「あ……あぁ……」
「う、ぅ……」
生温かい熱帯夜の空気を切り裂き、不気味なうめき声が路地裏に響き渡った。
三沢塾の裏口や、壁面に設置された無数の非常階段の鉄扉が内側から次々と押し開けられる。中から溢れ出してきたのは、焦点の合わないうつろな目をした、制服姿の生徒たちだった。
皆、一様に首をだらりと垂れ、まるで目に見えない糸で操られるマリオネットのような不自然な足取りで外界へと雪崩れ込んでくる。
アウレオルス=イザードが放った『侵入者を殺し、排除せよ』という理不尽な命令。その現実改竄によって強制的に生み出された、「偽の魔術師」たちだった。
「……ざっと見積もって、五百人はいるか。厄介だな」
空は路地裏の入り口、外界へと通じるただ一本の経路に単身立ち塞がり、両手に真新しいトランプを扇状に構えた。
相手は、どこにでもいるただの一般学生だ。アウレオルスの狂気的な魔術によって脳を弄られ、強制的に操られているだけで、彼ら自身には何の罪もない。
だから、殺すわけにはいかない。後遺症が残るような傷を負わせることも許されない。
だが、彼らがこの隔離ラインを越え、魔術という「異能」を持ったまま一般の街へ出れば、学園都市はパニックに陥り大惨事になる。
「ーーーーッ!」
最前列を歩いていた男子生徒が、突然、狂ったように叫び声を上げた。
虚ろな目のまま、自らの腕の筋肉が断裂するのも構わずに両手を突き出す。その指先からパチパチと火花が散り、直後、不完全ながらも強烈な熱を持った無数の火球が空へと襲いかかってきた。
「エミュレート――『
空が、手元のトランプを指先で一枚弾く。
前方数メートルの空間に不可視の防護壁が展開された。大気を圧縮した透明な壁に火球が激突し、さらに『流体反発』によって炎は、すべて空中でピタリと停止し、燃えカスとなって足元の水たまりへポロポロと落ちていった。
「悪いけど、ここから先は通行止めだ。少しの間、寝ててくれ」
間髪入れず、空は両手に持っていた数十枚のトランプを空高く放り投げた。
『エミュレート――催眠』。
空の演算によって、空中で静止したトランプが空中の光を乱反射させ、一斉にカメラのフラッシュのような強烈な光を放つ。同時に、人間の脳幹に直接作用して意識を刈り取る、特殊な周波数の音波を周囲一帯に放射した。
「がっ……!?」
「あ……、ぅ……」
光と音のシャワーを浴びた生徒たちが、次々と糸が切れたように、崩れ落ちていく。アスファルトに倒れ込み、安らかな寝息を立て始めた。
成功だ、と思った瞬間だった。
『――起き上がれ』
「っ……!?」
空の頭に、太いドリルを直接ねじ込まれるような、経験したことのない激痛が走った。
倒れた傍から、アウレオルスの放つ『
世界そのものを「己の言葉通り」に書き換える、神の魔術。その絶対的な命令に対し、空は外部から科学的な『催眠』のアプローチをかけ続け、強制的に相殺しようとしている。
それは例えるなら、巨大な暴走機関車を、素手で止めようとするようなものだった。
「ハァッ……ハァッ……!」
ポタ、ポタポタッ。
空の鼻から、一筋の線となって真っ赤な血が流れ落ち、白いシャツの胸元を染めた。
『眠れ』という空の限界を超えた演算と、『起きろ』というアウレオルスの魔術の命令が、生徒たちの意識をグラウンドにして激突する。その反動はすべて、ハブとなっている空の『空洞化された脳』へと致死量の負荷となって跳ね返ってきていた。
(持て……! 俺の脳髄、焼き切れるな……!)
全身の毛細血管が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。
だが、地獄はこれだけでは終わらなかった。
ドゴォォォンッ!!
今度は上空だった。三沢塾の巨大なガラス窓が一斉に弾け飛び、大量の破片と共に、空を覆い尽くすほどの『黄金の硬貨』が夜空へと射出された。
アウレオルスがギロチン代わりに用いる、触れれば空気を圧縮して爆発を起こす、致命的な魔術の雨。それが、上条たちの戦いの余波として、隔離ラインを越えて街の居住区へと降り注ごうとしていた。
「させるか……ッ! 上条の舞台から……一歩も、外へは出さねぇよ……!」
空は、鼻血で赤く染まった手で、ポケットからありったけのガラスのビー玉を掴み出し、上空へ向けて一斉に射出した。
限界を超えた脳を、さらに奥底まで強制起動させる。
『エミュレート――
ヒュンッ!! と、大気を切り裂く鋭い音が響く。
空の指先から射出され、音速を突破した数十個のビー玉が、降り注ぐ黄金の硬貨一つ一つの座標を正確に捉え、空中で激突した。
硬貨の爆発エネルギーを、『空間断裂』のベクトルで無理やり上空へと逸らす。
夜空に、ドムッ、ドムッ! と連続した相殺爆発が起こり、まるで夏祭りの無数の花火のように、黄金色の光が第七学区の空を照らした。
「がはっ……!」
直後、空の口から大量の鮮血が吐き出された。
激しい脳出血。キャパシティをとうに超えた演算により、ついに右目からもタラーッと血の涙が溢れ、視界の半分が赤黒く染まった。
膝がガクガクと震え、立っていることすら奇跡のような状態。
それでも。瀬川空は、三沢塾へと続く一本道から、一歩も退かなかった。
血に染まった顔で、前だけを睨みつける。
(今頃、あの中枢で。記憶を失った馬鹿なお人好しが、たった一人で魔王に挑んでいる)
なら、自分はどうだ。
表の主人公が、すべてを懸けて「目の前の命」を救おうとしているのなら。
「……来いよ。何人来ようが、何が降ってこようが……朝までだって、付き合ってやる」
血塗れの顔に、不敵で、狂気的な笑みが浮かぶ。
学園都市の深い闇の底で、瀬川空の孤独な防衛戦は、最も過酷な極限へと突入していった。