと嫌な音を立てて震えた。
三沢塾の内部から、重低音のコーラスのような、不気味な歌声が響き渡る。
三千人もの生徒たちを洗脳し、強制的に詠唱させている『
建物全体が、まるで一つの巨大な生き物のように脈打ち、世界そのものを書き換えるような圧倒的なプレッシャーが外に向かって膨張し始めた。
『
思ったことが、そのまま現実になる。
言葉にしただけで人が死に、時間が逆行し、世界が己の思い通りに改竄される、神への叛逆。
アウレオルス=イザードが完成させようとしているその絶大な魔術の余波が、三沢塾の外壁を越え、学園都市の平和な夜の街へと漏れ出そうとしていた。
もしこの『現実改竄』の波が街に広がれば、どれほどの人間が犠牲になるか分からない。上条当麻の帰るべき日常の舞台が、根底から破壊されてしまう。
「さぁ、蓋の準備だ」
空は両手にトランプとビー玉を構え、三沢塾の巨大な外壁を見上げた。
彼の脳内で、キャパシティの限界に挑む並列処理が静かに、そして狂気的な速度で回り始める。
瞳から一切の感情を排し、ただ不都合を消し去るための機械。
瀬川空は、冷徹な『