三沢塾の最上階で、何かが決定的に弾けた。
それは、自らを神へと昇華させたはずの魔王――アウレオルス=イザードの、限界を超えた恐怖と焦燥だった。
「……っ! 結界が、暴走してやがる……!」
三沢塾の裏路地で血まみれになっていた瀬川空は、頭を抱えて呻いた。
アウレオルスの『
建物の外壁という物理的な境界線を越え、その現実改変の津波が、空の守る隔離ラインへと容赦なく押し寄せてくる。
アスファルトが水面のように波打ち、堅牢なコンクリートの壁が飴細工のようにドロドロに溶け出す。
何よりも恐ろしいのは、空の背後で気絶している五百人もの生徒たちだった。彼らの肉体が、アウレオルスの無意識の恐怖に当てられ、腕が肥大化したり、皮膚が鱗のように硬質化したりと、おぞましい異形の肉塊へと変貌しかけていたのだ。
「させない……! させないって言ってんだろ……ッ!」
空は、血走った右目をカッと見開いた。
『エミュレート――肉体再生』
能力を最大出力でフル稼働させ、自らの崩壊していく脳血管を無理やり修復しながら、残されたすべてのガラスのビー玉と、胸ポケットに刺していた数本のペンを周囲の空中に展開した。
『エミュレート――多重展開』。
空の脳細胞が、限界を超えて焼き切れるような幻聴が響く。
彼は三沢塾全体を覆うように、巨大な「逆位相のドーム」を構築し始めた。
空間のねじれに対しては、空間を固定する『
生徒たちの肉体の変異に対しては、正常な細胞分裂を促す波長を。
そして、無差別に降り注ぐ魔力の暴走に対しては、それを相殺する精密な『念動力』のベクトル操作を。
「あああああああああああああっ!!」
夜の路地裏に、空の絶叫が響き渡る。
両目から、鼻から、口から。そして全身の毛穴から、限界を告げる赤い血が霧のように噴き出した。
空っぽの器に、許容量を遥かに超える、全く別々の法則をいくつも詰め込み、そして同時に吐き出す。それは人間の脳の構造を根本から無視した、文字通りの自殺行為だった。
意識が白濁し、自己崩壊の淵に立たされた、まさにその瞬間。
――パァァァァァァンッ!!
三沢塾の最上階から、分厚いステンドグラスが粉々に砕け散るような、ひどく澄んだ音が響き渡った。
上条当麻の右手に宿る、『
いや、違う。空の研ぎ澄まされた感覚は、その奥底から這い出た『目に見えない何か』――規格外の『竜』の顎が、アウレオルスの魔術そのものを、術者の恐怖ごと完全に噛み砕いた音を捉えていた。
途端に。
空の全身を押さえつけ、脳髄をすり潰そうとしていた圧倒的なプレッシャーが、嘘のようにフッと消え去った。
「……はぁっ、はぁっ、がはっ……!」
糸が切れたように、空は両膝をつき、大量の血と胃液をアスファルトに吐き出した。
全身が鉛のように重く、指先一つ動かすのにも骨が軋むような痛みが走る。
霞む視界で周囲を見渡すと、飴細工のように溶けかけていた空間は完全に正常な状態へと戻り、倒れていた生徒たちも、ただの気絶した学生として穏やかな寝息を立てていた。
終わったのだ。
あの記憶喪失のお人好しな親友が。たった一人で魔王に打ち勝ち、また一つ、誰かの世界を絶望から救い出したのだ。
「……よくやったな、上条」
血と泥に塗れた顔で、空は心底満足そうに、柔らかく笑った。
壁に手をついてフラフラと立ち上がり、ズボンのポケットから血で滑る携帯端末を取り出す。
『三沢塾周辺、魔術的汚染の封じ込め完了。対象の被害ゼロ。被害者の確保、及び記憶処理班、直ちに現場へ』
暗号化された回線に短く送信し、空は大きく深呼吸をして、最後の「仕事の仕上げ」に取り掛かった。
自身の能力『念動力』と『流体制御』を使い、路地裏に散乱した硬貨の破片や、ビー玉の残骸、そして何より、周囲に撒き散らされた自分自身の大量の血痕を、一つ残らず下水溝へと洗い流し、『浄化』して消し去っていく。
激戦の痕跡を、ただの「日常の風景」へと偽装する。
遠くから、ようやく事態を察知した警備員たちのパトカーのサイレンが鳴り響き始めた頃には、路地裏にはただ「集団で気絶している生徒たち」が平和に転がっているだけの空間が完成していた。
誰も、この外側で起きた絶望的な死闘を知らない。
生徒たちも、現場に駆けつける警備員たちも。
そして、中枢で魔王を打ち倒した上条当麻でさえ。自分が戦っている間に、外へ漏れ出そうとしていた大惨事を、友人がこれほどまでの血を流して食い止めていたことなど、知る由もない。
「……それでいい」
空は、足元に転がっていた、最後の極甘缶コーヒーを拾い上げた。
プルタブを開け、鉄の味がする血まみれの口内へと、無理やり黒い液体を流し込む。
砂糖の塊のような強烈な甘さが、擦り切れた脳神経の痛みを、ほんの少しだけ和らげてくれる気がした。
表の英雄がいて、
傷つくのは自分一人でいい。誰も悲しまず、誰も真実を知らないからこそ、この街の平和で馬鹿馬鹿しい日常は明日も回っていくのだから。
夜明け前。
白み始めた学園都市の空の下、第七学区の深い闇の中を、ボロボロの体を引きずりながら、瀬川空は一人歩き出す。
帰る場所は、誰も待っていない、冷たい無機質な研究所の自室だけ。
だが、その孤独で暗い帰路すらも。今の彼の胸の奥には、親友がその右手で守り抜いた「明日」という眩しい世界への、確かな温もりが宿っていた。