とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第二十四話:誰がための清掃(サイレント・クリーナー)

三沢塾の最上階で、何かが決定的に弾けた。

それは、自らを神へと昇華させたはずの魔王――アウレオルス=イザードの、限界を超えた恐怖と焦燥だった。

「……っ! 結界が、暴走してやがる……!」

三沢塾の裏路地で血まみれになっていた瀬川空は、頭を抱えて呻いた。

アウレオルスの『黄金錬成(アルス=マグナ)』のコントロールが完全に崩壊し、彼の放つ言葉が意味を成さなくなった結果、周囲の空間そのものが巨大なミキサーにかけられたように、グニャリとねじ曲がり始めたのだ。

建物の外壁という物理的な境界線を越え、その現実改変の津波が、空の守る隔離ラインへと容赦なく押し寄せてくる。

アスファルトが水面のように波打ち、堅牢なコンクリートの壁が飴細工のようにドロドロに溶け出す。

何よりも恐ろしいのは、空の背後で気絶している五百人もの生徒たちだった。彼らの肉体が、アウレオルスの無意識の恐怖に当てられ、腕が肥大化したり、皮膚が鱗のように硬質化したりと、おぞましい異形の肉塊へと変貌しかけていたのだ。

「させない……! させないって言ってんだろ……ッ!」

空は、血走った右目をカッと見開いた。

『エミュレート――肉体再生』

能力を最大出力でフル稼働させ、自らの崩壊していく脳血管を無理やり修復しながら、残されたすべてのガラスのビー玉と、胸ポケットに刺していた数本のペンを周囲の空中に展開した。

『エミュレート――多重展開』。

空の脳細胞が、限界を超えて焼き切れるような幻聴が響く。

彼は三沢塾全体を覆うように、巨大な「逆位相のドーム」を構築し始めた。

空間のねじれに対しては、空間を固定する『空間移動(テレポート)』のベクトル演算を。

生徒たちの肉体の変異に対しては、正常な細胞分裂を促す波長を。

そして、無差別に降り注ぐ魔力の暴走に対しては、それを相殺する精密な『念動力』のベクトル操作を。

「あああああああああああああっ!!」

夜の路地裏に、空の絶叫が響き渡る。

両目から、鼻から、口から。そして全身の毛穴から、限界を告げる赤い血が霧のように噴き出した。

空っぽの器に、許容量を遥かに超える、全く別々の法則をいくつも詰め込み、そして同時に吐き出す。それは人間の脳の構造を根本から無視した、文字通りの自殺行為だった。

意識が白濁し、自己崩壊の淵に立たされた、まさにその瞬間。

――パァァァァァァンッ!!

三沢塾の最上階から、分厚いステンドグラスが粉々に砕け散るような、ひどく澄んだ音が響き渡った。

上条当麻の右手に宿る、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』。

いや、違う。空の研ぎ澄まされた感覚は、その奥底から這い出た『目に見えない何か』――規格外の『竜』の顎が、アウレオルスの魔術そのものを、術者の恐怖ごと完全に噛み砕いた音を捉えていた。

途端に。

空の全身を押さえつけ、脳髄をすり潰そうとしていた圧倒的なプレッシャーが、嘘のようにフッと消え去った。

「……はぁっ、はぁっ、がはっ……!」

糸が切れたように、空は両膝をつき、大量の血と胃液をアスファルトに吐き出した。

全身が鉛のように重く、指先一つ動かすのにも骨が軋むような痛みが走る。

霞む視界で周囲を見渡すと、飴細工のように溶けかけていた空間は完全に正常な状態へと戻り、倒れていた生徒たちも、ただの気絶した学生として穏やかな寝息を立てていた。

終わったのだ。

あの記憶喪失のお人好しな親友が。たった一人で魔王に打ち勝ち、また一つ、誰かの世界を絶望から救い出したのだ。

「……よくやったな、上条」

血と泥に塗れた顔で、空は心底満足そうに、柔らかく笑った。

壁に手をついてフラフラと立ち上がり、ズボンのポケットから血で滑る携帯端末を取り出す。

『三沢塾周辺、魔術的汚染の封じ込め完了。対象の被害ゼロ。被害者の確保、及び記憶処理班、直ちに現場へ』

暗号化された回線に短く送信し、空は大きく深呼吸をして、最後の「仕事の仕上げ」に取り掛かった。

自身の能力『念動力』と『流体制御』を使い、路地裏に散乱した硬貨の破片や、ビー玉の残骸、そして何より、周囲に撒き散らされた自分自身の大量の血痕を、一つ残らず下水溝へと洗い流し、『浄化』して消し去っていく。

激戦の痕跡を、ただの「日常の風景」へと偽装する。

遠くから、ようやく事態を察知した警備員たちのパトカーのサイレンが鳴り響き始めた頃には、路地裏にはただ「集団で気絶している生徒たち」が平和に転がっているだけの空間が完成していた。

誰も、この外側で起きた絶望的な死闘を知らない。

生徒たちも、現場に駆けつける警備員たちも。

そして、中枢で魔王を打ち倒した上条当麻でさえ。自分が戦っている間に、外へ漏れ出そうとしていた大惨事を、友人がこれほどまでの血を流して食い止めていたことなど、知る由もない。

「……それでいい」

空は、足元に転がっていた、最後の極甘缶コーヒーを拾い上げた。

プルタブを開け、鉄の味がする血まみれの口内へと、無理やり黒い液体を流し込む。

砂糖の塊のような強烈な甘さが、擦り切れた脳神経の痛みを、ほんの少しだけ和らげてくれる気がした。

表の英雄がいて、裏の|清掃員(スイーパー)がいる。

傷つくのは自分一人でいい。誰も悲しまず、誰も真実を知らないからこそ、この街の平和で馬鹿馬鹿しい日常は明日も回っていくのだから。

夜明け前。

白み始めた学園都市の空の下、第七学区の深い闇の中を、ボロボロの体を引きずりながら、瀬川空は一人歩き出す。

帰る場所は、誰も待っていない、冷たい無機質な研究所の自室だけ。

だが、その孤独で暗い帰路すらも。今の彼の胸の奥には、親友がその右手で守り抜いた「明日」という眩しい世界への、確かな温もりが宿っていた。

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